第2話 あ、こりゃ死んだわ

 あー。こりゃ、死んだわ。

 目の前に迫り来る通勤快速特急(新宿行)を振り返って、勇樹は思った。

 

 神崎勇樹かんざきゆうき。誕生日を迎えたばかりの三十二才児である。

 いいおっさんが児童を気取っているわけではない。もちろん、バブっている

わけでもなければ、オギャっているわけでもない。

 勇樹がガキんちょと呼ばれていたころには、スーツを着たサラリーマンたち

はみんな立派なおっさん、もとい、オトナに見えた。

 自分が同じ立場になって思い知る。

 オトナってのは、中身はガキのままで肉体ばかりが年を取ってしまった悲し

い生物なのである。

 昨日まで有休消化のために(なかば無理矢理)連休を取得していたわけだけ

れど、連休明けの出勤というのは何故こんなにもツラいのか。

 有意義な休暇だった。オンラインゲームの素材集めをしながら動画サイトで

科学や生物、世界遺産とかの解説動画を見まくって、好奇心を満たした。

 初心者をキャリーしてレア素材の回収を手伝うという人助けもした。

 ガキの頃には、科学者とか冒険家、それにヒーローなんかにあこがれてい

た。例に漏れず、かっこよく人助けをする自分を妄想する日々だった。


 実生活では、人並みの苦労なんかはしてきたと思う。


 二つ下の双子の妹と弟が、それぞれ音楽とスポーツに才能豊かなやつらだっ

た。母は早くに亡くなって顔もおぼろげにしか覚えていない。

 親父は男手ひとつで子を育てているからといって、彼らの才能をつぶしたく

ないという思いが強かった。

 勇樹はどこからどう見ても立派な凡人だという自覚があった。

 だからこそ、家事を積極的に引き受けた。高校生になってからはバイト代を

稼いでは、妹のレッスン代や弟の遠征費にあてていた。

 もっとも金のかかる時期、生活費のためにと俺の名義で限界まで借りた奨学

金は今も返済中だし、当然のことながら部活やらサークルやらの青春とは無縁

だった。


 別にそれは立派なことじゃないと、勇樹は思う。

 バイトや家事の合間に、オンラインゲームを無課金でやりこめるだけやりこ

んだり、図書館であれこれ借りてきた図鑑や本を眺めたり、スマホでオンライ

ン百科事典のリンクを片っ端からタップして「へー」とか「ほー」とか唸った

り……そういう楽しみがあった。妹も弟も、そういう時間をすべてレッスンや

練習に割いていた。


 身の丈を知る。

 思い出すと、勇樹は当時からそんなかんじのガキだったのだ。

 悪いことばかりじゃないし、勇樹にもやりとげたと胸をはれることがある。

 パリの音楽院への留学が決まった妹は号泣しながら「お兄ちゃんのおかげ

だ」と俺にハグをしてきたし、サッカーのプロリーグでちょっとした活躍をみ

せている弟は、この間のインタビューで最も尊敬する人物に「兄貴」を挙げて

いた。

 それだけでも十分すぎるほどの恩返しだし、我が妹と弟ながら俺なんかより

立派なオトナだと思う。別にその程度の苦労をしたからといって、人格が老成

することはないのだ。

 勇樹は勇樹で、こうしていい年をして趣味に没頭しているのは……まあ、悪

くはないと思っている。


 三十二才児なりに、充実した日々。

 科学者にも冒険家にも、ツーブロで日焼けしたベンチャー起業の社長にもな

れなかったし、中身はまだまだガキだけれど、不満はない……はずだ。

 ゲーム仲間とはチャットのみでのやりとりをしているから、相手の年齢も性

別もわからない。だが、話の端々を聞くに勇樹のような「オトナ児童」は少な

くないみたいだ。

 オトナ児童のままで社会に出て、外では「オトナ」の顔をして働いている二

重生活。なんだか少し周囲を騙しているような気持ちになる。

 ガキの頃には、オトナになったら誰にも叱られずにゲーム三昧してやる……

なんて想像していたけれど、本当にそういうオトナになってみると、心の隅に

はちょこんと居座っている罪悪感がつぶらな瞳で勇樹を見つめてくる。


 いや、三十二才児で何が悪い!


 結局はそうやって開き直って夜遅くまでゲームにいそしんでいたわけだが、

加齢ってのは残酷なものだ。

 見事に寝坊をした。

 微妙に寝ぐせの残る髪の毛をワックスで押さえつけて、ちょっと皺の寄った

スーツを着る。

 目の下のクマは見なかったふりだ。これは連休中のゲームのせいというより

は、残業続きによる慢性的な寝不足の証である。



 

「ん……?」


 そんなわけで走ってたどり着いた最寄り駅。今日から再開する労働のため

に、勇樹はいつもより一本遅い電車を待っていた。

 駅のホームに立っている人のほとんどが、生気のない顔でスマホの画面をじ

っと眺めている。

 オトナだ。

 工場のラインから不動産営業まで色々と職を経験したが、どの職場のバック

グラウンドも同じようなありさまで、死んだ顔で背中を丸めてスマホをいじっ

ている人ばかりだ。


「あの、大丈夫ですか?」


 その中で、様子のおかしい人がいた。

 勇樹の斜め前に立っている、菫色のマフラーをした女性がぐらぐらと揺れ始

めたのだ。

 声をかけたが、返事がない。

 危ないな、と思っていると、かくんと女性の足から力が抜けた。


「ああっ!」


 思わず叫んだ。

 このままでは線路に向かって、真っ逆さまだ。

 ホームには通貨電車を知らせる自動アナウンスが流れている。


「あぶないっ!」


 やばい、と思ったときには、すでに勇樹の身体は動いていた。

 女性の腕を取って引っ張る。

 ぐい、と力をこめた瞬間──今度は、俺が体勢を崩してしまう。

 立て直そうとしても、足にうまく力が入らない。

 ついに足首をぐねって、ホームに落下した。


 右肩、強打。


 ひと呼吸遅れて、誰かが悲鳴をあげる。


 緊急停止ボタン、誰か押してくれ。


 かすむ視界の中に、さっき助けた女性が見えた。

 真っ青な顔でこちらを見ている。よかった、とりあえず無事みたいで。

 ──そのとき。

 プワァァァー、マヌケで絶望的な音が近づいてきた。


「嘘だろ」


 目の前に迫り来る通勤快速特急(新宿行)の車輪と、ホームの悲鳴。

 勇樹は、俺は思った。

 

 ……あー。こりゃ、死んだわ。

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