第7話



 朝起きて、俺はまず最初にリビングのテーブルを雑巾がけする。

 料理をするようになってから、身の回りのものを大切にする癖がついた。

 別に拭かなくたってメシは食える。

 だが、自分が作ったものに対して丁寧にしていかないと、いつか自分の料理を雑に扱ってしまう気がするのだ。

 もちろん同居人が帰宅した後に犯行に使った血まみれのナイフとかを置き去りにしていたり、ベッドに行くのが面倒でそのまま血まみれの本人がテーブルの上に女体盛りになっていたりするので、それをどかして清掃するという意味合いもある。もう俺んちのテーブルのルミノール反応やべぇよマジで。

 

 なので今朝も俺はまずリビングのテーブルを拭く前にチラ見して、その上に三百万の札束が転がっているのを見て膝から崩れ落ちた。

 

「あ、あああ……」


 お、終わった……

 バレたんだ!

 やはり無理があったのだ。

 伝説の暗殺者の娘・イバラ姫を騙してカネ引っ張ろうなんて。

 見ると三百万の札束の縁に血痕が付着していた。

 俺は震える手でその鮮血を撫でた。

 

「す、墨緒ぉっ! こんなになってぇ……」


 俺は三百万をひしっと抱き締めた。おそらく正体がバレた墨緒はもうこの世には……

 ごめんな……兄ちゃん、お前を守ってやれなかった……

 もう兄ちゃん、お前の隠し撮りブロマイドを売りさばいて「ちょっと臨時収入があってな」とか言って焼肉奢って格好つけたりしてやれないんだな……

 

「……なにしてんの?」

「う、うわあ!」


 背後から話しかけられて驚愕した俺は三回転半捻りしてから床に墜落した。もう怖いほんといきなり声出すのやめて欲しい。

 地べたに這いずったまま見上げると、ピンクのパジャマで歯ブラシを口に突っ込んだロゼがゴミを見るような目で俺を見下ろしていた。

 

「ロ、ロゼ……違うんだ、これには訳が……」

「どんなワケがあるっていうのよ」

「じ、事情があったんだ」

「事情があったら許されるわけ?」

「それは……」

「覚悟は出来てるんでしょうね」

「う……た、頼む命だけは! せめて俺の命だけは!」

「はあ? 何言ってんのよあんた」


 言うなりロゼは俺にエプロンを投げつけてきた。

 

「へ?」

「朝ごはん! もう学校いく時間になるじゃない! まったく、須藤のくせに寝坊なんて生意気よ」

「あ、ああ……そうか、俺、目覚まし止めちまったのか……」


 いそいそとエプロンをつける俺が視線で机の上を見ると、ロゼはため息をついた。

 

「まったく……こないだ、あの仮面のやつにカツアゲされたのは悔しいけど、臨時の仕事が入って助かったわ」

「臨時の仕事……」


 そうか、たまたま同じ三百万の仕事を昨夜請けただけだったのか。

 焦ったわ……あの血痕は墨緒の成れの果てじゃなかったらしい。


「それにしてもあんた、何を勘違いしてたのか知らないけど自分の命乞いだけはするのね」

「さてなんのことやら」

「この人でなし!」

「朝からメシの催促してくるやつに言われたくねぇよ!」


 たまには自分で作れってんだ。

 俺がマッハ8でキャベツサンドを作っていると(もうキャベツ切ってオーロラソースぶっ込んで挟むほかの時間がない)、リビングテーブルでのんきにテレビを見始めたロゼがこっちを見た。

 

「あ、飲み物はチャイがいい」

「あと三分で出なきゃいけねぇのにスパイス潰して茶ァ煮出すの!?」

「大丈夫、あんたならできるよ、須藤!」

「お前これで遅刻したら俺に文句言うからムカつくんだよ」


 作るけど。

 ロゼの贅沢品の中でも茶葉は俺が好きなものを買っていいので、スパイスティーを淹れるのは俺の密かな楽しみである。

 こないだ墨緒に嬉々として語ったら「兄さんに奴隷根性が身につき始めてる……」と気の毒がられた。そうかな?


「オラ、できたぞ」

「投げるなバカ!」

「お前がキャッチするからいけないんだろ!」


 そもそも投げなきゃ間に合わねぇよ。

 俺が制服に着替えて戻ってきた間にキャベツサンドを平らげたロゼはチャイを一息で飲み干すところだった。本当にコイツ味わうって言葉知らねぇな。

 

「はぁーっ。美味しかった。あんたを拉致して正解だったわ」

「お前がしてるのは拉致じゃなくて不法占拠だよ」


 賃貸なのに勝手にコルクボードとか壁に打ち込むしよ。

 ロゼはいつもの調子で顔をゴシゴシ擦ると一般的な女子高生が施すナチュラルメイクを瞬間で終わらせ、スクールバッグを肩に背負った。

 こうして見るとお淑やかで品のある交換留学生のように見える。

 俺が見ているのに気づくと、ロゼは両手を広げて俺を待ち構えた。

 

「ほら、早く」

「……ああ」


 俺はロゼに近づき、彼女を抱き締めた。


「痛くすんなよ。絶対に痛くすんなよ」

「しないって」ぎゅう。

「ぐああああああああああああああああっ!!!!」


 イバラ姫の抱擁は軽く見積もってもヒグマに軽く撫でられたぐらいの威力はある。

 俺はメキメキと悲鳴を上げる肋骨の心配をしながら、ようやっとロゼから離れた。

 

「なあ……毎朝、ハグする必要って本当にあるのかよ?」


 俺の質問にロゼはきょとんとした顔をした。

 

「え? だって、今日が『人生最後の日』かもしれないじゃない。お別れはしておかないと」

「それが暗殺者の考え方か」

「私の考え方よ」


 人のアバラに細かなヒビを入れておきながら、ロゼは鼻歌混じりにお気に入りの手袋(¥320,000)をはめてから爪先でローファー(¥84,000)を蹴り込み外に出た。俺も後を追う。

 

 ロゼのこの奇習を俺も男だから最初は歓迎していなかったわけではない。

 そりゃハグなんだからおっぱいの弾力だって味わえるしロゼの髪から香る匂いも堪能できた。

 しかしそれを補って余りある豪腕による圧迫によって俺のウエストは見る見る細くなり、こないだの健康診断で、

 

「須藤くん、どうしたの……? いきすぎたダイエットは身体に毒よ」


 と保険の先生に心配される羽目になった。

 まさか女子に毎日ハグされて肋骨がすり減りましたとは言えない。

 こないだ意味不明のジャーマン・スープレックス食らったムチ打ちも残っているし、肋骨は痛ぇし、キャベツサンドとチャイで回復が必要なの俺の方だったろ……

 脇腹を押さえながら、「今日もいい天気だな」と青空を見上げる。

 こんなことでへこたれている場合じゃない。

 なんとしても、ロゼから『一億円』を強奪しなければ。

 

 

 決意も新たに視界から消えたロゼを探すと、近所の小学生男子に「ぎゅう」をしていた。泡を吹いている。

 やめろタカシが死ぬ!!!!!

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