第19話 千紗の思い、母の思い、伸行の思い
でも今は違う。千紗は、あの、母が所在無げに、居間でテレビを見ていた時間に、父がどこで何をしていたか、そんなこと、考えるのもけがらわしくて、嫌だったけれど、それを思うと、体中の血が沸騰するような、怒りを覚えた。
だから、そんな人と会うつもりなどなかったけれど、それにしても、お母さんに面と向かって、子供たちとは会いたいなんて言ったとしたら、人としての神経を疑う。許せない。
それなのに、母は、その父の身勝手すぎる要求を、受け入れるというのだ。千紗は、さらに納得がいかなかった。お母さんというのは、そんなにいっぱい、我慢をしなくちゃいけないの? 子供のために? あたしは絶対に嫌だ。
「あたしは嫌だよ。あたしは、絶対に面会なんかしない。断固拒否」
きっぱりと首を振る千紗を、母は、まっすぐに見つめて言った。
「お父さんに頼まれたからではなく、お母さんが、それがいいと思ったの。あなたは、中学生になったばかりだし、伸行はまだ小学生よ。お父さんとお母さんは別れるけれど、お父さんは、一生あなたたちのお父さんであることに変わりはないし、それに、必要な人よ、あなたたちにとって」
「必要かどうかを決めるのは、あたしだわ」
千紗は、決然と言い放った。
「そして、あたしには必要ない人だわ」
「千紗」
母は、なだめるように、穏やかな声を出した。
「あなたには、今の気持ちしか、見えてないわ。でも、時がたてば、あなたの気持もいろいろ変わってくると思う。いろんなことにぶつかって、いろいろ悩みも出てくるわ。その時、親身になって助言してくれる大人は、多いほうがいいに決まっている。それに、もっと大人になれば、きっと自分のお父さんのことを、もっと知りたくもなるだろうし」
「知りたくなるとは思えないわ」
「千紗」
「大体、なんでそんな重要なこと、大人だけで勝手に決めるの!」
千紗は、急に激情に駆られて叫んだ。思い出したくないこと、考えたくないことが、一挙に目の前に勢揃いし、心が折れそうだった。
「なんで、あたしたちの意見も聞かないで、勝手に決めんの。何でそんな約束、認めたの。なんでそんなに、我慢ばっかりするの・・・。
それに、面会させられんのは、あたしたちなんだよ。それなのに、どうしてあたしたちの気持ちは無視なの。嫌だって、絶対に会いたくないって、言ってるじゃない。冗談じゃないよ。大人だけで決めんなよ。勝手すぎるよ。なにもかも、あたしたち抜きで決めて・・・。
とにかく、あたしたちは、絶対に会わないから。あたしたち子供は、面会はしませんて言ってるって、裁判所に言って来てよ!」
怒りに燃えて、まくし立てる千紗の背中に、何かが、どすんと体当たりした。
「姉ちゃんだけで、決めんな!」
伸行が怒鳴った。
「僕がお父さんに会いたいんだから、いいじゃないか。僕が会いたいんだから、それでいいじゃないか。お母さんに、そんな風に言うな。何もかも、姉ちゃんだけで、決めんなよ。姉ちゃんのばか! 姉ちゃんのくそばかやろう!」
激昂する伸行を見て、千紗は、度肝を抜かれた。顔を真っ赤にし、鬼のような形相で、自分を叩き続けるその瞳からは、大粒の涙が盛大にこぼれている。
三月にやっと九歳になったばかりの、細くて小さな体から繰り出されるパンチは、精一杯の力がこもっていた。
「わ、分かった、分かったってば」
千紗は、慌てて言った。
「姉ちゃんが悪かったよ。姉ちゃんが悪かった。だから、もうぶつなって、痛いから」
必死になだめながら、千紗は、急に弟が哀れになった。無理もないよな。まだ子供だもんな。まだまだ、お父さんが恋しい年だもんな。
あたしだけじゃない。お母さんは、伸行のことも考えたんだな。千紗は、ほろ苦い気持ちで弟を眺め、母を思った。そして、千紗は、自分の中のこだわりを、一つはずすことにした。
伸行が、お父さんに会いたいというのなら、それなら、面会でも何でも行けばいい。それでみんな落ち着くなら、それでいい。だが、それはあくまで、伸行の場合に限った話であって、自分は一切、関わり合うつもりはない。
あたしはごめんだ。あたしは、あんな人、顔も見たくない。
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