第一の試み

次の瞬間、Fとメフィは広くて新しいアパートの居間のまんなかに立っている。

「いいねえ。こういう広い部屋に住んでみたかったんだよ……」

「じゃあ満足ですね?」

「いやいや、まだまだこれからさ」、Fはニヤリと笑った。「なるほど、あんたの実力はよく分かった。帰れと言ったのは悪かったよ。あんたはずいぶんと役に立つ人のようだ……実際、あんたのような人を俺はずっと待っていたのさ」、メフィが嫌な顔をするのを見て、Fは追い打ちをかけるようにニヤリとした。「あんたのそのウンザリした顔が好きだよ、俺は。実際、天使の微笑みなんかよりはずっといいなあ、そそられるって言うか。ところで、家賃はなしだろ?」

「もしあなたが望むなら」

「望む望む」とFは連呼した。「でも、ちょっと広さのわりには家具が少ないと思わない? この辺にソファーが欲しいな」

「これでいい?」

「ダメだよ、L字型のやつさ」

「はい」

「テーブルも」

「はい」

「食器棚も」

「はい」

「食器棚の中身も」

「はい」

「あと、ペルシャ絨毯。イスファハンの、目の詰まった手織りのやつ」

「はい」

「いいねえその杖」

「は?」

「俺、その杖が欲しいな。それのコピーは作れないの?」

「できません。だいいち、私以外には使えません」

「じゃあ、俺にその杖を使える能力をくれよ。それとその杖を。あんたはもうどっかに引退したらいい。ノルウェーかどっかに。あとは俺が自分でよろしくやるからさ。正直、いちいちあんたに杖を振ってもらうのは面倒なんだよ。それに、杖の能力を試してもみたいし。例えば、矛盾したことを言うとどうなるかとか」

「それだけはできません」

「やってみたのかい?」

「やってみたくありません」

「どうして? 俺の望みをかなえてくれるんじゃないのか?」

「あなたの望みをかなえるのは私であってあなたではありません」

「ん? なるほど。うまく言い逃れたね。あんたから存在意義を奪っちまうというわけか。まあいいや、言うとおりにしてくれるのなら。プラズマテレビ」

「はい」

「腹が減ったな。刺身が食べたい。ヒラメとウニ、くるまえびのいいやつを。ああ、あと醤油は名古屋のたまりでね」

「料理ならコックを呼べばいいわ」

「俺は自分で作りたいんだ、趣味なんでね。つうか、他人は信用しないんだ」

「それじゃあ魔法で作っちゃダメなんじゃないの?」

「いや、つまり俺が作るように魔法で作ってくれればいいんだ」

「一人で食べるの? 誰か呼ばないの? 家族とか?」

「縁を切ったって言ったろ」

「友達とか」

「いないよ、そんなもの」

「あなたって淋しい人ね」

「別に」Fは少しむっとして言った。「なんせこの世は実に友達甲斐のない、趣味の悪いやつらばかりだからな……ダライ・ラマやマザー・テレサとならいい友達になれると思うんだが。ああ、呼んでもらおうか、ダライ・ラマを」

「やめといた方がいいんじゃない? ダライ・ラマは刺身は食べないと思うわ」

「ああそうだな。マザー・テレサなら食うかもしれんが。話すことなんてあるのかな。一緒に映画でも見るか。エクソシストとか。でももう歳だし、心臓に悪そう。決めた。友達を呼ぼう」

「友達はいないって言ったじゃない」

「あんたが作るんだよ。ただし喋らないヤツだ。口を利かれるとむかつくからな。その辺をうろうろして、がやがや音を立ててくれればそれでいいんだ。俺などまるでここにいないかのようにね」

「そんなもの友達といえないんじゃない?」

「呼び名なんてどうだっていいんだ。友達じゃなければトモチとでも呼べばいい。とにかく、話し掛けられたり、下らない意見を開陳されたりするのはまっぴらだからな」

するとリビングダイニングキッチンに無数のトモチが現れた。手に手にグラスを持ち、あっちに行ったりこっちに来たり、クラゲのように漂っている。

「これじゃあまるで観賞用の熱帯魚ね」

「それでいいんだよ」とFは言った。「まさしく観賞用さ。眺めてきれいならそれでいいんだ。あれ、あいつ俺の知ってるヤツと似てるな……ああ、あいつも。あいつもだ。ちきしょう、俺の知り合いばかり集めやがって」

