小説 至誠、遥かなり!燃えよ土方歳三

長尾景虎

第1話 至誠、遥かなり!燃えよ土方歳三~誠の旗を掲げた男・幕末の剣士・土方歳三~

小説 至誠、遥かなり!

  燃えよ土方歳三

誠の旗を掲げた男 – 土方歳三、幕末の剣士


      ひじかたとしぞう   SHINSENGUMI~the last samurai ~

                ~「新選組」の戦略と真実!

                   今だからこそ、新選組

                ノンフィクション小説

                 total-produced&PRESENTED&written by

              NAGAO Kagetora長尾 景虎


         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



 あらすじ


 黒船来航…

 幕末、京の治安維持という理由で農民出身の剣豪たちが〝新選組〝を結成した。局長・近藤勇、副長・土方歳三、一番組頭・沖田総司……

 しかし、彼等が守る幕府のリーダー、徳川慶喜は軟弱だった。坂本龍馬が薩摩・長州の連合をつくって、天皇をかかげて官軍がなるとすぐに大阪から江戸に逃げてしまう。

 近藤たち新選組は薩摩、長州の藩士たちを殺していくが、やがて敗走し、京を逃れて江戸へ。しかし、薩長の圧倒的な軍事力の前になすすべもなく敗走。千葉の流山に布陣したところで近藤は、土方たち隊士を救うため「大久保大和」という偽名で薩摩軍に投降。しかし、正体がバレて打ち首になる。その首は江戸と京にさらされたという。沖田も病気で近藤勇の後を追うように死去。残された土方は北海道までいって闘うも戦死……

 こうして侍たちの世は終りを告げ、時代は江戸から東京、文明開花の明治時代へ移る。 新選組は最後のサムライだった。侍として生き、若くして維新の波に散ったのだった。

 幕末、武士の世が崩れていく中、農民から旗本となった近藤勇と新選組…勤皇佐幕の血なまぐさい抗争に明け暮れる京……その治安維持のために農民出身の剣豪たちが集団を組織した。守護職松平容保配下の「新選組」である。黒船来航により、開国か譲夷かで若者たちがゆれていた。隊長近藤勇、副長土方歳三以下、〝誠〝の旗印に参集した血気さかんな若者たち。近藤のもつ名刀・「長曾禰虎徹」、必殺剣術「天然理心流」、僅か四人で闘った「池田屋事件」。なぜ近藤や土方ら剣豪たちは薩摩・長州にやぶれ去ったのか?

 その謎を解く鍵が、この小説にはある!

 これはそうした維新に揺れ動かされた青年たちの物語である。



         1 黒船と立志




〝新選組〝の名を知らぬ者はいまい。

 隊長近藤勇の前の名前は島崎勝太といい、彼は農民出身である。「サムライになりたい!」その一心だった。そんな彼は江戸(現在の東京)の試衛館という貧乏剣術道場の指南役・近藤周助の養子となる。「サムライになりたい!」その一心のワン・ステップだった。

 沖田総司は天保十三年(一八四二)奥州白河藩江戸藩邸で沖田勝次郎の嫡男として生まれる。両親は幼い頃に死んだ。総司は、天然理心流三代目宗家・近藤周助の試衛館に入門、剣術を学んだ。剣術は天才的で、十二歳で白河藩剣術指南役と対戦し、勝利する。

 十代のうちに免許皆伝を得、師範代を勤めるまでになる。

 近藤勇は角張った鬼瓦のような顔で、ゲンコツが口にはいるほど口が大きく、筋肉隆々である。剣にもおぼえがあった。必殺剣術「天然理心流」、それが彼のすべてだった。まるで宮本武蔵のように、剣、で世の中を渡れると信じて疑わない人物だった。人一倍おひとよしで信じやすく、多摩の故郷を心から愛していた。

 副長土方歳三は面長の顔で、色白、しかしキレやすい。何かというと「斬れ! 斬れ!」とわめいたという。近藤の幼馴染みの農民で、痩体、しかし剣はすごかった。〝泣く子も黙る鬼の土方〝のちにいわれた。なかなかの風流人で、俳句や水墨画もたしなんだという。  沖田総司は近藤勇より十歳も若い。池田屋事件の時は、沖田総司二十一歳、近藤勇三十一歳、土方歳三三十歳である。それに井上源三郎ふくめて、四人が天然理心流宗家・近藤周助(周斎)の相弟子であった。このうち近藤が、十六歳の嘉永二年に周斎の養子になった。が、かといって勇がかれらの師匠という訳ではない。

 ……まぁ、義兄弟のようなものといっていいだろう。

 沖田総司の元服前の名は「惚次郎」で、黒船来航のときはまだ六歳だった。

 しかし、もう剣は鋭かった。大人でも負かした。剣の天才である。

 沖田総司というと薄幸の色白〝美少年剣士〝というイメージが皆さんの中にあると思う。が、真実はそれほど色男ではない。肖像画をみたが、いまいち冴えない風貌である。

 だが、ここではあえて、薄幸の色白〝美少年剣士〝として登場してもらいたい。

 沖田は浪人で、それは藤堂平助も永倉新八も斎藤一も同じである。

 永倉新八といえば、決党以来の近藤の盟友である。隊では二番隊の長である。

 斎藤一は、京で新選組が結成された頃、江戸から駆けつけ加盟した。斎藤は早くから近藤の江戸の道場に出入りし、稽古を手伝ったり、他流試合の代人として出たりして近藤とは縁が深い。近藤も斎藤を沖田のような直弟子のように可愛がったという。

 斎藤は恐ろしいほど剣の腕が立った。父親が播州明石松平家の浪人であったため、自分も明石浪人と称していたという。


 元治元年の池田屋事件(新選組が名を轟かせた事件。京の池田屋に集まっていた長州藩士たちが御所に火をつけ天皇を長州に奪い去る計画を練っており、それを阻止した)の斬り込みの際、喀血した沖田は動揺をかくせない。

「……なんで血など吐いたのだろう……?」

 このところ咳がつづいていたが、風邪かと思っていた。だが、まさか血を吐くとは…… 沖田が喀血したのを知っているのは永倉と原田だけだ。

 さっそく、医者に密かにひとりでいった。

 医者は喀血を知り、それりゃあきまへんな、といった。

「ねぇ、たいした事ないんですよね?」と沖田はきいた。

「馬鹿者、たいしたことないやつが血など口から吐くか? おまえさんの病気は労咳じゃ」「……馬鹿な! なんで私が?!」

「知るか」医者は冷たい。

「ねえ、なおるんですよね。治してよ」沖田はだるい体を横にしていった。

「労咳(肺結核のこと)にきく薬はない」

 医者はキッパリいった。

「………私は……死ぬの…ですか?」沖田は蒼白な顔になった。

「人間はいずれ必ず死ぬ。おまさんははようなっただけのことじゃ」

 沖田総司は愕然とした。

 しかし、屯所に戻ると、土方たちにどうだった? ときかれ、「なんでもありませんでした。只の風邪でした」と嘘をいい、沖田総司は強がるのだった。






 ……十年前。

 幕末、近藤の〝貧乏〝道場は「試衛館」、〝いも道場〝と呼ばれていた。

 田舎者の百姓ばかり集まっていたことからそう呼ばれた。道場には土方も藤堂平助も永倉新八もいた。道場主は近藤周助(隠居して周斎)、その男の養子が勇だった。勇の道着の背中にはドクロの刺繍があったという。常に「死」と背中あわせ……というところか。 新選組とは要するに、武州南多摩の農村に流布されていた天然理心流の剣術道場から成立したようなものだという。沖田も土方もその門人だった。

 なぜ農民の多摩地方の人物が国政に興味をもったのか? それは、武州南多摩というのは元々武田信玄からの家臣が戦乱の中でやぶれて、徳川家康にひろわれて移り住んだ地方であるからだ。だから徳川には非常に義理を感じている。多摩「八王子人同心」という。 だから徳川に一大事あれば駆けつける……という地域の農民たちなのである。

 その〝いも道場〝に天才少年がいた。名は沖田惚次郎、のちの沖田総司である。

 まだガキなのに恐ろしく剣の腕がたった。まさに天才である。


 近藤が帰ってくると、義母・ふでが文句をいった。

「勇さん、もうあなたは近藤家の跡取りなのですよ。あんな素性もわからないものと一緒になって…」

「土方は素性もわからないものではありません。幼馴染みの農民です」

 近藤はいった。鬼瓦みたいな顔に笑顔が見えた。ふでは「左様ですか」とふて腐れて去った。近藤が部屋に戻ると、沖田惚次郎(のちの沖田総司)の姉・みつが話かけてきた。 結構美人で、気立てのいい娘である。

「勇さん、黒船見にいくんですって?」すばやい情報収集能力である。

「え?」近藤は驚いた。「なぜそれを知ってらっしゃるので…?」

「町でお侍さんたちと話してるのを盗み聞きしたの」みつは平然といった。

 近藤は「そうですか」と素っ気なくいう。と、みつが「異人さんたちは何て幕府にいってらっしゃるのかしら?」と問うた。

「船を内海までいれろとか、鎖国を廃止して開国して交渉しろとか……好き勝手なことをいっているらしい」

「まぁ、そんなことを!」みつは驚いた顔をした。

「俺にいわせれば幕府の役人が腑甲斐無い。ガイジンのいいなりになってる。これから多分、戦、になります。尊皇壤夷です」

「まぁ、戦?!」

「はい。日本中の侍や浪人がたちあがります。ガイジンたちを追い払い倒すのです」

 近藤がいうと、ふでがいつの間にか廊下にいて「百姓に何ができます?」と嫌味をいう。「……俺は侍になります」

「ははは、どうやって」ふでは笑った。


 次の日の早朝、朝靄の中、近藤と土方の若いふたりが集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。

「黒船に乗り込む」と近藤。

 土方はにやりとして「斬るのか?」といった。

「日本人の中にも気骨のある人間もいるのだとガイジンにみせつけてやる」

「じゃあ、斬るのか?」土方はしつこくいった。

 人足姿の桂小五郎はふたりに気付き「おや? どうしたんだ?」と問うた。

 近藤たちは頭をかきながら「坂本さんに誘われたんです。黒船を見にいくと…」

 すると「いゃあ、遅刻したぜよ」と当人に坂本龍馬がやってきた。

 立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い遅い」と笑った。

「すいません佐久間先生」龍馬はわらった。

 この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい鬼瓦!」と近藤にいった。

「……俺は近…」

「黒船をみてみたいか?」

「は?」近藤は茫然としながら「一度もみたことのないものは見てみたいです」

「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」

 桂小五郎は「先生いいのですか?」と動揺した。

 しかし、象山は「よいよい! どうせ二度と会わぬふたりじゃ」と笑った。

 象山は馬にのった。桂や近藤らは人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。

 途中、だんご屋で休息した。

 坂本龍馬はダンゴを食べながら「おまんら百姓か?」と近藤と土方にきいた。ふたりは答えなかった。龍馬は続けた。「わしは土佐・の郷士だったんだが脱・したんじゃきに」「……郷士?」土方はきいた。

 龍馬はにやりとして「土佐では上士と郷士に別れている。上士がサムライで、郷士は商人みてぇなもんじゃ。俺は侍になりたかったんじゃ。お前らも侍になりたいのじゃろ?」 近藤は「もちろん、サムライになりたい!」と志を語った。「俺も俺も」とは土方。

「おい鬼瓦」象山はいった。「日本はこれからどうなると思う?」

 近藤は無邪気に「日本はなるようになると思いまする」と答えた。

「ははは、なるようにか? ……いいか? 鬼瓦。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」

 佐久間象山は説教を述べた。

 やがて一行は関所をパスして、岬へついた。近藤と土方は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!

 浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。龍馬は丘の上に登った。

「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」

 近藤たちは砂浜に下り「なんてでかい船だ!」と圧倒されていた。全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。近藤たちは頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。

 桂は「あのような巨大な船をつくる国との戦では…勝てないのでは…」と動揺していた。

 象山は「桂くん。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。

 近藤勇二十歳、土方歳三十九歳……それぞれ志を新たにしていた。

「かっちゃん! ガイジンを斬り殺そうぞ!」

「佐幕だ! 佐幕だ!」

 ふたりは興奮して叫んで、いた。

         2 壬生浪人組





 黒船をみたことで、近藤も土方も興奮冷めやらぬ思いであった。

しかも、佐幕、に目覚めたのだから質がわるい。

 やれ、幕府をたてて外人を攻め滅ぼす! とか、日本も同じような軍艦をつくって対抗しよう……だのと言いあっていた。

 だが、〝いも道場〝の中でいくら侃々諤々と議論しても糞の役にも立たない。そういったのは斎藤一だった。斎藤一は剣の腕が立った。達人といってもいい。

 そして、世情に明るかった。

「剣の腕で、侍になるしかねぇ」斎藤一はいった。

 土方も「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」

「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」

「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」

 近藤らは笑った。

「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。

 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。

 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。

 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。

 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だらけになった。

「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。

 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」

 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。

「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」

 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。

 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。

 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」

「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。

「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。

 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。

 けっこう美人なほうである。

 

野試合は紅白両軍に別れ、赤の大将は御獄堂糺。白の大将は、土方歳三の義兄佐藤彦五郎(日野宿大名主)であったという。

 近藤はいずれにも属せず、「本陣総大将」という役目で、旗本、軍師、軍奉行、軍目付、などをものものしくつけ判断したという。野試合には百人ほどの門人がでた。

 土方は当時二十四歳で、赤の大将の旗本のひとりにまじっていた。沖田総司は十五歳で、井上源三郎老人(といっても四十四歳、のちの新選組の中で最年長だった)も加わった。 白と赤のはちまきをして、額には割れやすい皿をつけている。割られたら負けだ。

 沖田総司はするどい木刀さばきで、次々と相手をまかした。

 土方とて負けてはいない。赤組の勇として、相手をバッタバッタと叩きつぶした。やがて彼の義兄佐藤彦五郎(白組大将)と一騎討ちとなった。

「やっちまえ! 土方さん!」そういったのは天才・沖田少年だった。

 ふたりは睨み合った。義理とはいえ兄弟同士である。

 やあっ! ふたりの木刀が交わる。しかし、剣の腕は土方に分があった。土方はするどい木刀さばきで義兄を倒した。

「それまで!」陣幕まで派手にかざって〝戦国大名気取り〝の近藤勇が、そういった。

 勝負あったのだ。赤組の勝ちだ。

「よし!」十歳で免許皆伝した稀有の天才・沖田総司はガッツ・ポーズをした。

 近藤は何か考え違いをしていた。

 このような野試合などしたところで、何の役にもたたないのだ。斎藤一のいうように糞の役にもたたない。侍にならなければ、剣の腕がいかに立っても、誰も認めてはくれない。 それはちょうど浅学非力な学者が、社会の役に立たないのと一緒だ。

 しかし、近藤とてそれを知らぬほど馬鹿ではない。

 必死に仕官の道を探していた。

 そんな中、近藤勇にチャンスがやってくる。

「あの話、本当か? 近藤さん」土方歳三が興味津々できいてきた。

「何が?」近藤はしらばっくれた。

「幕府が剣術指南役を募集してるってさぁ」

「情報が早いな、トシサン」近藤はうすら笑いを顔に浮かべた。「俺、受けようとおもってるんだ……その試験」

 江戸の徳川幕府は新たな剣術指南役を募集していた。身分は問わないというラッキーな募集だった。合格すれば「サムライ」である。近藤たちにとっては〝大出世〝だ。

「俺も受けたい」土方がいうと、近藤は首をふった。「一道場からひとりだけという募集だ。そのかわり身分は問わないってさ」

「じゃあ、何で近藤さんなんだい? 俺の方が強い」

「俺が道場主だからさ。それに俺たちより総司のほうが腕は立つぜ。まだ童子だが」

 土方は「皮肉なもんだな。同じ多摩の百姓なのに。近藤さんは幸運のひとだ」

「それは受かってから言ってくれ」

 近藤は笑った。

「俺はサムライになって幕府を守る! 幕府を守る要となる!」

「でかいこというね、近藤さん」土方は呆れたようにいった。

 幕府の剣術指南役の試験が始まった。

 もちろん、〝剣術指南役〝であるから、ペーパーテストなどではない。木刀による剣術テストである。近藤勇はバッタバッタと相手を倒していった。

 さすがは〝天然理心流免許皆伝〝である。

「それまで!」

 やがて、近藤は登りつめた。頂点に、一番になったのである。彼の剣の腕に幕府の役人たちも驚き、「お主はすごいのう」と感嘆の声をあげた。

「いいえ、相手が弱すぎただけです」近藤は謙虚にいった。にやりとした。

 普通に考えれば、近藤勇は〝採用〝である。

 だが、現実は甘くはなかった。近藤勇はさんざん待たされたあげく、〝採用取り消し〝となってしまう。近藤は納得がいかず「なぜでござる?!」と役人に詰め寄った。

 役人は申し訳なさそうに「勘弁してくれ」というばかりだった。

 どうも、〝百姓出身者〝から剣術を教えられたくない……という意見がよせられたからというのが真相のようである。

「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。

 せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!

「どうでした? 近藤先生」

 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」と、ぼそりといった。

「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」

 と口ごもった。

「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。

「……その通りだ。トシサン」

 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。

 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?


 この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に〝英雄〝となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。

 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。

 その後、幕府の密偵を斬って遁走するが、それは後述したい。

 土方はこの頃、お琴という娘に夢中になっていた。

 けっこう可愛い娘で、気立てもよく、〝夜の事〝もうまかった。情熱的な性格で、京まで土方を追いかけてくるような娘である。

 土方歳三はお琴に夢中になり、お琴も彼に夢中になっていた。



 文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。

それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。

 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。

 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。

 会合場所は、小石川伝通院内の処静院でおこなわれたという。

 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。

 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。

 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。

 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。

 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない〝浪人〝を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」

 土方は江戸訛りでいった。

「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。

 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。

 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。

「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」

 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。

 今度は〝採用取り消し〝の、二の舞い、にはならなかった。〝いも道場〝試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」

一同は歓喜に沸いた。

 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。

 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。



 ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。

「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は〝鬼瓦さん〝ではない。近藤。近藤勇だ」

「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。

「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」

「よくない!」と近藤。

 龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」

「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」

「重要人物? 名は?」

「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」

「勝海舟? 幕府の軍海奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。

「会いたいきにか? ふたりとも」

 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。

 龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。

 近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。

 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。

 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも〝いびつ〝に見えていた。

「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。

 近藤たちは緊張して座ったままだった。

 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。

「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」

 近藤は下手に出た。

「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。

「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。

「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」

 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。

「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」

「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。

「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」

「………トップ?」

「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。

 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。

 勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」

「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」

 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。

「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」

「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」

 今まで黙っていた龍馬が強くいった。

 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。

「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。

 そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。

「これが世界よ。ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」

 勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」





 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。

 処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。

 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。

 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。

 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。

 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。

「あれは何者だ?」

 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、

「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」

「なぜわかるんだ?」

「だって……すごい訛りですよ」

 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。

「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。

「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。



 隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。

 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。

 そして、土方は江戸を出るとき、お琴に別れをいった。しかし、お琴は歳三のことが忘れられずに後追いで京へ向かった。それはまさに吉川英治の小説『宮本武蔵』の中の「お通」のごときであった。

 浪人隊は黙々と京へと進んだ。

 途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。

 浪人隊はやがて京に着いた。

 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。

「江戸へ戻れ」というのである。

 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」

 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。

 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。

 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。

「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。

 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。

(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって〝英雄〝となる)


「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」

 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」

「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」

「京の守護職って誰だっけ? トシサン」

「さあな」

「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」

 近藤はさっそく文を書いて献上した。…〝将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい〝

 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。

 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。

 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。

 勇たちは就職先を確保した。

 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。

 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………


〝芹沢の始末〝も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………

 土方は禁令も発する。

 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)

 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で〝組〝を強固なものにしようとした。

 永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。

「誠」の紅色旗がたなびく。

 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。

  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!

 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。      そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、

「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。

 そして、容保は書をかく。

 ……………新選組

「これからは壬生浪人組は〝新選組〝である! そう若者たちに伝えよ!」

 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。

 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。

 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。

 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。       


         3 芹沢鴨の暗殺






 話を少し前に戻す。

 ここでは芹沢鴨の暗殺の真相について語りたい。

 土方歳三は鴨に不快感をもっていた。浪士隊の二百三十四人の中にはいってから、芹沢鴨は清河とともに〝我が者顔〝だった。もちろん、鴨などというのは本名ではない。

 それについて近藤が尋ねると、

「なんで鴨かって?」と逆質問してきた。「覚えやすいだろ? 鴨、鴨さんってな」

 芹沢は慇懃にいった。

 江戸を発って木曾街道をすすんだ。

「あの鴨ってやろう……いつか殺す」相変わらず土方はぶっそうなことを呟いていた。

 道中には〝宿割り〝という役目があった。要するに、旅で宿を探し手配する役回りである。板橋を発ち、蕨、浦賀、大宮、上尾、桶川、鴻ノ巣、熊谷、深谷と泊まりをかさねてあすは本庄宿というとき、六番隊平隊士近藤勇がこの役についたという。

 勇にそういう雑務の才能があろうはずもなく、歳三が心配して、

「あんたにはそういう仕事は無理だ。病気だとでもいって誰かとかわったほうがいい」

「いや大丈夫だ。これくらい」

「なら、俺が補佐してもいい」

「やめてくれよ、トシサン」近藤はきっぱり言った。「このくらい俺ひとりでできるよ。トシサンの合力はいらないよ」

 歳三が案じた通りになった。

 本庄宿に先行した近藤は、幕史の鵜殿、山岡を本陣に泊め、清河を上宿にし、七隊長も特別あつかいしてそれぞれ旅籠の上室をあてがい、各隊士の宿ぶりをきめたまではよかった。しかし、それからドジを踏んだという。

 芹沢鴨の宿舎を忘れていたのだ。

「これはおかしい」鴨は嫌味ったらしくいった。「わしの宿はどこかな?」

 これにはさすがの近藤も蒼白となった。

「ないのか?」

「はっ、いずれ」近藤はしどろもどろになった。

 早速、宿を探した。しかし、みつからなかった。

「このたびのこと、申し分けござらぬ! 拙者のそこつでござった!」

 近藤は手をついて謝った。いきおい土下座のようになる。近藤のようなプライドの高い男には、堪えられない屈辱だった。

「なにとぞ、ご容赦くだされ!」

 芹沢は名にも答えず、しばらく沈黙してから「いや、おかまいくださるな。宿なしの芹沢鴨は野宿する所存である。そのかわり寒いから篝火をたかせていただく。芹沢の篝火は少々大きいかも知れぬので左様心得くだされ」といった。

 芹沢はさっそく一味の新見錦、野口健司らに命令し、近所の小屋をこわして板を山のように積み上げ、夜になると火をつけた。その火は夜空をこがし、火の粉が宿の屋根にもかり、近村からも「火事ではないか」とかけつけるほどであった。

 鵜殿も山岡も、「火事になったら…」と心配で一睡もできなかった。

 近藤へのつらあてであったという。

 夜中、藤堂平助などは何度か、「斬る!」と叫んだ。しかし、近藤がそれをとめた。沖田は二階からその火柱をおもしろがって見ていた。

 土方は、夜中に何もいわず天井をじっと見ていた。それが妙に不気味だったという。

 二月二十三日、京へ着いた。

 てごろな宿がないため、一同は壬生邸に駐屯し、本部を新徳寺に置き、数軒の宿に分宿した。ところが彼等が駐屯してわずか二十日で江戸の幕議が一変した。「江戸へ帰れ」というのである。表むきは「生麦事件のため」となったが、前述した通り、清河八郎の朝廷工作が発覚したからである。一同は江戸へと下った。

 そんな中で「初心を貫く」として残留したものたちがいた。近藤たち七人である。

 ところがどういう訳か、

「俺もそうしたい」と芹沢鴨も同調した。合わせて十三名になった。

 桜が散り、若葉が眩しい頃、前述した通り近藤が「嘆願書」を京守護職・松平容保にだして意外とあっさり「預り」となった。こうして「新選組」が歴史上に登場したのである。 隊の最高機関は局長職で、筆頭が芹沢鴨で、常任三人で、次が近藤勇、そして芹沢系の新見錦となっている。芹沢派優勢である。

 しかし、その下は近藤派優位で、副長は山南、土方で優位になっていた。

「副長助勤」には、沖田、永倉、原田左之助(槍の名人・宝蔵院流)、藤堂、井上などの江戸からの近藤の側近が占め、また土方の肝いりで、大阪浪人の山崎蒸、や斎藤一などが採用された。新選組の中では近藤派優位であった。芹沢派など四人に過ぎない。

「俺はね、近藤さん」土方はいった。「新選組はいずれあんたのものにしたいと考えている」

 同じ多摩の百姓出身同士のふたりは仲がよかった。

 そのためにどういうことが必要かと説明すると、近藤はにやりとした顔になった。

「これは天下に関係することだ。もはや新選組は各藩、公家と同等といってもいい。新しい風が、いま俺たちの時代に吹いているのだ。維新の風が……。すざまじい風が……

 その風に乗るもそるも局長次第だ。今、鴨のようなものが局長では困るのだ。近藤さん、あんたが新選組の長とならねばならない。そのために俺も知恵を出す!」

「しかし…」近藤は重い口をひらいた。「いそぐことではあるまい」

「わかっている。しかし、近藤さん。時期がくるまであんたはにこにこ笑って黙っていればいい。そうすれば皆、あんたについてくる。芹沢鴨は馬脚をあらわすに違いない」

「そうか?」

 近藤は不思議な表情をした。「わかった」

 近藤には将器があると土方はみていたといういう。そして、土方は組織をつくる能力に長けていた。多摩の田舎で、無名に近い「天然理心流」を広め、少ないがブームをまきおこさせたのも土方の才能だった。

