21 お風呂
扉を開けると、白い湯気の塊がゆっくりと漏れてくる。
ほんのりと温かいその空気は、一挙にノエルの体を湿らせた。
――豪華なものだな。
心のなかでそう呟くと、真っ直ぐに湯船の方へと向かう。
ここは城の地下。
この建物に一つだけある浴場は、質素な作りながらも、たった一人で使うにしては有り余るほどの広さを誇っていた。
壁に開いた穴からは、常時温かいお湯が浴槽へと注がれており、じゃぼじゃぼと小気味の良い音を立てている。
茶褐色で濁ったお湯は……おそらく温泉だろうか。
ノエルはその華奢な足をそっとをお湯につける。
そしてゆっくりと、膝、お腹、胸と順番に沈めていく。
熱が体にじんわりと伝わると同時に、溜まった疲れが滲み出てきて、思わずノエルは軽く呻った。
「どう、気持ちいい?」
リラックスしていたところ、ふと聞こえてきた声にノエルは驚いた。
肩まで伸ばした赤い髪を揺らし、一糸もまとわない姿でこちらへと向かって歩いてくる魔族の女。
リュシアだった。この城の持ち主であり、風呂に入ることを進めた張本人。
彼女が泥々になった三人を見て、お風呂を貸してくれたのである。
「お、おい、俺は男だぞ」
「そう? 私には可愛らしい女の子が見えるけど」
目を見開いて必死に抗議するノエル。腕を体に巻き付けて、必死に肌を隠そうとしていたが、無駄な努力であることには変わりなかった。
一方のリュシアは全く気にすることなく、同じ湯船に入り、ノエルの横に座った。
そんなリュシアに、疲れた様子でノエルはため息を吐いた。
まだこの体には慣れないし、女のように扱われるのはとても居心地が悪く、疲れる。
「何故あんなに草まみれだったわけ?」
「色々あったんだ。主にアイツの所為だが……」
ノエルの説明に、リュシアは納得したように「あぁ……」と声を漏らした。
その「アイツ」とはもちろんアンヌのことであり、二人の間で直接の名前は出さないものの、案の定リュシアはアンヌの姿を想像していた。
それで聞きたいことを思い出したのか、リュシアは訝しげな表情を浮かべながらノエルに尋ねる。
「ノエル、……アイツから何か聞いていることはある? 目的とか、予定とか」
ノエルは少し考えたが、思い当たるような事柄が無かったため、首を振って否定する。
「仲間」だと言われ、状況も状況なので彼女に付いていくしかないノエル。
実際彼女はノエルをサポートしているし、カインとも楽しげに会話している。
今のところ敵対はしていないが、……彼女が「レオノーラの下僕」である以上、どこまでその態度を信じられるのかは分からない。
もちろん、ノエルも彼女のことを信用している訳ではないのだが。
「アンヌは、お目付け役ってところね。あんたが傷ついたり、死んだりしないようにするための」
「そう、だろうな」
「だけど一つ疑問なのは、何故私のもとへ連れてきたのかってこと。正直、私にもアイツの言動は読めないわ」
リュシアは肩を竦め、そしてどこか遠くの方を見るように浴室の天井を見つめた。
ノエルはそんな彼女の疑問に、冗談めいて答える。
「君に会いたかっただけってことは無いか?」
「そんな可愛らしい理由だったらいいんだけどね……」
リュシアは少しだけ笑った。
だがその笑顔には、決してポジティブな感情は見られず、むしろどこか嘲るような、怒りに似た感情さえ感じられた。
浴室には静かな沈黙が落ちる。
ノエルは神妙な面持ちで、二人の師弟関係について逡巡していると、突如横から飛んできた水しぶきに思考が中断される。
「――ッ、おい、何するんだ」
「あんた、騎士だって言ってたわよね。それなりに強いんでしょう?」
ノエルは顔についた水滴を手で落とすと、肯定も否定もせず、ただ何も言わずに黙った。
「王国騎士団のことはよく知らないけど、その立ち振舞いと、部下の様子を見ていれば、なんとなく想像はできる」
「……そうか」
リュシアの言う「部下」とは、カインのことだった。
彼がノエルを慕っていること、そしてそれは、強さとリーダーシップに裏打ちされたものであること。
リュシアは何となくそれを感じ取っていた。
しかしノエルは、皮肉めいた声で「それはどうも」と応じる。
そんな弱々しい態度を見たリュシアは、突然湯船の中で立ち上がった。
「ノエル、……ぶっ倒したいんでしょ? 奴を、……あのレオノーラを」
褐色のお湯がざばざばと体から流れて、リュシアのあらゆる部分が顕になる。
咄嗟に目を背けたノエルだったが、それを否とするようにリュシアはノエルの顔をのぞき込んだ。
「いいわ、アンヌがそこまで言うなら、受けて立つわ。私が協力してあげる」
「君が、そうしてくれると助かる」
ノエルは、ゆっくりと単語を絞り出すように話した。
「……私もレオノーラのことが殺したいほど憎い」
リュシアはノエルに背中を向けて、吹っ切れたような朗らかな声で言った。
そのキッパリとした言い方は、とても言葉を誇張しているようには聞こえなかった。
この殺したいというのは、まさしく本心をそのまま表した言葉であり、それは城の前で斧を振るおうとした彼女の行動を表すものであった。
「だから、俺を攻撃したのか」
「そうね」
それに対し、ノエルは自身の体を一瞥すると、バツが悪そうにリュシアから更に顔を背けた。
「そうか……それなら、申し訳ないな……」
「あんたが謝ることじゃないでしょう? むしろ被害者なんだから」
その謝罪の意味を汲み取ったリュシアは、そうノエルに言った。
共通の敵を持つというのは、非常にわかりやすく人を共感するための手段と言える。
リュシアは既に、ノエルの境遇に対して同情心を抱いていた。
「だけど……アンヌからここに滞在するのは二週間と聞いたわ。
レオノーラを倒せるようになるには、基礎からやってたら相当時間が足りない。だから一を聞いて、十を知ってもらわないと困る。訓練も厳しいし、その上自分で鍛錬しなければいけないわ。それでも問題ない?」
リュシアは、半分脅しともとれるような宣言をノエルに伝えた。
リュシアからみても、レオノーラの強さは 驚異的ものだ。だからこそ、非常に厳しく発展的な指導が待ち構えていることは、想像に容易かった。
しかしノエルにとっては、そんなこと覚悟するまでもない。
普段から鍛錬を欠かさず、自らを常時高めてきた人間だ。努力をすることを苦とも思わず、そこに一種の楽しささえ感じている。
そんな彼にとって、迷うという選択肢は始めから毛頭なく、受けて立とうという気概に満ち溢れていたのだった。
「ああ、よろしく頼む」
頭を下げたノエルに対して、リュシアはふっと小さく笑うのだった。
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