Fあるいは欲望のありか

荒川 長石

出現

Fはシャワーを浴びていた。フェイスソープで顔を洗い、三十秒ほどつむっていた目を開けると、目の前の大きな鏡の中の自分の背後に天使が立っているのが見えた。白いネグリジェのような服を着て、頭の上には光の輪、背中には白い翼が生えていて、かすかに後光が射していた。それはいつかテレビで見たシャンプーのコマーシャルの少女とそっくりだった。

そのまま無視しようかとも思ったが、しかしFは思い直した。彼はなによりも、形式や礼儀を大切にする男だったからだ……

Fは抑揚のない低い声に精一杯の悪意を込め、天使にたずねた。

「どちらさんですか?」

天使は、天使の笑みを浮かべるばかりで答えなかった。はーん、とFは思った。返事がないなら仕方がない。なめやがって……Fは天使を無視したままボディーソープを体中に塗りたくって体を洗い始めた。

体を洗い終わり、シャワーで泡を流すと、鏡の中の天使を横目で見た。天使は相変わらずバカのように微笑んでいる。「こいつは自分が今どれほど場違いな状態にあるのかを知らない」とFは心の中で呟いた。俺が感動するとでも思っているのだろうか? ひざまづくとでも……? Fはふと、だるさを感じて視線を床の方へ向けた。すると、自分の貧相な、濡れ細った腹の辺りが見えた。ヘソの上の辺りから縮れた毛が一本だけ生えている……Fは両腕を脇に垂らし、猫背気味に、かつ腹を突き出す姿勢をとってみた。そうすることによって自分の滑稽さや間抜けさをことさらに強調してみたのだ。同時にそれは、天使というものに普通付与されている神聖さや権威を間接的に否定しようとする試みでもあった。出っぱり気味の青白い腹の下には黒いもじゃもじゃの茂みがあり、その下からは小さく縮んだ息子が少し顔を出している……Fはほとんど無意識のうちにその先っぽを人差し指で弾いた。それは、この世のすべての価値を弾き飛ばそうとするかのような仕草であった……

「性にコンプレックスがあるのね」

初めて口を開いた天使はカウンセラーのようなことを言った。天使というものは意外と散文的なことを言うのだなあと思いながらFは天使の顔をことさらぶしつけにじろじろと眺め回したが、天使は何を誤解したのか自信たっぷりに言った。

「一人で悩んじゃダメよ」

「じゃああんたは俺といっしょに悩んでくれるってのかな」とFはたずねた。「あんた、一体何しに来たんだ?」

「あなたを満足させにきたのよ」

「それはあんたの自由な意志なの? それともあんたの上司の命令なの?」

「一応上司から言われました。でも必要なら私は上司の命令にそむいて自分の自由な意志で行動することができます」

「上司というのはだれ?」

「神様です」

「ふーん。それで、その神様は何をお望みですかね?」

「神様が何を望むかはあなたたちが決める事よ」

「そうなの? 神を信じるよりも、神に信じられる人間になれってのが俺のモットーなんだけど、そうすると決定責任の押しつけ合いになるよね……まあいいや。それで、あんたと神様とはどうゆう契約をしているの?」

「魂の契約よ」

「ほう、つまりあんたと神様とは一心同体というわけか。それでもあんたに自由な意志は残っているのかな」

「残ってるわ」と天使は憮然として答えた。「あなたに残ってるのと同じぐらいは」

「でも魂の契約って何なの? 神様があんたに衣食住を保証してくれるってこと?」

「そんなもの私には必要ありません」

「そう」とFは冷たく答えた。「ところであんた、普段はどこで何してるの?」

「……」

「俺を満足させに来たって?」

「そうよ」

「どうして俺を?」

「知らないわ。神様に言われたの」

「あの男を満足させてこいって? ポン引きじゃねえかそりゃあ」

「そういう言い方じゃなかったわ。私はあなたを……たぶん……救いに来たのよ」

「救う? 何から?」

「苦しみからよ」

「別に苦しくはないけど」

「苦しんでたじゃない? 私に隠してもムダよ」

「そりゃあ親からは勘当され兄弟からも見放され友人からはうんざりされ職場からは追放され二週間ぶっ通しで部屋にこもってゲームして丸二日寝て起きたばっかりで貯金も恋人もないけど、でもべつに苦しくはないよ」