 しかし、いくら芹沢が邪魔で、京の商人たちをゆすって銭をあつめていている犯罪者だとして、殺すにしても、芹沢は神道無念流の達人であり、なかなか腕がおよばない。しかも、酒がはいれば狂人、凶暴になるから質が悪い。

 待つしかない……土方はそう思った。


 芹沢は、常州芹沢村に生まれている。本名は木村継次といった。芹沢鴨とは脱・して風雲の中でつけた名であったという。なぜ、鴨なのか? 当時、一文字だけの名前が浪人の中で流行っていたからだという説もある。

 芹沢の恐ろしさは、泥酔していても剣がいささかも衰えないことである。土方歳三は芹沢を本当に身の凍る思いで恐れた。芹沢と屋敷に討ち入るときも鴨は酔っていた。

「土方君、これからこの新選組局長・芹沢鴨とふたりで、討ち入る! 譲夷派の浪人たちを皆殺しにするのじゃ!」

 ふたりは宿に討ち入った。「ご用改めである!」

 しかし、誰もいなかった。布団がまだ生暖かい。……誰かが知らせて逃げたか…

「たあっ!」

 鴨は激怒して、行燈を斬った。その斬れ筋はするどく、背筋に悪寒が走るほどであった。芹沢鴨はなおも、襖や屏風を斬りだした。

 ……狂え、狂え、この狂人……

 土方は思った。鴨が狂人になるたびに近藤への支持者が増える。思惑通りだ。

 芹沢は途方もない、いたずらをした。

 小屋から大砲を運んできたのである。

 近藤には「なにをなさる」とは言えなかった。軋轢を恐れたのだという。近藤は見て見ぬふりをして居間にもどると、そっと歳三を呼んだ。

「庭の騒ぎ、見たか?」

「見た」歳三は渋い顔で頷いた。「どうなさる? あの大砲は壤夷の外夷征伐のために守護職さまから借り入れたものだ。使用するには三局長の同意がいる」

「俺をせめてもしかたあるまい」

「そりゃあそうだが」歳三は苦々しく「あの鴨は早めに始末しなくてはならない」

「斬る……ということか?」

「そうだ。斬る!」

「しかし、鴨は神道無念流の達人。勝てるか? トシサン」

「なぁに」歳三はにやりとした。「ふい討ちだ。のう、近藤さん」

「とにかく(沖田)総司に芹沢のことを探らせよう」

 沖田少年はよく、芹沢のことを調べてきた。

「芹沢は大砲で商人を脅して銭を出させようとしているようです」

 沖田はいった。

「沖田君、君は正気か?」

「わかってます、呑気すぎるっていうのでしょう。そんなことしたら銭目当てで狼藉を働く浮浪浪士とかわらない。まるで盗賊のごときで…」

「もういい。引き取っていい。総司」土方はそういった後、「いまこそ斬るべきだ」

 と、刀で斬るマネをした。芹沢は隊規則に違反した。いまこそ斬るべきだ!

「しかし…」近藤は眼をそらして「芹沢を斬れる男がいるかい? トシサン」

「沖田なら斬れるでしょう。新見錦は宝蔵院流の原田が、平山、平間は永倉、藤堂が討ちとる」

「そうか。なら勝てるかも知れない」近藤は深く頷いた。

 芹沢は大砲を本当に商人の屋敷に撃ちこんだ。「撃て! 撃て!」

 やがて屋敷が火に包まれた。京の幕府の連中がきたが、相手が新選組だと知るとたじろいだ。芹沢一派はこうして銭を奪取したのである。

 壬生邸にもどると新選組内部でも、その話でもちきりだった。ただ、近藤と土方だけはにがにがしい顔をしていたので誰も話かけなかった。

 ただ沖田だけが、夜になり土方のところへくると「おもしろかったですね、土方先生」

 と笑った。「俺は…」

 土方は苦笑して「火事が好きだってんだろ?」

「そうです。大砲火事なんてなかなか江戸でも見れないでしょ? あれは見たかった」

 沖田総司は、奥州白河藩の江戸定府だった者の子で、近藤の道場では万人にひとりという天才剣士だった。「それにしても芹沢さんは変なひとですね」

「変?」

「だって、あんなことするかとおもうと、寝言なんかいって……豚汁とか、コンペイトウとか…いくらこづいても起きないんです」

 土方はハッとした「起きない? それは本当か? 総司」

 沖田は何かマズいことをいったような気がして「まぁ…」とバツが悪そうにいうと去った。土方歳三はにやりとした顔を序序につくり、

「そうか……寝たら起きないか…」とひとりでいった。

 芹沢は「お梅事件」をおこした。

 歳三がそのことを知ったのは、例によって沖田が部屋にきてしゃべっているときだった。「土方先生はごらんになりました?」

「なんのことだ?」

「うといなぁ。永倉さんにいわせると京でも指折りの女子らしいですよ。俺はああいう女子は嫌いだけど」

「なんだ、女子の話か」

「いやだな、食べ物か何かの話だとでも思ったんですか?」

 沖田の話によると、芹沢の屯邸に毎日のように女が訪ねてくるという。四条堀川の呉服商菱屋太兵衛の妾で、お梅という。菱屋太兵衛の正室はすでに亡いから、妻同然である。「芹沢さんは相変わらず女好きだなぁ」

「芹沢が女好きなのは今にはじまったことじゃない。要するに、商人の妻同然の女を妾にしているのが問題なのではないか?」

「まぁ、そうかも知れませんねぇ」

「総司は生まれたままだのう」土方は笑った。無邪気な若者に感心したのである。

「俺を子供扱いするのはやめて下さい、土方先生」

 沖田はわらった。土方も笑った。


「土方先生はずるいから、一ノ太刀はご自分でつけるつもりなのでしょう? そうはいきませんよ。俺に譲ってもらいます」

 土方は、「総司にはかなわんのう」といった。

「ただ、心配が俺にはあります」沖田は続けた。「もし、芹沢が寝ているところを襲うにしても………お梅さんが一緒に寝入っていたら…?」

「斬る!」

 土方は間髪いれずいった。

「可哀相だな」沖田は涙をうっすら浮かべた。歳三にはその感情が理解できなかった。


 当日がきた。

 その夜には、芸妓上げで平山も芹沢も泥酔し、おおいびきで寝入ってしまっていた。

 近藤は「芹沢先生は寝入ってらっしゃるか?」と番頭にきいた。

「へぇ」番頭は頷いた。

 ……新見錦のときと同じだ。

 近藤は思った。

 新見錦はもういなかった。死んだのである。大砲事件の責任を追及され、切腹していた。 よって芹沢派は、芹沢自身と平間重助、平山五郎、野口健司だけになっていた。

 沖田は「芹沢先生は、帰営してから酒だ酒だとわめいていらっしゃいましたが、やがて寝てしまいました」といった。

「平間重助、平山五郎、野口健司は?」と近藤はきいた。

「寝ました」

 午後十過ぎから、雨はあがった。雲から月明りが差し込んでいた。

 近藤たちは羽織りを脱ぎ、たすきをかけ、裸足で襲撃した。

 一同はひそかに前川屋敷の裏口から侵入すると、八木屋敷に突入し、襖を蹴り倒した。沖田は一瞬ひるんだ。鴨が、丸裸で寝入っていたからだ。どうやら情事のあとすぐに寝入ってしまったらしい。

 沖田の刀が閃くと殺戮は始まった。

 芹沢は肩を斬られて激痛で目が覚め、刀に手をかけたが、ない。あきらめたのか芹沢は襖に体当たりして廊下にころがった。原田左之助が槍でつこうとしたがかわされた。しかし、芹沢の前に土方が踊り出て、冷たい一刺しで芹沢鴨は殺された。

 このあいだ、お梅も虫のように声もたてず刺し殺された。沖田が殺したのではないか?土方はそう思った。平山五郎は原田左之助の槍で首をはねられた。

 平山と寝ていたはずの吉栄という女はもういなかった。いがいと機敏な女だったらしい。 平間重助と野口健司は遁走し、二度と歴史上に姿を現さなかった。

 翌朝、近藤は三人の遺体を検視し、〝病死〝として京守護職に伝えた。

 葬儀は事件の翌々日、文久三年九月二十日、壬生屯所で盛大におこなわれたという。近藤はまるで、諸葛孔明が周揄の葬儀のときつかった演技のように、涙で声をふるわせながら弔辞を読んだ。ときおり、涙を拭き、声をとぎらせた。

 近藤勇、一世一代の〝演技〝である。

 こうして、芹沢鴨たちを粛清した。そして、新選組は近藤勇のものとなったので、ある。

         4 池田屋事件






 新選組の血の粛清は続いた。

 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。

「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」

「新選組の土方である。中を調べたい!」

 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。

 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。


「なんだ? その格好は」

 ある夜、部屋にやってきた沖田の姿を見て、土方はいった。沖田は鎖をきていた。

 灯籠に火をつけてのことだった。

「総司です。俺だって好き好んでこんな格好しているんじゃありませんよ」

「どうかしたのか?」

「源さんですよ。あなたが悪いんですよ」

「俺が……?」

「源さんに説教めいたこというから……源さんいいところをみせようと思って、例の国枝大二郎一人をつれて、肥後者の巣の小川亭へ討ち入りに出掛けました。死ぬ気ですよ、あれは」

 土方は珍しく狼狽して「源さんには無理だ」

「無理でもああいうひとだから、新選組の足手まといになってないってことを見せようとして討ち入りにいったんですよ、きっと」

「馬鹿野郎!」

 土方は起き、いまいましそうに衣服をつけた。確かに、井上源三郎は近藤、土方、沖田の足手まといだった。しかし、その井上を見殺しにしては故郷の連中にあわせる顔がない。

「総司、手の者を駆けさせろ! 俺と近藤さんはあとでいく!」

 沖田の一番隊が駆け出した。

「源さん……まだ死ぬなよ!」沖田は願った。駆けながら。必死に。

 新選組は隊士の命など、塵のほどにも思っていない集団だったという。なのに、なぜ、井上源三郎程度の男のために必死になったのか?

 それは、近藤との縁である。土方との縁でもある。井上源三郎は多摩の田舎で一緒に夢を見、親戚からも「源さんを頼むぞ」といわれていた。そういう縁なのである。

 そして、井上源三郎は死ななかった。沖田組の援軍がかけつけ、肥後者浪人たちをバッタバッタと斬り殺した。こうして、井上源三郎は助かった。


 文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。

 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。近藤勇にはこの頃、大事な女が出来ていた。深雪太夫という芸者である。

 深雪太夫は近藤勇の妾であり、美貌のひとであった。

 どうして彼女が、美貌で名を馳せた頭のいい娘が、なぜ通りのどんずまりにある芸者宿で太夫になり、近藤勇のような〝鬼瓦〝のような顔の男と知り合いになり、愛し合うようになったのだろう。人生でもっともすばらしいものに出会えたはずの、たとえば、まともな定職と収入のある男、ことあるごとに「懸想しておる(愛している)」と囁いてくれる男と夫婦になることができたはずの深雪太夫が、どうして近藤勇などの妾になったのだろう。

 そうだ! 思いだした。……深雪太夫は彼を見つめ、長いあいだ立ち尽くした。疑問の余地はない。彼女が今まで接した、あるいは見てきた男のなかで近藤勇こそ「やさしい男」であった。けしてハンサムではない。敵には厳しいが、女子には優しく、とてもいい雰囲気のある男…それが近藤勇である。

「近藤はん、今夜もよろしう」

 深雪太夫はにこりと微笑んだ。

 勇は太夫に目をやり、今日はじめてまともに彼女を見た。おれの女。俺が助けを求めたらちゃんと力になってくれるだろう。今宵はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女だ。近藤勇の目が彼女の小柄な体をうっとりと眺めまわした。ほれぼれするような女子だ。 鮮やかな髪、細い体躯、白く細い手足、目が大きくて大きな、大きな眼には睫がびっしり生えている。男心をくすぐるような美女である。

 近藤は帆柱たって、あわててとりつくろった。



         

「死番」というのがある。

 新選組の守る京は路地がまがりくねっていてパズルのようになっている。死を覚悟して先頭に立つ隊士が「死番」である。それは四日に一度巡ってくる。

 その夜の「死番」は、島田塊という巨漢の男だった。島田は当時、百七十キロあって、七十三歳まで生きたという。明治維新がおわってからの明治時代、旧新選組隊士がこぞって本を出版したが、島田も「島田日記」という本を執筆している。