「でも向こうはあなたのことには気づかないわ」

「そうなのか? それならいいや。しかしこれってマジックミラーの裏から眺めてるようなもんだな。覗き見と変わんねえじゃねえか。ちきしょう、俺の家なのに。なんか面白くねえ……」

「じゃあどうしたいのよ? 言いなさいよ。自分の欲しいものはよーく分かっているんでしょ?」

「うん……じゃあ、こうだ。俺が到着したというニュースが伝わるとみなの間にざわめきが走る。『Fが来たんだって?』『本当かしら?』それで、いよいよ俺が姿を現すと歓声が上がり、みんな一言でもいいから言葉を交わそうと俺の周りに集まってくる。その中でたった一人、Qだけは、部屋の隅から俺に対する嫉妬と悪意のこもった湿った視線を投げてくる。みなに取り囲まれたところで俺はなにか気の利いたジョークを言い、靴ひものやつとか、大いにその場をわかせる。初めは俺の成功を鼻で笑っていたQも、そのうちについつられて笑ってしまう。しかし、笑わされた口惜しさからQはおれにネチネチと姑息な攻撃を仕掛けてくる。俺は理路整然とヤツの攻撃の不備を指摘し、その態度を批判する。ヤツは口惜しさで顔面蒼白になって、興奮のあまり唾を辺りに撒き散らしながら、その貧相なボキャブラリーの連呼と声の大きさでもって何とか俺をやりこめようとするが、俺は逆に喝を入れてやる。ヤツはとうとう小犬みたいに体をブルブル震わせながら言葉を失っちまう。そこで俺はコロリとそれまでの態度を変えて、つい言い過ぎたことを詫びる。そして、ヤツの聞きたがっていることを、親身にヤツに語りかける。今まで人からそんな風に話しかけられたことのなかったQは、誠実さとユーモアのみちあふれた俺の語りに、最初のうちは渋々と、やがてすっかり引き込まれてしまう。ヤツは心を落ち着かせ、初めて自分のことを理解し、認めてくれた俺という人間を、感謝と尊敬の混じった涙目で見つめる。俺とQはすっかり仲直りし、みんなと一緒に乾杯する。どうなることかとハラハラして眺めていたみんなも大喜びだ! やった! 仲直りだ! F万歳! Q万歳! みんなすっかりアドレナリンを放出してハイテンションになっちまって、互いに抱き合ったり、男同士でキスをしたり、早口で訳のわからないことをまくしたてたりして、もう何がなんだか、絡まりあった毛糸みたくなってると、そういった一部始終を少し離れたところから静かに見守っていたRがスッと俺のそばに寄って来たかと思うと俺の手首をその細い指で捉え、『いらして、こっちへ』」

「現実には、あなたは話の中のFよりもむしろQに最も近いんじゃない? それで、話の中のFは実際は……」

「うるさいよ、あんたに何が分かる?」とFは食って掛かった。「俺は現実の話をしてるんじゃねえんだ。そうだろ? あんたも自分の立場を考えろよ」Fは一息入れると先を続けた。

「ええそれで、女は俺をベランダへひっぱっていった。女は清楚な感じの空色のワンピースを着ている。髪の毛は首までの長さに感じ良くまとめられ、桜貝のようなピンク色の耳が見える。ベランダからは海が見下ろせ、ちょうど煌々と輝く丸い月が海原の向こうの地平線から顔を出し、波頭を銀色に染めている。女は夢見るような二重の目で俺の見上げる。