「強がりはよしなさいよ。私、何だってできるのよ。そういう嫌なことを全部ひっくり返すことだってできるのに。ちょっとは考えなさいよ」

「いや、いいや」とFは言った。「遠慮しとく。俺はこれで満足だから。もう帰っていいよ。神様によろしく」

Fは浴室を出てタオルで体を拭き始めた。天使は上目づかいの恨みがましい目でFを見た。

「(小声で)神様は特に目をかけてる人間だって言ってたけど、ただのものぐさな爪弾き者じゃない」

「聞こえてるよ。ものぐさな爪弾き者で悪かったな。ちょっとはあんたの仕事の参考になっただろ……あっ!」

「え?」

「そういえば……あんた、俺の連帯保証人になってくれるかい?」

「何ですかそれは」

「あんた人間を満足させる仕事のくせに連帯保証人も知らないのか」、Fはさも呆れたという風に言った。「俺はこのぼろアパートから引っ越したんだけど、保証人がいないのさ。家族や親戚とは縁を切っちまったし、保証人になってくれるような知り合いもいないし。だから俺にはどうしても連帯保証人になってくれる人が必要なんだ。あんたも一応『人』なんだろ? あんた日本国民? つうかあんた、収入ある?」

「ありません」と天使は言った。「そんなもの」とは言わないんだ、とFはちらりと思った。

「じゃあでっち上げてくれよ。あんたが収入のある日本国民になるか、俺の言いなりになる誰かを作るか、あるいはすでにいる誰かに、俺にたっぷり借りのある親戚であるかのような気にさせてくれよ」

「あなたは本当にどうしようもない俗物ね」と天使は言った。「想像力のかけらもないのね。あなたは自分の幸せがどこにあるのか分かってないわ」

「代わりにあんたがそれを知ってるってわけかい」とFは言った。「じゃあ言ってみろよ、何が俺の幸せなのか」

「それは正確には私にもわかりません」と天使はすまし顔で言った、「でも、引越しすることでないことは確かです。幸せとはもっと身近にあって、それもあなたの虚栄心や物欲を満たすことではなく、あなたの心の必要を満たすことです」

「何たわごとを言ってるんだ」とFは言った。「俺は引越しをしたいんだぜ。今すぐに。それで保証人がいなくて悩んでるんだぜ。自分の願いをかなえるのが、悩みを取り除くのが幸せじゃないのかね? だいたい、あんたは俺の望みをかなえに来たのか、それとも説教しに来たのか?」

「分かりましたよ」と天使は言った。そして手に持った杖を一振り振ると、一枚の保証人契約書があらわれた。

「さあ、これでいいでしょ」

「すげえ……ついでに、引越しのほかの書類も作ってくれないかな」

天使は杖をもう一振りした。すると他の書類も現れた。

「ついでに新しいアパートも見つけてくれないかな」

「できませんよ、そんなこと」

「本当に?」

天使は眉間にしわを寄せて下を向いた。

「できるんだろ? 大丈夫。あんたならできるって」とFは天使の肩に手を置いて言った。

「そんな風に怠けてると、後で必ずしっぺ返しが来ますよ」

「あんたもな。あんた、名前は何だっけ?」

「メフィと言います、よろしく」

「悪いが、俺はあんたを信じねえよ、メフィ。しっぺ返しだなんて。だいたい、あんたの思想はあんたの存在そのものと矛盾してるじゃないか」しばらく考えてからFは続けた。「だろう? そもそも、あんたはただ杖を振ってるだけじゃないか。それとも、裏で誰かが代わりに働いてるとでも? そうじゃないだろう? 誰も困るわけじゃないんだから、つべこべ言わずにやってくれよ。いいだろ?」そう言ってFは両手をメフィの肩にかけ、その目をぐっと覗き込んだ。

「分かったわよ」メフィはFの手を肩から払いのけながら面倒くさそうに言った。

「ありがとう。俺の希望はささやかなものさ。閑静な住宅地にあって、公園に面していて、最上階の角部屋で、スーパーと商店街に近くて、2LDK、十畳の寝室、新築、南向き、風呂トイレ別、ふた口ガスコンロつき、エアコンつき、室内洗濯機置場つき、ベランダつき、ロフトつきでいいや」

「ありませんそんな物件」

「じゃあ作れよ」

メフィは渋い顔をして黙った。

「やれよ」そう言いながらFはメフィの頬を指でつまんで左右に引っ張った。ふてくされたメフィの顔はそうやって引き延ばされても美しかった。

「本当にあなたのような人は初めてです。普通は自分の望みがかなうと分かればもっと慎重に、真剣になるものなのに」

「俺は他のやつらとは違うんだよ」とFは陽気な歌うような調子で言った。「何しろ俺は、自分が欲しいものをよーく分かっているからな」

メフィはしぶしぶ杖を振った。

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