 どこの世界でも、どの時代でも、みな自分の経験や武勇伝を知らせたいものなのだ。どうやら、島田もその口らしい。

 島田はその夜、巨体をぶるぶる震わせながら、「死番」にあたった。いつ、敵が斬りつけてくるかも分からない。恐怖で、塊はどうにかなりそうだった。

「島田! びびってんじゃねぇ!」

 後列の山崎蒸が茶化した。島田は黙って恐怖を隠し、「俺は平気だ」などと言った。

 しかし、いつ死ぬかわからぬのだから怖がるな、というほうがどうかしているだろう。

 黒谷の屋敷には新選組隊士四人が忍び足で侵入した。皆、槍をもっている。その指揮者は大石鍬次郎である。剣の腕も人物もたいしたことなかったらしい。が、「人斬り鍬次郎」の異名をもつほど〝人殺し〝に熱中するのだった。

 近藤は新選組隊士を粛清するときこの男をよくつかった。

 大石らは浪人を斬った。そして鍬次郎は死体を何度も槍で突き、見かねた土方が、

「やめろ! 大石!」といったという。

 大石は槍で突くのをやめて、佐野七五三之助の顔を蹴った。そのとき不思議なことがおこったという。死んだはずの佐野がよろよろ起きあがり、脇差を抜くや、大石の顔から足まで薄く斬ると、ドサッと倒れ、また死体にもどったのだという。

 どうやら蹴られた拍子に息をふきかえし、大石のごとき〝ゲス野郎〝に憎悪の念を示したのであろう。

 大石鍬次郎はのちに幕府軍不利とみるや官軍に投降し、「官軍で槍働きさせてくだされ」などと言ったという。しかし、この男のあまりの〝前歴〝に官軍も鼻をつまみ、やがて処刑されて首を市中にさらされた。

 とにかく、十ケ月あまり、新選組は京で反幕府勢力の浪人たちを次々と殺戮していった。 そして、近藤たちの新選組は鬼のように恐れられていくのである。

 この時期、「長州間者(スパイ)」事件がおこっている。

 この事件は、京の浪人深田新作がその腕をかわれて新選組に入るが、女との腐れ縁によって長州の間者(スパイ)となり、沖田にみやぶられて殺されたという事件である。

 殺したのは沖田総司ではない。「ひと斬り主善」こと松永主善に殺されたのである。


「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」

 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)、寺田屋事件(一八六二年)………

 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。

 元治元年(一八六四)六月、新選組は〝長州のクーデター〝の情報をキャッチした。

 六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。

「トシサン、きいたか?」

 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」

「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。

「というと?」

「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」

「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」

「江戸の幕府に書状を出した」

 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。

 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。

「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」

「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」

 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。

 とにかく、近藤勇たちは決断した。


 池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。

 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。

 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。

 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。

 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。

 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。

 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。

 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。

「新選組だ! ご用改めである!」

 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。

「桂はん…新選組です」芸者が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。

 近藤は廊下から出てきた土佐脱・浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。

 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。

「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。

 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。

「手むかうと斬る!」

 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。

 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。

 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。

 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。

 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。

 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。

 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。

 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。

 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、隊士をさらに増やすように資金まで送ってきたという。

 近藤たちは朝廷から感謝状をもらった。近藤は「これで侍になれる!」と思った。正式な。侍に。〝預かり〝の浪人ではなく、本物のサムライに……


「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。

「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。

「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」

「すごい人殺しですわねぇ?」

「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」

「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。

 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。


 この年、近藤の妾、深雪太夫が病死した。

 近藤は駆けつけたがすでに手遅れ、深雪太夫は近藤勇の腕の中で死んだ。近藤は初めて泣いた。悲しかった。せっかくの俺の女子が……

 近藤の全身の血管の中を、悲しみが、悲しい感情が駆けめぐった。涙が瞼を刺激した。近藤は、これはいかん、と上を向いて堪えた。しかし、涙はあとからあとから溢れ、やがて彼は号泣した。

 深雪太夫には妹がいたという。これまた美女で、名を孝子といった。

 寂しさからだろうか……近藤勇は孝子を、次の妾、とした。

 新選組崩壊のわずか数年前のことで、あった。             



         5 禁門の変と大政奉還






             

 長州の久坂玄瑞は、吉田松陰の門下だった。

 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期にはあの高杉晋作がいた。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。

 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。

 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?

 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。

 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。

 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……

 松陰は思う。

 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……

 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。

 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。

 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。

 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。

 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。

…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

 かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。

「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」

 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

 文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。

 しかし、彼は〝尊皇壤夷〝で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。

 久坂玄瑞は奮起した。

 文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。

 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。

「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」

『二心公』といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。

 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。

 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。

 元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。

 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。

 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。

 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者に何がわかる?!」とわめきだした。

 久坂玄瑞は沈黙した。

 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。

 七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。

「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。

 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、

「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。

 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。

 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。

 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。


「やったな、近藤さん!」

「やったぞ、トシサン」

 近藤と土方は喜んだ。〝禁門の変〝から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。

 銭はあればあっただけよい。

 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。

 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三。あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。

 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような〝スターリン式恐怖政治〝で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。

 そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州・の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このままではわが国は外国の植民地になる!」

 近藤は危機感をもった。

「しかし、近藤さん。幕府に壤夷は無理だ」歳三はいった。

「壤夷なくば……」近藤は続けた。「隊を解散せよ!」

 長州も壤夷論者だが、新選組は斬り続けた。そこには大きな「矛盾」が、あった。


 多摩からの新選組隊士・山南敬助が脱隊したのはその頃だった。

 新選組の〝掟〝では、脱隊は死罪である。

「山南敬助がいう壤夷こそ我らの道だ」近藤は迷った。

 沖田は「山南さんを助けてください」と嘆願した。土方も「山南を殺したんじゃ、多摩の故郷の連中に顔向けできない」と渋った。

 近藤は猛烈に頭を回転させて、答えを、この難問を解決する答えを、考えようとした。しかし、何も浮かばなかった。

「総司、山南敬助を捕まえてこい!」

 結局、近藤の答えはそれだった。

「山南さんを助けてください!」沖田は涙声でいった。

「だめだ!」近藤は強くいった。「捕まえてこい!」

 近藤勇にしてみれば、〝泣いて馬謖を斬る〝思いだったのであろう。

 沖田たちは仕方なく〝捜索〝に向かった。

 馬でいくと、すぐそこの山の茶屋に山南敬助がお茶をのんで座っていた。

「やぁ! 沖田くん」山南は笑顔で手をふった。

 狼狽したのは沖田の方だった。「やぁ! ……じゃありませんよ。山南さん!」

「なぜかね?」

「決まってるじゃないですか! 脱隊は死罪ですよ! 切腹ですよ」

「わかってる」

「山南さんわかってない! 早く行っちゃって下さい。俺はひとりでもどって「みつからなかった」っていっときますから」

「……それは出来ない」

「じやあ」沖田は動揺しながら「俺を倒して駆けていったって…」

 山南敬助はにやりといった。何かを悟ったような表情だった。「ぼくの剣では沖田くんに勝てる訳はない。そんな嘘はすぐみやぶられる」

「山南さん! 早く行っちゃって下さい!」

「いや。沖田くん壬生邸に戻ろう」

「なぜですか?! 切腹ですよ?!」沖田は狼狽していた。しかし、当の本人・山南敬助は冷静なままだった。「戻ろう」

「………山南さん?」

 こうして、山南敬助は新選組の駐屯地壬生邸に戻り、切腹した。

 その日から、近藤勇は二度と「壤夷」と口にしなくなったという。

 新選組の名が上がるにつれ、近藤は馬にのり、上級武士のように振るまい、非難を浴びせられることになる。しかし、近藤は新選組の力によって跳ね除けた。ときには公家や幕府の有力大名や藩主にまで意見をいうようになっていったという。

 ここにきて、近藤勇はアロガンス(傲慢)になっていった。

 近藤は「軍師がほしい」などといいだした。

 そこで、元治元年八月、新選組の参謀として浪人・伊藤甲子太郎をやとった。それから茨木司、毛内有之助、篠原泰之進も隊士取調役として採用した。

 伊藤甲子太郎は清河のように策士だったが、剣の腕も人物もたいしたことはなかった。なぜこのような男が「軍師」だったのか、はなはだ疑問だ。

 只、土方が何かというと「斬れ! 斬れ!」とわめき、それを甲子太郎がとめたので人気は集まった。鬼の土方に仏の甲子太郎といったところか。

 慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。


 それに対応したのが、高杉晋作だった。

「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」

 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。

「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。

 幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州・は戦わずにして降伏、・の老中が切腹することとなった。さらに長州・の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。

「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」

 その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。

 ……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……

「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。

「これより、長州男児の意地をみせん!」

 こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州・の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。

 なぜ幕府軍が負けたのか? ……幕府軍は旧式の兵器と装備しかもってなく、近代的な軍事行動さえ知らなかったからだ。例えば、警察官と軍隊が戦ったとしよう。いくら警官が強力な武器をもってきて対する軍隊の人数が少なくとも、やはり誰が考えても軍隊が勝つに決まっている。それが常識というものだ。つまり、幕府軍は正確には軍隊ではなく、単なるまともに戦ったこともない武士のよりあつめだったのである。

(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)

 その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。


 幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷隆盛は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」


 新選組の「軍師」、伊藤甲子太郎は「もはや幕府軍に参加しないほうがよい」といったという。しかし、典型的なおひとよしで人一倍信じやすい近藤勇はききいれない。

 それどころか、藁にもすがるおもいの徳川幕府の恩賞に動かされ、近藤も土方も時代の趨勢をみる目を誤っていく。もはや薩長は官軍で、幕府軍は「賊軍」である。

 そこのところをひよわではあるが、「軍師」伊藤甲子太郎は指摘したのである。

 こんな「負け組」にいても仕方ない。と、脱隊者が相次いだ。その中には篠原泰之助もいた。近藤の運命をのちに決めてしまう男である。

 新選組の近藤と土方は徳川家の正式な家臣となった。徳川幕府のやぶれかぶれだったのだが、これで彼等は念願だった「サムライ」になれたのである。

 近藤勇は見廻組与頭格(旗本、上級武士)、土方歳三は見廻組肝煎格(御家人)、沖田たちも見廻組(御家人)となった。幕府としては「賊軍」となった以上、ひとりでも家臣、部下がほしかった。そこで百姓出身の新選組でも家来にしたのである。

〝困ったときの神だのみ〝……ではないが、事実はその通りだった。

 慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走した出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうてもよかったのである。坂本龍馬は将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」といった。 慶喜は決心する。

 慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。のちにゆう『大政奉還』である。勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、龍馬は感激で泣いたという。

 しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメだというのか?

 勝海舟は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。

 勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。

 薩長同盟軍は徳川慶喜の首をとるまで諦めない気でいた。

 ここにきて龍馬は新政権の設立のために動き出す。「新官制議定書(新制度と閣僚名簿)」を完成させる。しかし、その書を見て、西郷や桂たちは目を丸くして驚いた。

 ……当の本人・坂本龍馬の名が閣僚名簿にないのだ。

「坂本くん、きみの名がないでごわすぞ」西郷が尋ねると、龍馬は笑って、

「わしは役人になりとうて働いてきた訳じゃないきに。わしは海援隊で世界にでるんじゃきにな、ははは」といった。

 慶応三年十二月十三日、近藤勇は銃で左肩をくだかれて、激痛で馬から落ち、のたうちまわった。発砲したのは元新選組隊士だったという。京では旧幕府軍と薩長同盟軍がまさに激突しようとしていた。

 ここにきて、「勝ち組」と「負け組」が露呈しだしたので、ある。

         6 鳥羽伏見の戦い






 旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。

 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。

 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。

「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。

 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。

 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」

 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」

 それは決死の覚悟であった。

 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」

 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。

 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。


 大阪に逃げてきた徳川慶喜は城で、「よし出陣せん! みな用意いたせ!」と激を飛ばした。すわ決戦か……と思いきや、かれの行動は異常だった。それからわすが十時間後、徳川慶喜は船で江戸へと遁走したのだ。

 リーダーが逃げてしまっては戦にならない。

 近藤はいう。「いたしかたなし」

 それに対して土方は「しかし、近藤さん。わずか二~三百の兵の前でひれ伏すのは末代までの恥だ。たとえ数名しかいなくなっても戦って割腹して果てよう!」といった。

「いや」近藤はその考えをとめた。「まだ死ぬときじゃない。俺たちの仕事は上様を守ること。上様が江戸にいったのならわれら新選組も江戸にいくべきだ」

「しかし…逃げたんだぜ」

 近藤は沈黙した。そして、新選組は一月十日、船で江戸へと向かった。

 江戸に到着したとき、新選組隊士は百十人に減っていた。

 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。

 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。

 ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。義朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……

 江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。

 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!