『さっきからあなたの姿を見ていて、思い出したの、昔のことを。私、あなたのことがずっと好きだったのよ』

『本当に?』と俺は驚いてみせる。『どうして言ってくれなかったの?』

『照れくさかったのよ』と女。『でも、さっきわかったの。私あなたのことが今でも好きよ』

『本当に?』と俺はまた驚いてみせる。『ところで、君は誰だっけ?』

『覚えていないのね』と女は憂いを含んだまぶたを伏せがちにする。長いまつげが反り返って並んでいるのが見える。『あなたって、昔からニワトリほどの記憶もないんだから。他の人のことなんてどうでもいいんでしょう?』

『そうでもないさ。特にその相手がものすごい美人なら』そう言って俺は左手で女の手を取り、右手で耳の辺りの髪の毛を優しく撫でる。

『ダメよ』女は急に真剣な顔になり、じっと俺の目を見つめながら言う。『私、明日ほかの人と結婚するの』

『どうして?』俺は眉をひそめ、少し声を荒げる。『俺が好きなら、どうして他の人と結婚なんてするんだい?』

『分かってないのね』と女は九十度左に回転し、俺に小さなよく手入れされた右耳を見せながら優雅に目を伏せる。『女は、恋人とは結婚しないものよ。夢が壊れるから』

『それ、ほめてんの?』俺は本当に分からなくてそうたずねるが答えはない。女は無言でじっと海を見下ろしている。と、女の横顔を越えた向こうの方で、何かがチラチラ動いているのが見える。よく見ると、隣のベランダから別の女が俺に向かって手でおいでおいでをしている。俺は適当な口実をつけて隣のベランダへ向かう……何か質問は?」

「別に……」

「隣のベランダではもう一人の女が待っている。剣闘士のようにガタイのいい女で、眉間にしわを寄せてとても険悪な顔つきをしている。

『遅かったわね』と女は文句を言う。『本当に、ずいぶん待たされたわ……あの女と何を話してたの?』

『何って、別に、世間話さ……』

『ずうずうしいわね。私にウソはつけないわよ』

『ああそうだった、君にウソはつけないんだったな』

すると女はいきなり振り向いて俺に抱きついてくる。

『今までどこにいたのよ!』そう言って女は俺の胸に顔を埋める。

『うれしいな、俺のことをまだ忘れてなかったの?』

すると女は顔を上げて俺を睨む。女の目が濡れている。

『わたし、あたたって大嫌い』そう言って女は再び顔を俺の胸に当て、口の辺りを痙攣させながらさも悔しそうに泣き始める。俺は女の頭を抱え込み、頭を優しく撫でてやる。と、暗闇の中でちらちらと揺れるものが見える。よく見ると、隣のベランダから誰かが手を振っている。俺は適当な口実をつけて隣のベランダへ向かう……何か質問は?」

「別に……」

「隣のベランダでは、また別の女が待っている。オリーブ色の上着に赤紫色のシャツ、黒っぽいスカートをはいている。長い髪は見事に手入れされ、その小さい頭を振るたびにさらさらと音を立てて流動する。女はチーターのような柔らかい体を持っていて、自然とつるみあって水のように安定している。

『待った?』

『そんなに』と女は少し眠そうな、とぼけた感じの声を出す。『しょうがない人ね。どうして男の人って我慢できないのかしら?』

『何をさ?』

『ちょっと会えなくなったら、すぐにほかの女と浮気するのね』

『君は特別さ。君のいない空白は、ほかの誰を持ってきても埋まらないんだ』

『私のどこが好きなの?』

『君のオープンなところさ。君となら何でも話せる。それと、君のその柔らかい腕かな』

『これ?』

女は腕を俺の首に回して蛇のように締めつける。女の体は変幻自在で俺の体の線にぴったりと合う。鼻を女の髪の中に突っ込んで匂いを嗅いでいると、隣のベランダの方から……」

「……続きは?」

「なんか疲れた。もういいよ」

「現実にしてあげてもいいのよ。私が準備してあげるわ」

「いいよ……やだよ」

「欲がないのね」

「やばい。自分が何をどうしたいのか分からなくなってきた」

「考えすぎなのよ。残念ね、どんな美女だって思いのままなのに」

「メフィ、あんたって本当に天使なのか?」

「誰が私を天使だと?」

「そう言えば誰なんだろう? まあいいや、あんたが誰だって」

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