第五の試み

「世界の法則というとみな物理法則のことだと考えるわ。でもこの世界を規定しているのは物理ではないの。認識よ。観察と言ってもいいけど、とにかく誰かが何かを見る、そこから世界は始まるわけ」

「ははーん、現象学ってわけだね」

「そう言ってもいいけど、ただ、認識のあらゆる対象は常に変化するの。というか、認識自体が常に変化するわけ。量子力学の観察の話は知ってるでしょ?」

「観察すると、観察された対象が変化するってやつ?」

「そう。物があったとして、それが心に作用するだけじゃなくって、心も物に作用するのよ。というか、あらゆる作用は逆方向にも作用するっていうマーフィーの法則の一形態が、言ってみればこの世界の究極の法則なのよ。さ、言っちゃいました……新聞社に電話してみる?」

「うーん……マーフィーの法則ではノーベル賞は取れそうもないなあ……」

「だって、誰も妙だと思わないのかしら? ニュートン力学が発見されたかと思えば、相対性理論や量子力学が発見される。DNAはRNAに一方的に写し取られると思っていたら、レトロウイルスがその逆をやることが分かる。株価の法則が発見されると、その逆をやる人が現れて法則が崩れる。幸福の法則が発見されると、その逆を行って幸福から逃げ回る人が現れる。自然が発見されると、自然に逆らう人が現れる……だから、もし究極の物理法則が発見されたら、きっとそれに抗う人が出てきて、法則は無効になっちゃうでしょうね。その辺の事情はこの本を読んでもらえば分かるわ」

「『地下室の手記』? なんだか暗い色の表紙だな。どうせ陰惨な話なんだろ? 純文学ってのはどれも陰惨な話ばかりだからな……」

「それから、人がいなくっても1+1は2だっていうのはとんでもないデタラメね。人の見ていないところで宇宙がどんな法則に従っているか、誰にもわからないじゃないの。だって見てないんだから」

「でも1+1が2じゃないとすると、いろいろ辻褄が合わないんじゃないの?」

「辻褄も認識の一つなんだから、当然変化するのよ」とメフィは語った。「数学なんてみんな論理学に、つまり誰がどう見たって正しいっていうあやふやな直感に基づいているんだから。誰もその直感が変わってしまうことは考えようともしないわ。排中律とか非構成主義的証明とか選択公理の捉え方にしたって、何を明らかに正しいと思うかは人によってすでに違っているのに」

「つまりそれって、何でも人の思ったとおりになるってこと?」

「むしろ、何も計画通りにはならないってことよ。何らかのシステムによって、人の認識を予測したり計画したりすることはできなってこと。まあ、一種の不完全性定理ね」

「でも、それにしたって認識にも法則はあるわけだろ? この認識の次にはこれが続くとか。手を放すという認識のあとにはコップが落ちて割れる認識が続くとかさ」

「もちろんあるわ。ただ、そういう法則はこの宇宙を統べる法則のごく一部なの。つまり物理空間ではなく認識空間というのがあって、そこにはあらゆる認識が、つまり心に浮かぶあらゆる事物や観念がスーパーフラットに含まれているわけ。コップとか数とか物理法則とかが同じ空間の点として。でもこの空間は穴だらけなの。認識にとっての特異点というか、盲点が散りばめられているわけよ。パラドックスだとか、シュレーディンガーの猫だとか、連続体仮説とか、天使とか、神様とか。一方で次元を下げると認識は一つの結び目でもあって、それが他の結び目と互いに作用し合うの。そして、作用しあうタンパク質があらゆる生物を表現できるように、認識の結び目の相互作用はあらゆる世界を表現できるの。これが完全性定理」

「難しくてよく分からないな。神も世界の一部なの?」

「神様のいる世界もあれば、いない世界もあるわ。人の認識は計画できないけど、ある意味では、どんな認識も可能だとも言える。あなたがいろいろヘンテコな世界を妄想するように」

「俺にあんたが見えるってことは、俺は天使や神を信じてるってこと?」

「そうよ。信じてるというか、望んでいる、と言った方がいいわ」

「それであんたは俺の妄想を手にとるように認識させてくれるというわけか」

「まあそんなところね」

「それだけ? この世界の法則って、それだけ?」

「それだけよ……あなたがそう望むなら」

「望むなら? その望むって何よ?」

「望みが何なのかはそれを望む人によるわ。望むことが何であってほしいのか、望みに対して望むことに応じて望みは形作られて生み出される。世界は人が想うよりもはるかに柔軟に、自由にできているのよ。哲学者ってのはそこに必要でもないのにああだこうだ、こうあらねばならぬと余計な条件をつけたがるのよ。それはもう真理とはなんの関係もなくて、自分は鱧が好きで毎日鱧ばかり食べたいから毎週水曜日を鱧の日にして全国のスーパでは特売を義務づけて、小学校でも給食で出すことを強制するようなものよ。そういうことは鱧好きの人たちだけでやればいいのに」

「つまり、哲学ってのは文学ってわけか」

「そうね。あらゆる認識は文学であり、文学はそのまま現実なのよ」

「でも、誰も望まない現実もあるじゃん? 戦争とか、飢餓とか、貧困とか」

「それも誰かが望んでいるのよ。誰も望まなければ戦争も飢餓も貧困も起きないわ。あなたたちの世界は、そのまま寸分の狂いもなくあなたたちの望んでいる世界よ」

「でも、貧困で苦しんでいる人は? 迫害を受けてる難民は?」

「そうね。自らは望まない現実を生きる人たちもいるわ。彼らはどういう望みを持てばいいのかが分からない。それは、自分の望みを他の人々の望みと接続できないからよ。この世には孤立した望みというものはない。認識というのは集合体なの。どんな現実も他の現実と縁続きであるように、どんな望みも他の望みとつながっているの」

「そんなこと言ったって、実際に苦しんでいる人たちはどうなるのさ?」

「あなたたちは変なドラッグをやって足を切断しなきゃならなくなった粗忽者のようなものよ。あなたたちが自分の足を見捨てたのよ」

「あんたら天使や神が見捨てたんじゃなくって?」

「違うわ。私たちは人の望みによって生み出され、個々の意識には働きかけるけど、集団に対しては無力なの」

「俺が望めば?」

「あなたが望めばもちろん何でも叶うわ」

「分かった。俺は救世主になるよ。すべての苦しみをこの世からなくしてやる。戦争も、飢餓も、貧困も、陰惨なことはすべてなしだ。あんたのその杖の一振りでな。さ、振ってくれ」

メフィは杖を一振りした。

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