 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。

 ……〝わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する〝………

 二月十四日、最後の将軍・徳川慶喜は江戸を離れ、水戸へと一時、下った。

 ようやく傷が癒えつつあった近藤は「なんと?!」と唖然としたという。

 しかし、新選組は将軍や幕府の護衛役のはずである。なら、一緒に水戸にいくのか…?

〝われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ〝

 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。

 そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。

 敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。


「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」

 勝安房守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。

「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」

 勝は沈黙した。

 ……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…

 言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。

 勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。

「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」

 近藤たちは決起した。

 やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤はいう。

「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」

 新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。

 皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。

 甲陽鎮部隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。

「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」

 近藤はいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。

 勝海舟にとっては、もう新選組など〝邪魔者〝でしかなかった。

 かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?

 とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!

 そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!

「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」 勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。

 そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。


 幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」


 麟太郎(勝海舟)はいよいよ忙しくなった。

 幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。

 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?

 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。

 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!

 そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。


 幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。

 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。

 麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。

「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。

 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」

 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。

 「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」

 ……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。

 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。

 だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。

「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」

 虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。

 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。

 麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。

 慶喜の対応は冷たかった。

 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。

 麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。

 彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。

「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。

 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。

 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。

 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。

 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。

 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。

 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」

 麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。

 麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことはいっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。

  長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国のほうが大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。

 福沢諭吉もそのひとりだった。

 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。

 ……あれはもしかして英語か?

 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!

 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。

 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。

  九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周)、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。

 二十日には登営し、勝海舟は日記に記した。

「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」

 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。

  江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。

 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。

 麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に理由学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。

 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。

  麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。

 麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。

 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」

 と強くいった。

 パークスは麟太郎の提言を承諾した。

 そして、麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。

「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。

 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」

 麟太郎はするどく指摘していく。

「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」

 麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?


 江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。麟太郎は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。麟太郎はのちにいっている。

「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。

 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。

 こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。

 俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。

 すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。

 こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。

 それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。

 甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。

 ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」


         7 大政奉還







 徳川慶喜の大政奉還の報をうけた江戸の幕臣たちは、前途暗澹となる思いだった。

 大政奉還をしたとしても、天下を治める実力があるのは幕府だけである。名を捨てて実をとったのだと楽観する者や、いよいよ薩長と戦だといきまく者、卑劣な薩長に屈したと激昴する者などが入り乱れたという。

 しかし何もしないまま、十数日が過ぎた。

 京都の情勢が、十二月になってやっとわかってきた。幕臣たちはさまざまな議論をした。 幕臣たちの中で良識ある者はいった。

「いったん将軍家が大政奉還し、将軍職を辞すれば、幕府を見捨てたようなもので、旧に回復することはむずかしい。このうえは将軍家みずから公卿、諸候、諸藩会議の制度をたて、その大統領となって政のすべてを支配すべきである。

 そうすれば、大政奉還の目的が達せられる。このように事が運ばなければ、ナポレオンのように名義は大統領であっても、実際は独裁権を掌握すべきである。

 いたずらに大政奉還して、公卿、薩長のなすところに任するのは、すぐれた計略とはいえない」

 小栗忠順(上野介)にこのような意見を差し出したのは、幕臣福地源一郎(桜痴)であったという。福地は続けた。「この儀にご同意ならば、閣老方へ申し上げられ、京都へのお使いは、拙者が承りとうございます」

 小栗は、申出を拒否した。

「貴公が意見はすこぶる妙計というべきだが、第一に、将軍家がいかが思し召しておられるかはかりがたい。

 第二に、京都における閣老その他の腰抜け役人には、とてもなしうることができないであろう。

 しかるに、なまじっかような説をいいたてては、かえって薩長に乗ずられることになり、ますます幕府滅亡の原因となるだろう。だから、この説はいいださないほうがよかろう」 小栗は、福地がいったような穏やかな手段が薩長に受け入れられるとは思っていなかった。

 彼は、薩長と一戦交えるしかないという強行派だったのだ。

 官軍(薩長)の朝廷工作により、徳川幕府の官位をとりあげられ領地も四百万石から二百万石に取り下げられた。これは徳川家滅亡に等しい内容であったという。

 慶喜はいう。

「朝命に異存はないが、近頃旗本らの慷概はいかにもおさえがたい。幕府の石高は、四百万石といわれいるが、実際には二百万石に過ぎない。

 そのすべてを献上すれば、徳川家としてさしつかえることははなはだしいことになる。いたおうは老中以下諸役人へその旨をきかせ、人心鎮定のうえ、お請けいたす。その旨、両人より執秦いたすべし」

 慶喜は、諸藩が朝廷に禄を出すのは別に悪いことではないが、幕府徳川家だけが二百万石も献上しなければならないのに納得いかなかった。

 閣老板倉伊賀守勝静は、慶喜とともに大坂城に入ったとき、情勢が逼迫しているのをみた。いつ薩長と一戦交える不測の事態ともなりかねないと思った。

「大坂にいる戦死たちは。お家の存亡を決する機は、もはやいまをおいてないと、いちずに思い込んでいる。

 今日のような事態に立ち至ったのは、薩藩の奸計によるもので、憎むべききわみであると思いつめ、憤怒はひとかたならないと有様である。会、桑二藩はいうに及ばず、陸軍、遊撃隊、新選組そのほか、いずれも薩をはじめとする奸藩を見殺しにする覚悟きめ、御命令の下りしだいに出兵すると、議論は沸騰している。

 上様(慶喜)も一時はご憤怒のあまり、ご出兵なさるところであったが、再三ご熟慮され、大坂に下ったしだいであった」

 幕府の藩塀として武勇高い諸候も、長州征伐の失敗で自信喪失状態であった。

 幕府の敵は、薩長と岩倉具視という公家であった。

 新政府は今まさに叩き壊そうという幕府の資金で運用されることとなった。

  アーネスト・サトウは、イギリス公使パークスに従い大坂いたとき、京都から遁走して大坂に入る慶喜を見た。彼は、幕府部隊司令官のひとりと道端で立っていた。

 そのときの様子を記している。

「私たちが、ちょうど城の壕に沿っている従来の端まできたとき、進軍ラッパが鳴り響いて、洋式訓練部隊が長い列をつくって行進しているのに会った。

 部隊が通過するまで、私たちは華美な赤い陣羽織を着た男のたっている、反対側の一隅にたたずんでいた。(中訳)

 それは慶喜と、その供奉の人々だった。私たちは、この転落の偉人に向かって脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、ふつうの軍帽をかぶっていた。

 見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。彼は私たちには気付かなかった様子だ。 これにひきかえ、その後に従った老中の伊賀守と備前守は、私たちの敬礼に答えて快活に会釈した。

 会津候や桑名候も、そのなかにいた。そのあとからまた、遊撃隊がつづいた。そして、行列のしんがりには、さらに多数の洋式訓練部隊がつづいた」

 (坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』岩波書店)


 薩長に膝をまげてまで平和は望まないが、幕府の方から戦をしかけるのは愚策である。 と、麟太郎はみていた。戦乱を望まずに静かに事がすすめばよし。慶喜が新政府の首相になればよし。

 麟太郎は日記に記す。

「私は今後の方針についての書付を、閣老稲葉殿に差し出し、上様に上呈されるよう乞うた。

 しかし諸官はわが心を疑い、一切の事情をあかさず、私の意見書が上達されたか否かもわからない。

 江戸の諸候は憤怒するばかりで、戦をはじめようとするばかり。

 ここに至ってばかどもと同じ説などうたえるものか」

 江戸城の二の丸大奥広敷長局あたりより出火したのは、十二月二十三日早朝七つ半(午前五時)過ぎのことであった。

 放火したのは三田薩摩屋敷にいる浪人組であった。

 のちに、二の丸に放火したのは浪人組の頭目、伊牟田尚平であるといわれた。尚平は火鉢を抱え、咎められることもなく二の丸にはいったという。

 途中、幕臣の小人とあったが逃げていった。

 将軍留守の間の警備手薄を狙っての犯行であった。

 薩摩藩の西郷(隆盛)と大久保(利通)は京で騒ぎがおこったとき、伊牟田を使い、江戸で攪乱行動をおこさせ江戸の治安を不安定化することにした。

 家中の益満休之助と伊牟田とともに、慶応二年(一八六六)の秋に江戸藩邸におもむき、秘密の任務につくことにした。ふたりは江戸で食うものにも困っている不貞な浪人たちを集めて、飯を与え稽古をさせ、江戸で一大クーデターを起こすつもりだった。

 薩摩藩は平然と人数を集めた。


 麟太郎の本意をわかってくれるひとは何人いるだろうか? 天下に有識者は何人いるだろうか?

 麟太郎は辞職願をこめて書を提出した。

「こののち天下の体勢は、門望(声望)と名分に帰せず、かならず正に帰すであろう。

 私に帰せずして、公に帰するにきまっている。これはわずかの疑いもいれないことである。

 すみやかに天下の形勢が正に帰せざるは、国政にたずさわる要人が無学であることと、鎖国の陋習が正しいと信じ込んでいるからである。

 いま世界の諸国は従来が容易で、民衆は四方へ航行する。このため文明は日にさかんになり、従前の比ではない。

 日本では下民が日々に世界の事情にあきらさまになっており、上層部の者が世情にくらい。このため紛争があいついでおこるのだ。

 硬化した頭脳で旧来の陋法を守っていては、天下は治められない。最近の五、六年間はただ天朝と幕府の問題ばかりをあげつらい、諸候から土民に至るまで、京都と江戸のあいだを奔走し、その結果、朝廷はほしいままに国是を定めようとしている。

 これは名分にこだわるのみで、真の国是を知らないからである。

 政府は全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富ませ、奸者をおさえ、賢者を登用し、国民にそのむかうところを知らしめ、海外に真を失わず、民を水火のなかに救うのをもって、真の政府といえるだろう。

 たとえばワシントンの国を建てるとき、天下に大功あってその職を私せず、国民を鎮静させることは、まことに羨望敬服するに堪えないところである。

 支配者の威令がおこなわれないのは、政治に私ことがあるからである。奸邪を責めることができないのは、おのれが正ではないからである。兵数の多少と貧富によって、ことが定まるものではない。

 ここにおいていう。天下の大権はただひとつ、正に帰するのである。

  当今、徳川家に奸者がいる。陋習者もいる。大いに私利をたくましくする者もいる。怨み憤る者もいる。徒党をつくるやからもいる。大盗賊もいる。

 紛じょうして、その向かうところを知らない。これらの者は、廃することができないものか。私はその方途を知っているが、なにもいわない。

 識者はかならず、これを察するだろう。

 都下(江戸)の士は、両国の候伯に従わないことを憎み、あるいは疑って叛くことを恐れる。これは天下の大勢を知らないからである。両国の候伯が叛いたところで、決して志を達することはできない。

 いわんやいま候伯のうちに俊傑がいない。皆小さな私心を壊き、公明正大を忘れている。いちど激して叛けば、その下僚もまた主候に叛くだろう。

 大候伯が恐るるに足りないことは、私があきらかに知っている。然るに幕府はそれを察せず、群羊にひとしい小候を集め、これと戦おうとしている。自ら瓦解をうながすものである。なんともばかげたものだ。

 大勢の味方を集めればそれだけ、いよいよ益のないことになる。ついに同胞あい争う原因をつくれば、下民を離散させるだけのことだ。人材はいずれ下民からでるであろう。

 いまの大名武士は、人格にふさわしい待遇を受けているとはいえない。生まれたまま繭にかこまれたようなもので、まったく働かず、生活は下民をはたらかせ、重税を課して、その膏血を吸っている。

 国を宰いる者の面目は、どこにあるのか。

 (中訳)天下に有識者はなく、区々として自説に酔い、醒めた者がいない。

 今日にいたって、開国、鎖国をあげつらう者は、時代遅れとなってしまった。いまに至って、議会政治の議論がおこっている。

 (中訳)こののち人民の識見が進歩すれば公明正大な政治がおこなわれなければならない。権謀によらず、誠実高明な政事をおこなえば、たやすく天下を一新できるだろう。

 才能ある者が世に立ち、天子を奉じ、万民を撫育し、国家を鎮撫すれば、その任を果たすだろう。事情を察することなく戦えば、かならず敗北し、泰平の生活に慣れ、自らの棒禄をもって足りるとせず、重税を万民に課して苦しめ、なお市民にあわれみを乞うて、日を送るとは、武士といえようか。(中訳)

 ねがわくば私心を去って、公平の政事を願うのみである。      海舟狂夫」

 麟太郎は官軍と戦わずして日本を一新しようと思っていた。しかし、小栗上野介ら強行派は薩長との戦の準備をしていた。麟太郎の意見はまったく届かず、また麟太郎のような存在は幕府にとって血祭りにあげられてもおかしくない、緊迫した形勢にあった。


〝われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ〝

 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。

 そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。

 敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。


「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」

 勝安房守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。

「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」

 勝は沈黙した。

 ……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…

 言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。

 勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。

「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」

 近藤たちは決起した。

 やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤はいう。

「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」

 新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。

 皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。

 甲陽鎮撫隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。

「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」

 近藤はいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。

 勝海舟(麟太郎)にとっては、もう新選組など〝邪魔者〝でしかなかった。

 かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?

 とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!

 そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!

「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」 勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。

 そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。

 近藤たちは故郷に錦をかざった。

 どうせなら多摩の故郷にたちよって、自慢したい……近藤勇も土方歳三もそう思った。それが、のちに仇となる。しかし、かれらにはそんなことさえわからなくなっていた。

 只、若年寄格に、寄合席格に、と無邪気に喜んでいた。

 近藤は「左肩はまだ痛むが、こっちの手なら」とグイグイ酒を呑んだという。

 数が減った新選組には、多摩の農民たちも加わった。

 多摩の農民たちは、近藤が試衛館の出張稽古で剣術を教えた仲である。

 土方歳三は姉に、「出世しました!」と勝利の報告をした。

「やりましたね、トシさん」姉は涙ぐんだ。

「それにしても近藤先生」農民のひとりがいった。「薩長が新政府をつくったって? 幕府は勝てるのですか?」

 近藤は沈黙した。

 そして、やっと「勝たねばなるまい!」とたどたどしくいった。「今こそ、多摩の魂を見せん!」


 江戸は治安が悪化していた。

 また不景気と不作で、米価が鰻のぼりになり百姓一揆までおこる有様だった。盗賊も増え、十一月には貧民たちが豪商の館を取り囲み威嚇する。

 民衆は、この不景気は幕府の〝無能〝のためだと思っていた。

 幕府強行派の小栗上野介らは、京坂の地において、薩長と幕府の衝突は避けられないと見ていたので、薩摩三田藩邸に強引でも措置をとるのは、やむえないと考えていた。

 江戸にいる陸海軍士官らは、兵器の威力に訴え、藩邸を襲撃するのを上策として、小栗にすすめた。小栗はこれを受け、閣老に伝える。

 小栗たち過激派は、薩摩の江戸藩邸を焼き討ちにすれば、大阪にいる閣老たちも、憤然として兵をあげるだろうと考えていた。しかし、朝比奈たちは「一時の愉快を得るために軽挙をなせば大事態を招く」と反対した。

 だが、十二月二十五日、薩摩の江戸藩邸は何の前触れもなく、かたっぱしから大砲をどんどんと撃ちこまれた。たちまち出火し、藩邸は紅蓮の炎に包まれ、焼失した。

 砲撃家たちはまことに愉快な気持ちだった。八王子へと逃げた薩摩浪人三十人ほどは、その地で召し捕られた。相摸へ逃げた浪士たちは、相州萩野山中の大久保出雲守陣屋へ放火した。不意打ちをくらった陣屋では怪我人もでて、武器を奪われた。

 薩摩藩では、薩摩屋敷が焼き討ちされたとき、約五百人のうち邸内にいたのは百人ほどであったという。

 薩摩藩邸焼き討ちについては、幕府海軍局にはまったく知らされてなかった。当時軍艦奉行をつとめていた木村兵庫守(芥舟)は目を丸くして驚いたという。

 慶喜は十二月、将軍の格式をもって、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア(ロシア)、オランダの、六カ国公使に謁見を許した。

 慶喜は各大使に次のように挨拶した。

「あいかわらず親睦を続けたい」

 六カ国公使たちに同じような言葉を発した。これをきいた大久保(利通)が、岩倉具視に書状を送り、徳川家の勢力を撲滅するのは武力しかない……と説いた。

 そんな中、薩摩藩邸焼き討ち事件が起こったのである。


 慶応三年(一八六七)京では、慶喜の立場が好転していた。尾張、土佐、越前諸藩の斡旋により、領地返上することもなく、新政府に参加する可能性が高くなっていった。

 しかし、十二月、上方にいる会津、桑名や幕府旗本たちに薩摩藩邸焼き討ち事件が知られるようになると、戦意は沸騰した。「薩長を倒せ! 佐幕だ!」いつ戦がおこってもおかしくない状況だった。蟠竜丸という艦船には榎本和泉守(武揚)が乗っており、戦をするしかない、というようなことを口を開くたびにいっていた。

 やがて、薩長と幕府の海軍は戦争状態になった。

 風邪で元旦から寝込んでいた慶喜も、のんびりと横になっている訳にもいかなくなった。 寝ている彼のもとに板倉伊賀守がきて「このままでは済む訳はありません。結局上洛しなければ収拾はつかないでしょう」という。

 慶喜は側にあった孫子の兵法をみて、

「彼を知り、己を知らば百戦危うからず、というのがある。そのほうに聞く、いま幕臣に西郷吉之助(隆盛)に匹敵する人材はおるか?」と尋ねた。

 板倉はしばらく沈黙したのち「………おりませぬ」といった。

「では、大久保一蔵(利通)ほどの人材はおるか?」

「………おりませぬ」

 慶喜は薩長の有名人たちの名をあげたが、板倉はそれらに匹敵する幕臣はおりませんというばかりである。慶喜は殺されないだろうか? と怖くなった。

 この板倉のいう通りだとすれば幕臣に名将がいないことになる。戦は負けるに決まっている。………なんということだ。

 もはや慶喜には、麾下将士の爆発をおさえられない。

 動乱を静めるような英雄的資質はもちあわせていない。

 だが、慶喜は元日に薩賊誅戮の上奉文をつくり、大目付滝川播磨守に持参させたという。つまり、只の傍観者ではなかったということだ。

「討薩表」と呼ばれる上奉文は、つぎのようなものだった。

「臣慶喜が、つつしんで去年九日(慶応三年十二月九日)以来の出来事を考えあわせれば、いちいち朝廷の御真意ではなく、松平修理太夫(薩摩藩主島津忠義)の奸臣どもの陰謀より出たことであるのは、天下衆知の所であります。(中訳)

 奸臣とは西郷、大久保らを指す」

 別紙には彼等の罪状を列挙した。

「薩摩藩奸党の罪状の事。

 一、大事件に衆議をつくすと仰せ出されましたが、去年九日、突然非常御改革を口実として、幼帝を侮り奉り、さまざまの御処置に私論を主張いたしたこと。

 一、先帝(考明天皇)が、幼帝のご後見をご依託された摂政殿下を廃し、参内を止めたこと。

 一、私意をもって官、堂上方の役職をほしいままに動かしたこと。

 一、九門そのほかの警護と称して、他藩を煽動し、武器をもって御所に迫ったことは、朝廷をはばからない大不尊であること。

 一、家来どもが浮浪の徒を呼び集め、屋敷に寝泊まりさせ、江戸市内に押し込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉の部下屯所へ銃砲を撃ち込む乱暴をはたらき、そのほか野州、相州方々で焼き討ち強盗をした証拠はあきらかであること」

  当時、京も大坂も混乱の最中にあった。町には乞食や強盗があふれ、女どもは皆てごめにされ、男どもは殺され、さらに官軍が江戸へ向けて出発しつつある。

 しかも、〝錦の御旗〝(天皇家の家紋)を掲げて……

 京都に向かう幕府軍の総兵力は一万五千であった。伏見街道で直接実戦に参加したのはその半分にも満たない。薩長連合軍(官軍)は一万と称していたが、実際は二千から三千程度である。比較すると十対二、三である。

 幕府軍の総兵力一万五千の一部は、伏見街道で直接実戦に参加した。

 幕府軍の指揮者は、「何倍もの兵力をもつ幕府軍に薩長が戦をしかけてくるはずはない」とたかをくくっている。見廻組が薩長軍の偵察にいき、引き、また引きしているうちに幕府軍は後退をよぎなくされた。幕府軍は脆かった。

 滝川播磨守は、幕軍縦隊を前進させると、薩長は合図のラッパを吹き、街道に設置しておいた大砲が火を噴いた。左右から幕府軍はたたかれた。

 滝川は大目付で、軍隊の指揮能力に欠ける。彼は大砲の轟音にびくつき馬で遁走した。 指揮者がこの調子だから、勝てる戦ではない。砲弾で幕府軍たちは殺されたり、怪我したりして皆遁走(逃走)しだす。兵数は五倍の幕府軍はびくつき混乱しながら逃げた。

 幕府軍は大損害を受け、下鳥羽へ退いた。

 江戸にいる麟太郎は、九日に、鳥羽、伏見の戦の情報をはじめて知った。

 麟太郎は日記に記す。

「正月の何日だったか、急に海軍局の奴がきて、偉い方が軍艦でおつきになったという。俺は上様だろうと何だろうと関係ねぇ。今はでる幕じゃねぇといってやったさ。しかし、勝阿波守を呼び出せとしきりにいう。いけないといって出なかった。

 それでも阿波をよべとうるさい。俺を呼ぶ前にもっとやることがあるだろうに、こんなんだから薩長に負けるんだ」

 慶喜が大坂を放棄したことで幕府の運命がまた暗転した。

麟太郎は「このままではインドの軼を踏む。今はうちわで争っているときじゃねぇ。このままじゃすきを付かれ日本は外国の植民地になっちまう」と危惧した。

 それは、杞憂ではないことを、麟太郎は誰よりもわかっていた。


 沖田総司は恋をした。名はひでといい未通娘である。年はまだ十四歳であったがすでに両親が病没していて天涯孤独であった。

 縁は雨の日のことである。

 ある雨の日、総司が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。

「これはかたじけない。おかげで助かりました」

 総司は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかひでが壬生邸に訪ねてきて金をかえした。それが縁で総司とひでは愛しあうようになった。

 しかし、肉体関係はなかった。ひではまだ十四歳である。


「どういってました? お医者さん」

 ある日、ひでがきいた。

 総司は「……つけてきたのか?」と慇懃にいった。

「なんでそんなことするんだ!」

「だって……最近つれないから、好きなひとでもできたんかと思うて」

「ぼくは…」総司は辛くいった。「ぼくは労咳だよ。そう長くは生きられないと思うよ。先生もそういってた。だから、ぼくには時間がないんだ。

 近藤さんや土方さんのために働きたいんだ。だから時間がないんだ。

 もう、ぼくには……かまわないでくれないか」

 ひでは涙を流し、去った。                            

         8 江戸無血開城







 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。

「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。

 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。

 そして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。

 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」

 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。

 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)

 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。

 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(阿波・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」

 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。

「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝野ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。

 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。

 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えてませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。

 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。

 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」


 麟太郎が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、麟太郎は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。

 閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。

「勝阿波守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」

 結局、麟太郎の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。

 正月十八日、麟太郎は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、〝長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか〝という意味の書を送った。

 一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。

「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。

 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」

 麟太郎は慶喜にいう。

「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。

 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。

 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。

 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。

 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。

 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」

 麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。

 麟太郎は思った。

「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」

 麟太郎の危惧していたことがおこった。

 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。

 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。

二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。

(大山伯著『戊辰役戦士』)


 薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。

 麟太郎は日記に記す。

「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。

 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。

そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。

 すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。

 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。

 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」



 旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。

 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。

 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。

「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。

 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。

 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」

 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」

 それは決死の覚悟であった。

 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」

 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。

 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。


 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。

 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。

 ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……

 江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。

 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!

 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。

 ……〝わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する〝………

 官軍は江戸へ迫っていた。

朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……

 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。

 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。

 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。  江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。

「もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。

 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」

 まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。

 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら麟太郎は警戒した。

 麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。

「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいってるのだと疑いを深くするばかりだ。

 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」

 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。

 隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。

 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。

 慶喜は涙声だったという。

 麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。

 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。

 麟太郎は鉄太郎に尋ねた。

「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」

 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。

 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。

 西郷吉之助は五つの条件を出してきた。

一、慶喜を備前藩にお預かり

 一、江戸城明け渡し

 一、武器・軍艦の没収

 一、関係者の厳重処罰

 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」

 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。

「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」

 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。

 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。

 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。

 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。

 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。

 麟太郎は日記に記す。

「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」

 麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。



 官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。

 西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。

 一、慶喜を備前藩にお預かり

 一、江戸城明け渡し

 一、武器・軍艦の没収

 一、関係者の厳重処罰

 いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。

 勝はいう。

「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」

 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。

 勝は沈黙する。

 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。

「そうでごわすか」

 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。

 勝は続けた。

「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。

 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では〝共順する相手を攻撃するのは違法〝ときいていた。

 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。

 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、

「わかり申した」と頷いた。

 官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。

「明日の江戸攻撃は中止する!」

 彼は私から公になったのだ。もうひとりの〝偉人〝、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ! と歓声をあげたという。

(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)

 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。

 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。          

         9 新選組よ、永遠に!







 幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。

 その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。

 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。

 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。

 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。

 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。

 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。

 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。

 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。

 千代田形は十七メートル。大砲三門。

 観光丸は五十八ルートル。

 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。


 案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……

 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。

 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。

 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!

 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。

 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。

 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。

 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。

 近藤勇はひとり取り残されていった。


 近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。

 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。

 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」

 と怒鳴った。

 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。

 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。

「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。

 近藤の側近は二~三人だけになった。

「切腹する!」

 近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」

「しかし……」

「いいかい? 近藤さん。いやかっちゃん! 多摩で誓ったじゃねぇか。いつか…」土方は空気をのんで、心臓が二回鳴ってから続けた。「いつか武士らしい武士に…なるって」

「しかし百姓だ」

「いや、かっちゃん。あんたは武士だ! この国一番の武士になったんだ!」

 空が明るくなり、暗くなり、また明るくなり世界がひっくりかえった。近藤勇がこの十年間抱き続けていた緊張が、恐怖が、胸からあふれでて、麻痺した指のなかの血管から零れて、土の中に消えていった。一瞬、われを忘れた。

 武士に…なった…? しかし、遅すぎた。近藤は今まで斬ってきた男たちの顔を思い出した。武士か……今となっては後悔は遅すぎるのだろうか? 近藤は自分が受けた痛みではなく、他人に与えたであろう痛みや苦悩。を初めて考えた。

 長くにわたる苦悩……

 近藤勇は唇を震わせ、土方歳三から顔をそむけた。

「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」

 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。

「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」

 歳三はいった。

 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。

 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」

 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。


 四月十七日、近藤への尋問がはじまった。

 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」

「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。

「やめろよ、おい!」

 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。

「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」

「ほざけ!」

「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」

その男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。

「た……泰之進」

 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?

「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」

 彼の勘はさえていた。「俺は勝ってる方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」

 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。

 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。

「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」

 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!

 徳川慶喜は死罪をまぬがれ水戸へ下り、隠居した。

 官軍が江戸城にいくと蔵に金がない。…徳川埋蔵金伝説である。

 本当に奉行・小栗上野介がどこかへ金を隠したのか、さだかではない。


 つねと義母ふでは福沢諭吉に、獄中の近藤にあえるように頼んでいた。

 福沢は笑顔でもどってきて「だいじょうぶですよ! オーケーです!」

 といった。

 つねは喜んだ。ふでは「わたしはここでまってますから夫婦水入らずでいきなさい」

 つねは牢獄の近藤勇と再会した。勇は白い囚人服だった。

「おお! つね!」

「勇さま!」

 ふたりは抱き合い抱擁した。

 ……何年ぶりかの再会だった。涙を流すつねと勇……

「勝さんが親切にいろいろなものを差し入れしてくれてな」

 勇は続けた。「最期は武士らしく切腹をと頼んだが……駄目だった」

 近藤勇は妻と離れ、ふところから何か取り出した。

「…なんですの?」

「お守りだ」

 勇は笑顔をつくった。

「………いただいてもよろしいのですか?」

「ああ、いいとも! お前のためのお守りだ」

 ふたりはきつくきつく抱き合った。

 抱擁、涙……近藤勇の新選組はわずか数年の命だったというのに、それでもそれらはふたりに好ましい影響を与えたようだ。


「これか?」官軍は板橋の処刑場で剣を掲げた。……近藤の「虎徹」だった。

 ……「虎徹」で首を斬られれば悔いはねぇ。

 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。

 ……〝孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん〝

 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

 その顔を涙でみる女があった。近藤の妾、孝子と妻つねであった。孝子はその後どうなったのか記録がない。彼女らは泣き崩れた。


 総司は、体調の変化に気付いていた。

 体力も衰え、咳がつづくかと思ったら、朝になって口を拭いた手が真っ赤な血で染まっていた。……病気らしい。

 微熱が出て、躰がだるい。足もだるい。

 ……この大事な時に!

 ……俺はもう長くないかも知れん。

 予感が全身に広がった。恐怖は不思議となかった。むしろ安らぎがあった。

 ……死ねば楽になる。

 楽な人生ではなかった。それが、楽になるということで恐怖はなかったのである。


         

 総司の病気は最近まで不治の病とされていた労咳、つまり肺結核だった。

 多年の苦労と不摂生がわざわいした。病気は進み、喀血は度重なった。

 回復の望みはなかった。

 ……せめて幕府が守られるまで。

 維新回天の業が成るのをこの目でみたい。それが願いだった。


 肌はやつれ、痩せて、骨まで痛むようになった。

 しかし、総司は春を楽しんだという。

 総司は病の床にあった。看護は幕府医者・松本良順がつとめた。

 鳥羽伏見の敗戦後は病も癒えぬまま江戸にいった。千駄ケ谷の植木屋で病床についた。 彼が愛してやまなかった新選組の隊士たちは「俺がかわってやりたい」と泣いた。

 総司の死は朝まで気付く者がいなかったという。

 若さゆえか、一進一退の病魔が総司の躰を襲った。

 その夜、総司は目が覚めた。

 不思議と躰が軽い。

 ……もうおわりだから最後に軽くなったか。

 総司は気力をふりしぼってようやく起き上がり、負けじと気力を奮いたたせた。

 ……まだ死ぬ訳にはいかぬ。

 ……まだ幕府安泰をみてはおらぬ。みるまで死ねぬ。

 総司は不敵な笑みを浮かべた。壁をつたって歩いた。

 ……俺はまだ…死……ね…ない。まだやることがある…

 ……近藤先生、まだせめてもう一度活躍さ…せてください…

 襖を開けて夜空を見上げると満天の星空がみえた。

 走馬燈のように懐かしい顔が浮かんだ。

 近藤勇の顔。

 土方歳三、山南敬助、藤堂平助、源さんの顔、愛したひでの顔。

 その他の顔、顔……

 沖田総司は喀血し、倒れた。そして、その血によりひとりきりで溺れ死んだ。

 慶応四年(一八六八年)享年二十七歳……

 あまりにも早すぎる死であった。

 ながく結核をわずらっていた沖田総司は近藤のあとを追うように病死した。

 土方歳三は榎本武揚とともに東北各地を転々とし、蝦夷(北海道)の五稜郭までいった。敗戦濃厚となるや、歳三は、ともに戦ってきた斎藤一を説得して函館から逃げさせた。斎藤一は維新後は山口吾郎と改名して、お茶の水の東京高等師範学校の剣術教師を勤めたという。土方歳三は思う。

 ……もはや、これまで…

「もはやこれまでだが、このまま薩長軍に和睦したら地下にいる近藤さんに顔向けできない」歳三は決起し、函館で官軍と戦う、しかし、馬上の土方に銃弾が浴びせ掛けられた。 明治二年五月、土方歳三、戦死。享年三十五。

 こうして、新選組はやぶれ、歴史から姿を消した。

 その後、日本は明治の文明開化を迎え、大正デモクラシー…そして、世界戦争へとつきすすむ。だがそれは、もう近藤勇や土方歳三とはもはやなんら関係のないことである。


         10 開陽丸

         



 大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。

 艦隊が横に縦に揺れ続ける。

 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。

 いっぽう会津では八月二十五日、会津同新館(病院)で負傷者があいついで運ばれていた。会津では一応の戦闘は終了していて、会津藩や桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。

 会津同新館(病院)で治療にあたっているのは松本良順である。

「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」

 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。

 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。

「土方さま!」

 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。

「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」

「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」

 土方は沈黙した。

 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して〝蝦夷共和国〝をつくるとか……」と答えた。

 明治元年(一八六八)のことである。

 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。

「そこで生きる、と?」

土方はいう。

「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」

「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」

 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。

 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。


 榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。

「蝦夷は寒いのう」

 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。

いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。

 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。

 深い雪の中の進軍であった。

 土方歳三は五稜郭に向かった。

 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。

 

 青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。

「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」

 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。

 しかし、そんなとき不運はおこる。

 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。

 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、

「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。

 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。

 土方がやってきた。

「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」

 武揚は涙声だった。

 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。

 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。

「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」

 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。

 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。

「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」

 榎本は涙を流して部下たちにわびた。

 土方は何もいわなかった。

 その頃、青森にまで官軍は迫っていた。

 蝦夷征伐軍参謀には山田市之丞と、同じく蝦夷征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が青森まで進軍していた。

 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。



  蟠竜丸の甲板で、榎本武揚は激をとばした。

「日本の近代化は俺たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」

 一同からは拍手喝采がおこる。

 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……

 榎本脱走軍三千余名、蝦夷でのことである。

 明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。

 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。

 選挙の結果は左のとおりである。


 総裁      榎本武揚

 副総裁     松平太郎

 海軍奉行    荒井郁之助

 陸軍奉行    大鳥圭助

 箱館奉行    永井玄蕃

 開拓奉行    沢太郎左衛門

 陸軍奉行並   土方歳三


 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。

 一同はひとりずつ写真をとった。

 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。 同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。

 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。

 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。

 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


 箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。

 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。

 土方は龍造という病人をつれてきた。

「凌雲先生、頼みます!」

 土方歳三は凌雲に頭をさげた。

「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」

 龍造はベッドで暴れた。

 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」

 とかれをとめた。龍造は喀血した。

 高松凌雲は病室を出てから、

「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。

 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。

「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」

「……そうですか…」

 土方は廊下を歩いた。すると土方はハッとした。

 箱館の病院にあの井上ちか子がいたからである。看護婦として働いている。

「……ちか子さん!」

 土方は珍しく声をあげた。

「ひ、土方さま!」

 ちか子は笑顔をつくった。

 土方は苛立った。なんで、ここにちか子がいるのだ?!

「土方さま。おしさしゅうござります」

 井上ちか子はくったくもない顔で頭を下げた。

「すぐここを出たほうがいい! ここはじきに戦場になる!」

「会津はもうありません。戦にやぶれて官軍のものとなっております。もういくところがないのです」

 ちか子は不満を吐露した。落ち込んでもいた。

 そんな彼女を励ませるのは土方しかいない。しかし、土方にはそうした感情が理解できない。歳三がどうしようか迷っていると、

「館郡の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。

「なにっ?!」

 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。

 歳三には、ちか子を励ますだけの余裕もなかったのである。


 すぐに榎本たちは軍儀を開いた。

 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。

 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが郡司敵に優位であります」と嘆いた。

 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」

 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。

 土方はきっと怖い顔をして、

「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。

 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」と、にやりとした。

「……どうやってですか?」

 一同の目が武揚に集まった。

「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」

 榎本は決起した。「アボルタージだ!」

 アボルタージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。

 荒井郁之助は「アボルタージですか! それはいい!」と同感した。

 家臣たちからは、

「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」

 と心配の声があがった。

 榎本は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルタージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」「それはそうですが……」

 土方は無用な議論はしない主義である。

「それには私がいきましょう!」

 土方は提案した。

 榎本は躊躇して、

「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」

 といった。声がうわずった。

「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」

「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」

「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」

「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」

 土方は沈黙した。

「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」

 やっと、土方は声を出した。

「……土方くん………」

 榎本は感激している様子だった。

「よし! 回天と蟠竜でやろう!」

 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。

 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」

 と決起した。

「よし! よし!」

 榎本は満足して何度も頷いた。

 そして、

「アボルタージだ!」と激を飛ばした。

 ……アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! ……


 さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。

 みな、かなり若い。

 土方歳三も乗り込んだ。

 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。

 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルタージを!」

「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」

 大塚雀之丞は白い歯を見せた。

 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。

「アボルタージだ!」

 若さゆえか、決起だけは盛んだ。

 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。

「私も戦に参加させてください!」

 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。

 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。

「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうござりまする!」

 林董三郎はやりきれない思いだった。

 高松凌雲がそんなかれをとめた。

「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」

「君も男ならききわけなさい!」

 董三郎を高松凌雲は説得した。

 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。


「官軍がせめて……きたのでしょう?!」

 病院のベッドで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、

「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。

 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。

「龍造のことを頼みます、ちか子さん」

 船に乗り込む前に土方は病院により、井上ちか子に頼んでいた。看護のことである。

 病院に榎本総裁がきた。

「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」

 榎本は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。

 ……いやらしい気持ちはない。

「はい。京と会津で一緒でした。しかし、もう会津はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」

 井上ちか子の言葉を、榎本は妻・多津の声のようにきこえてたまらなくなった。

「井上さん」

「はい」

「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」

「しかし……」

「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……蝦夷は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」

 榎本自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。

「誰か! 誰かきて!」

 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」

「……す、すいません!」

 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。

 榎本はひとり取り残された。

 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! べらぼうめ!

