4 水浴び

「遅いですね……」


 アンヌは小さな声で呟いた。

 静かな湖畔、木々のさざめきと虫の鳴き声だけが聞こえる。その声は辺りへと霧散し、向けられた本人の耳へと届くことはない。


 今アンヌは、ノエルの水浴びを待っているところだ。ぐちゃぐちゃになった髪に、ドロドロの服、顔には血と泥がまとわりついて、とてもじゃないが清潔とは言えなかった。

 身も心も、少しでも綺麗になって欲しいと、水浴びをしてくるようノエルに伝えたのだ。


 幸いにもこの湖は水が綺麗だ。おそらくどこかの川と繋がっていて、水が流動しているのだろう。汚れを落とすには最適だろう。


 ――いやでも、流石に遅すぎる。

 結構汚かったとはいえ。とはいえ、だ。


 もう既に30分は経っている。こんな春先の湖に30分も入っていて、寒くないのだろうか。否、どう考えても寒い。


 彼がどこかへ逃げたという線も一瞬考えたが、そんなことはなかった。

 アンヌは意識を集中させる。ああ……すぐそこにいる、強大な魔力が。

 アンヌが集中すれば感じられるほどの莫大なエネルギーの塊が、そこにずっと静止し続けている。だから安心して、30分もの間待っていたのだが。


「さすがに見に行きましょう、か……?」


 性別の変わってしまったノエルに配慮し、アンヌは彼の裸を見ないようにと、水浴びしているところを見ようとはしなかった。

 でもさすがに……何かあったのではないかと心配になったので、やっぱりアンヌは彼を迎えに行くことにした。




 ――あれは、水鳥?


 アンヌは瞬時にそんな感想を抱いた。湖面に立っていたのは、一羽の水鳥。湖面に垂直になるように、すっと直立しているのがぼんやりと見えた。

 暗くてよく見えなかったが、次に目を凝らしてその水鳥をよく観察すると、その瞬間にはそれがノエルであることに気づいた。


 彼は……湖面に映り込む自身の姿をじっと見つめながら、下半身を水に沈めながら膝立ちをしていた。

 ただただ何もせず、彼はずっと、湖面を鏡にして見つめ続けていた。


「な、なにやってるんですか!?」


 そんなノエルの奇行に、アンヌは慌てて駆け出した。

 アンヌは冷たい湖の中にパシャパシャと大きな飛沫をあげながら入水、そしてノエルの元へ駆け寄る。彼女の頭にはいくつもの疑問符が浮かんでいた。


「……俺に触らないでくれ!」

「いや、いつまで水浴びしてるつもりですか! ……ていうか、体キンキンに冷えてるじゃないですか! もう、戻りますよ!!」


 アンヌは肩を貸し、無理やりノエルを小屋へと連れ戻る。ノエルは少し震えながら、不安定な足取りでゆっくりと肩を借りて歩いていた。浅瀬に入ったために、アンヌの靴はもうビチョビチョ。

 あーもう最悪だ、とアンヌはため息を零しながらも、ノエルのことを支えていた。


 無事に小屋へと戻ってくると、ノエルをその辺りにあった椅子に座らせた。


「もしかしてですけど、湖面に映った自分の姿を見てショックを受けたんですか?」

「……………………」


 ノエルはなにも言わなかった。彼の表情にはピクリとも変化はなく、その心緒を読み取ることはできなかった。


「あの、服、着ますよ」


 アンヌはそう言うと、ノエルのために用意した新品の服を取り出す。

 それから、まるで介護をするかのように服を着せてあげた。


 ……まずは下着を履かせ、薄いブラウンのワンピースをがばっと着せる。最後の仕上げとして、胸元についた白色のリボンを結んで上げる。


 そうして完成したのは、どこからどう見ても村娘――っぽい格好をした魔族の少女だった。


「ふむ、質素な服も似合いますね……」


 アンヌは一人で関心した。普段は豪華なドレスを、しかも派手な色だとかレース付きだとかを好んで着ているため、このような容姿のレオノーラを見られるのは珍しい。彼女ノエルの表情はどう見ても死んでいたが、その無気力そうな表情さえも物になる。

 

 服を着終わったら、次は髪を乾かす。普通は自然乾燥だが、これだけ長い間水に浸かっていた状態では、髪がビショビショというのは心と体に良くないだろう。

 だから温度を少しだけ高くした風の魔法を、ほんのちょっとだけ髪に向かって当ててあげる。右手をかざし、そこから生み出されるのは心地よい温風。

 かなり原始的な魔法だが……少し力の加減を誤るとめちゃくちゃ高温になってしまうので、意外と繊細かつ高度な技術が要求される。


「……魔法ってのは、便利なんだな」


 ノエルはなんだか物憂げな表情で呟いた。

 それに対し、冗談めいたようにアンヌが言った。


「騎士様、普段はこんなことしませんよ。今回ばかりの特別対応です」


 だが突然、なにかの琴線に触れたのだろうか。

 アンヌの言葉を聞いたノエルは、彼女の右手首をいきなりがっしりと掴んだ。目の端に皺を寄せながら、ノエルは殺気立った声でアンヌに告げる。


「その言葉で呼ぶなと言っただろう。……――俺は、もはや騎士ではない」


 前半は静かながらも迫力のあるトーンだったが、後半はどこか気弱そうなトーンだった。その雰囲気に気圧され、アンヌは思わず口をつぐんだ。


 手首はすぐに離され、アンヌは髪を乾かすことを再開した。でもなんだか気まずくなって、しばし無言の時間が発生する。ただただ環境音と魔法で生み出された温風の音だけが、小屋の中で響いていた。

 だがそんな無言の時間を破ったのは、ノエルだった。彼はアンヌの目をしばらくじっと見つめた後、その重たい口を開いた。


「俺は、ノエルだ。そう呼んでくれ……」


 アンヌは一言「分かりました」とだけ返事をした。実は既に知っていますよ、とは言わなかった。

 少しだけ、ほんの少しだけ心を開いてくれたような気がして、アンヌは少し嬉しくなって微笑んだ。


 そうしてアンヌは、丁寧に、少しずつ髪を乾かしていく。万が一にも調節を誤って髪を焦がしてしまってはいけないので、優しくちょっとずつだ。

 しばらく無言の時間があったが、先程に比べれば幾分と緊張した感じはなくなっていた。


「なあ、アンヌ」

「あ、はじめて私の名前を呼んでくれましたね! 嬉しいです! ……で、ご要件はなんでしょうか?」


 アンヌのことを名前で呼ぶと、彼女はでかい声でそう返事した。

 ノエルは、呆れたような表情で彼女を見つめる。こいつのテンションにはついていけない、と言わんばかりの表情だった。

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