6 新人騎士・カイン
「はぁ……はぁ……」
真っ暗な森の中を駆ける一人の男。枯れ葉を踏みつけ、低木の枝をへし折りながら、一心不乱にただどこへ行くでもなく走り続ける。
男の名は、カイン。
リンドブルグ王国第3騎士団の騎士であり、ノエルの直属の部下でもある。普段は明るい性格で、身分関係なく誰とでも仲良くなれるのが彼の強みだ。
だがそんな彼の表情は、珍しく焦りと恐怖で満ちていた。
――レオノーラ。
そう名乗った魔族は、妖艶な美貌を振りまきながら、騎士たちに接近した。
そして、彼女はその場にいた騎士の全員を惨たらしく殺した。
第6騎士団が主体となったこの部隊は、訓練のため毎年アルタ山を訪れる。山岳や森林といった、自然の中での活動方法を学び、訓練するためだ。
第3騎士団からは毎年、新たに所属した騎士たちが遠征して参加する。都市での活動が多い第3騎士団に加入した新人への、いわば洗礼。
騎士の間では『キャンプ』と揶揄される、いわば恒例行事だ。
この厳しい訓練を乗り越えた者のみが、晴れてこの第3騎士団の一員として認められるのだ。ノエル団長は、そんな新人たちの随伴だ。
そんな彼らを出迎えたのは、この仕打ちだった。
首を切られ、お腹を切られ、目も開けていられないような惨状だった。
でもそんな中……ただ偶然、本当に偶然、カインは生き残った。
たまたまレオノーラとカインを結ぶ直線上に、太い樹木があったのだ。カインへと襲いかかった攻撃はすべてこの幹が吸収し、一切被弾することはなかった。
奇跡。本当に奇跡。神は存在するのだと、カインは思った。
だからカインは逃げた。せっかく拾った命だ。騎士だなんて関係ない。あんなのに立ち向かったら犬死にするだけ。そんな思いで必死に逃げた。
鎧は捨てる、邪魔になるだけだ。
転んでも関係ない、死ぬよりはマシだ。
どこまでも、どこまでも。
ただひたすらに、あの魔族と距離を取るために。
その日の夜は眠れなかった。
ただただ震えて、洞穴の中で怯えて過ごすしかなかった。何度、なんてことないただの物音に恐怖したか。
早くこの長い長い夜が明けてほしい、ただその一心で一夜を耐えた。
翌朝になると、カインは少しだけ冷静さを取り戻した。周囲が明るくなり、希望の光という名の陽光が降り注ぐ。
そしてその次に、自分の置かれている状況を認知して、絶望する。
嗚呼。どこからどう見ても、カインは遭難していた。
一心不乱に逃げた所為で、自分がどうやってここに来たのか、どこにいるのかすら分からない。
だが幸いにも数日分の食料はあるし、水もまだたくさん残っている。武器や防具などの重いものは捨ててしまったが、その他の装備は辛うじて持ったままだ。
この山での訓練で学んだことを活かせば、まだ生存の望みはある。
カインは休憩をはさみつつ、ひたすらに移動した。この辺りは高低差が少ない麓の部分。コンパスを頼りにして、着実に森の中を進む。
……どうせ死んだようなものだ。
あの魔族に殺されるくらいならば、山の中で死ぬ方がマシだ。一種の諦めのような感情が、逆にカインを奮起させる。
だから、希望を持って歩き続けることが出来た。精神的には疲れているが、まだまだ体力はある。
ビバークをして、迎えた2日目の朝。
カインは昨日に引き続き、森を抜けるために歩いていた。おおよその自分の位置は推測がついているから、ただその計画に基づいて進むだけだ。水も、食料も、十分に足りている。
数時間ほど歩いた時、カインは物音に気がついた。
森の中というのは多種多様な音に溢れているのだが、もうこれだけの期間いれば、耳も慣れてくるというものだ。だからその音が周期的であることには、すぐに気づくことが出来た。
そして慎重にその音源へと近づいてみると、話し声が少しだけ聞こえることにも気がついた。
――人だ!
カインの捜索をしにきた騎士か、それとも近くの集落の住人か。
いやどちらでも良い、誰かと会って救いを求められるなら。
それに早くこの森を抜け出したい、早くこの恐怖から開放されたい。
そんな一心で、音の聞こえる方へと近づいた。
動物の足音と鳴き声を聞き違えただけかもしれないけれど。でも、それでも、賭けてみる価値はあった。少しでも助かる確率が上がるのなら、と。
――そして、数秒後。カインはその自身の判断を、大きく後悔することとなった。
カインが木々の隙間を覗き込むと、二人の人物が見えた。一瞬嬉しくなったが、すぐにその気持ちは覆される。
視線で捉えたのは二人の少女。森の中を進むにしては明らかに軽装すぎるが、そんなことは問題ではなく。
彼女らの頭部には角が生えていた。
あの、恐怖の象徴である、角が。
カインは2人が魔族であることに気づき、そして、片方の少女がレオノーラであることを理解した。
背筋が凍るとはまさにこのこと。体が異常に冷たくなり、芯の底から冷えたような恐怖を襲う。自身の心臓の鼓動が、ドクンドクンと耳へ響く。
カインは恐れおののいて、彼女らから距離を取ろうとした。しかし、
――パキッ。
足元に落ちていた枯れ枝が、無常にも、そんな間抜けな音を鳴らす。
ヤバいと思って、さっと身を隠すカイン。聞こえていないでくれと神に懇願したが、どうやらその願いは天まで届かなかったようだ。
2人の足音と話し声がピタッと止み、あたりには静寂が訪れた。
自分の心音だけが聞こえ、もう何か策を考えている余裕もなかった。たったの一秒が、一分にも、一時間にも間延びして感じる。
……ああ、やはり俺は死ぬべき運命だったのか。
戦う武器もなければ、もう逃げ出すような根気もない。
死神に目をつけられたカインは、ただひたすらに、静かに神へ命乞いをすることしかできなかった。
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