「……多津、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」

 榎本武揚は、深い溜め息とともに呟いた。

「…多津……」榎本は沈んだ気持ちだった。

 宮古湾には官軍の艦隊が迫ってくる。

 榎本脱走軍艦隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。

 それは、榎本脱走軍の未来を暗示しているかのよう、であった。

         11 土方死す!

         




 土方たちは榎本武揚とともに北海道にいった。

 宮古湾には官軍艦隊が迫っていた。

 青森の官軍も上陸の機会を狙っている。

 青森の黒田了介らは軍儀を開いていた。

「あの餓鬼はどこにいった?!」

 黒田は獅子舞いのかつらをかぶったままだ。餓鬼とは、同じく政府軍蝦夷征伐参謀の山田市之丞のことである。

 ……あの餓鬼が! 軍儀にも出んと昼寝でもしとっとか?!

 青森の官軍はほとんど薩摩隼人たちである。

「ニセ情報じゃなかとがか?」

 官軍海軍総参謀・石井富之助はそういった。

 黒田は「まだわからんど」という。

「榎本海軍が動きをみせちゅうは本当ではごわさんか?」

「まずは…」黒田了介(のちの清隆。首相)は続けた。「まずはニセ情報かどうかは密偵を出して決めるのがよごわさんか?」

 昼寝から起きたのか、山田市之丞があわててやってきて、

「榎本に甲鉄艦をとられたらどけんする?」といった。

黒田は激昴して、

「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。

 しかし山田も負けてはいない。

「アボルタージを知っとっがか?!」

「アボルタージくらいおいも知っとる!」

 黒田は声を荒げた。

「ほんとに知っちゅっがか? あぁ、薩摩(鹿児島県)と違うてすうすうするばい」

「このガキ!」

 黒田は山田に掴み掛かった。

 途端に取っ組み合いの喧嘩になる。

「おいどんをナメるんじゃなか!」

 黒田了介は声を荒げる。

「おいは何も黒田はんばナメとりゃせんが!」

「その言い方が気に入らんのじゃ!」

 官軍の部下たちはふたりをとめた。

「黒田先生も山田先生も……戦うのは薩摩じゃなかど! 戦ばするのは榎本ぞ!」

 ふたりはやっと取っ組み合いをやめ、冷静になった。

「……そげなこつ、わかっとっとばい」

 ふたりはいった。


 結局、蟠竜丸ははぐれ、回天丸だけでの「アボルタージ」となった。

 甲鉄艦にはのちの日露戦争の英雄・東郷平八郎が三等士官として乗っていた。

 東郷平八郎まだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。

 東郷は双眼鏡で海原をみながらにやにやと、

「アボルタージって知っとうか?」と仲間にいった。

「……アボルタージ? 知らん」

「まず第三国の国旗を掲げて近付いて、それから自分の旗にして攻撃するのさ」

「そげん卑怯なマネ許されっとでごわすか?」

「いや、卑怯じゃない」

 東郷平八郎は笑った。

「国際法でも認められている立派な策さ」

 そういいながらも、何やら艦船一隻が近付いてくるのが気になった。

「あれはどこの国の艦だ?」

 双眼鏡で覗いて見ると、アメリカの国旗を掲げている。

「………メリケン艦か…」

 東郷平八郎はどこまでも愚鈍だった。

 仲間は「あの船がアボルタージ艦だったら……」という。

「まさか?! 俺は海軍にはいって幕府とも戦ったが実際に〝アボルタージ〝した艦などみたことないぜ」

 しかし、予想は外れる。

 艦(回天丸)は、米国国旗を下げ、日の丸の国旗にかえた。

 ……〝アボルタージ〝だ!

「アボルタージ! アボルタージ! 砲撃せよ!」

 東郷たちは動揺を隠せない。

 甲鉄艦に、回天丸はすぐに接近した。

 と、同時に回天丸は砲弾を甲鉄艦に撃ちこむ。が、やはり鉄で弾かれる。

「乗り込め!」

 土方歳三の号令で、回天丸にのっていた榎本脱走軍の兵士や新選組たちが甲鉄艦に乗り込む。目的は、甲鉄艦奪取、アボルタージである。

「斬り込め! 斬り込め!」

 さすがは剣豪・土方歳三である。次々と官軍兵士を斬り殺していく。

 が、もはや時代は剣ではなく銃である。

 すぐに官軍は回転式機関銃を撃ってくると、榎本兵たちはやられていった。

 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。

 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、榎本脱走軍兵士たちは撃たれて倒れていく。

「くそったれめ!」

 土方はガドリング砲を撃つ官軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って官軍兵士たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と官軍艦隊がやってきて砲撃してくる。土方はひととおりガドリング砲を撃ったところで、回天丸に飛び乗った。

 ……アボルタージは失敗したのだ。

 回天は全速力で甲鉄艦から離れた。遁走した。

 官軍の艦隊や甲鉄艦からも砲撃をうけ、回天丸は大ダメージを受けて、港にもどってきた。アボルタージが失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。

 榎本は、

「こんなことならアボルタージなどしなければよかった。べらぼうめ!」

 と悔がった。

 土方歳三は、なにをいまさらいってやがるんだこの男は! と怒りを覚えた。

 とにかく新選組隊士まで損失を受け、大打撃であった。


      

 五稜郭城で、夜を迎えた。

 官軍の攻撃は中断している。

 中島三郎助や土方らは辞世の句を書いていた。

 ……もう負けたのだ。榎本脱走軍たちのあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。

「土方くん出来たかね?」

「できました」

「どれ?」

 ………叩かれて頭もたげる菜ずなかな……

 これが土方歳三の辞世の句である。


「土方くん」

 榎本は土方を呼んだ。

「なんですか? 榎本総裁」

 土方歳三は榎本の部屋に向かった。榎本は「実は最後の戦にあたり、君に話がある。近くの農家を用意してある。そこにいって待っていてくれないか?」といった。

「農家? ……なんの話ですか?」

「それはそこで話す。案内させよう」

 榎本は無理に笑顔をつくった。

 土方は訳がわからず、首をかしげた。

 その深夜、案内されて農家についたが、誰もいない。

 土方歳三は農家の中にはいって、蝋燭の薄明りの中、腰の刀を抜き腰掛けた。

「榎本総裁は何を考えているのだ?」

 すると、奥から井上ちか子がきた。

「ちか子さん!」

 土方歳三は驚いた。「なぜここに?」

「榎本総裁にお願いいたしましたの……」ちか子はいった。

「そうですか。……しかし、私はゆっくりとあなたと話していられません。もうすぐ戦もおわるでしょう」

「そうですか…」

「あの世にいったら待っている近藤さんや総司がなんというか。実は楽しみなんですよ」 土方は苦笑した。

「駄目です!」

 ちか子は声をあげた。

 土方は無言になった。

「駄目です! 生き残ってください! 死なないでください!」

 井上ちか子は土方にすがった。

「………ちか子さん」

 ふたりはそのまま一夜を明かした。


 榎本脱走軍は早朝に官軍陣地へ奇襲をかけた。

 榎本軍と官軍がはげしくぶつかりあう。しかし、官軍は多勢に武勢……榎本軍は遁走をよぎなくされる。

 五月十一日、箱館湾の官軍艦隊に「錦の御旗」が掲げられた。

 それを双眼鏡で見て、榎本は深い溜め息をもらし、肩をすくめた。

 榎本はいう。

「十年先、五十年先に俺の考えを誰かが叶えてくれればいい。しかし……百年先では遅過ぎる……」

「……釜さん」沢はなんといっていいかわからなかった。

「この戦は義の戦ぞ! 官軍こそ賊軍だ!」

 榎本は強がりをいった。

「蝦夷共和国は永遠に不滅だ」

 五月十一日、弁台場に砲弾の嵐が舞い飛ぶ。あたりは爆発で、次々と榎本脱走軍の兵士たちが爆死していく。官軍の艦隊は艦砲を雨あられのように撃ってくる……

「べらぼうめ!」

 榎本が大砲設置場にきた。

「総裁! 危険です! 城にいてください!」

「てやんでい! こんなときに城でのんびりしてられるか!」

 榎本武揚は大砲を構え、撃った。撃ち続けた。

 すると、幸運なことに官軍の艦船に命中し、艦隊一隻が撃沈した。

「やったぞ!」

 武揚は歓声をあげた。

 しかし、戦況は榎本脱走軍の不利であった。

 千代ケ岡台の陣地も崩壊寸前、五稜郭にも官軍が迫ってくる………

 榎本は五稜郭城に戻った。

 急ごしらえで軍儀をひらく。

「このままではいかん」

 榎本はいった。

 まさしくその通りである。

 一本木では、新選組が藪の中にひそんでいた。

 官軍の関所らしいところがあり、官軍の馬や兵士がちらほらと見える。

「島田」

土方は新選組隊士・島田魁を小声で呼んだ。

「はっ!」

 島田がやってくる。

「……俺が馬にのって近付くから、合図をしたら斬り込め。いいな?」

 土方の言葉に、島田は頷いた。

 新選組はわずか十名まで減っていた。

 しかし、皆、剣客ぞろいである。

 土方は馬にのり、ゆっくりと前にすすんだ。

 かれは新選組の羽織りは着てない。黒い軍服である。

 やがて、官軍の誰かが土方に気付いて、

「おんしら~っ。どこぞのもんじゃ~っ?」と呑気にきく。

 それでも土方は答えず、馬をゆっくりと前にすすませた。側には榎本脱走軍兵士たち数名がひかえている。

「俺が誰だか知ってるか?」

 土方歳三はゆっくりと低い声でいった。

「そげんこつ知らんばい」

 官軍兵士は呑気にいった。

「なら教えてやる」

 土方歳三はゆっくりと低い声で続けた。

「俺の名は土方歳三。新選組副長・土方歳三だ!」

〝鬼の土方〝の名をきいて、官軍たちは、

 ひいいぃ~っ!

 と悲鳴をあげた。

「かかれ!」

 土方は新選組たちに合図をおくる。

 やあぁあ~っ!

 新選組隊士たちは剣を抜いて襲撃を開始した。

「ひいいぃ~っ! 新選組だぁっ!」

 官軍たちは斬られて地面に横たわっていく。

 血で血を洗う惨状になる。

 土方は自慢の剣で、バッタバッタと官軍を斬り殺していく。

 しかし、それもつかの間だった。

 官軍は銃弾を土方に浴びせかけた。新選組や榎本脱走軍兵士にも……

 土方は胸や脚に銃弾をあびて、落馬し、そのまま動かなくなった。

「……近藤さん…総司……」

 土方歳三は死んだ。

 享年、三十五歳だった。

 新選組も全滅し、〝誠〝の旗もボロボロになり、地面に散った。


 井上ちか子は土方の遺体をみつけた。

「土方様! ……土方さま!」

 号泣し、遺体にすがった。

〝誠〝の旗は火で燻って、ボロボロで、地面にある。

 ちか子の目からは涙があとからあとから溢れ出た。

 ……土方さま…

 こののち、井上ちか子は、歴史上から姿を消す。彼女がどうなったのか誰にもわからない。そして、新選組も全滅した。

〝誠〝の旗と、新選組の麻黄色の山形コスチュームを着るものはひとりもいなくなったのだ。こうして、歴史に殺戮集団として有名になった「新選組」は歴史の波に沈んだ。

 土方歳三の遺体は埋められたのだろうが、いったいどこに埋められたのか誰にも知らないという。現在でも遺体は発見されていない。

 こうして、土方も新選組も滅んだ。榎本たちは敗れ、官軍に投降した。

 土方歳三は榎本武揚とともに東北各地を転々とし、蝦夷(北海道)の五稜郭までいって死んだ。敗戦濃厚となるや、歳三は、ともに戦ってきた斎藤一を説得して箱館から逃げさせた。斎藤一は維新後は山口吾郎と改名して、お茶の水の東京高等師範学校の剣術教師を勤めたという。土方歳三は思う。

 ……もはや、これまで…

「もはやこれまでだが、このまま薩長軍に和睦したら地下にいる近藤さんに顔向けできない」歳三は決起し、函館で官軍と戦う、しかし、馬上の土方に銃弾が浴びせ掛けられた。 明治二年五月、土方歳三、戦死。享年三十五。

 こうして、新選組はやぶれ、歴史から姿を消した。

 その後、日本は明治の文明開化を迎え、大正デモクラシー…そして、世界戦争へとつきすすむ。だがそれは、もう近藤勇や土方歳三とはもはやなんら関係のないことである。

「新選組よ、永遠なれ!」こういって、筆をおさめたい。       おわり






参考文献

なお、この物語の参考文献は池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」「西郷どん」「青天を衝け」漫画「おーい!龍馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。


この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作「燃えよ剣」「新選組血風録」、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰せず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!龍馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。

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小説 至誠、遥かなり!燃えよ土方歳三 長尾景虎 @garyou999

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