第63話 欠損


「今回は不問にしておくし、追い出そうなんて思ってもいないけど……。千鶴は、私のことを『ひょろひょろしていて頼りない男』だと思っていたのかい?」


 怒気を含んだ声は鼓膜を潜り、千鶴のなかに入り込んできます。


「頼りないなんて思ってないですけど、運動する習慣もついてなさそうですし……。そんなことしてる暇もなさそうだから……」


「…………確かに、慢性的な運動不足ではあるかもしれないけれど。そう申し出たら、とでも?」


 紫水は口端を上げて挑発を仕掛けます。


「わたしでいいなら、付き合いますよ。でも、運動って、なにをすれば……。いま人気なのは、鞠を蹴る遊びとか……?」


 言葉の裏を読むのが苦手な千鶴は、二つ返事で引き受けてしまってから、疑問符を浮かべました。

 

「……ふふ。かわいいね、千鶴は。だけど、意味もわからずに承諾してしまうのは、やめたほうがいい。発言の内容を吟味してから答えなくては、危ないよ? は、どこにだっているんだから」


 注意を促し、笑みを広げた紫水の口は大きくて、千鶴の倍ほどはありそうに見えました。 


「わるい、ひと…………」


 ひとたび、彼がそれを開けたなら、うろがごとき闇が露出するでしょう。


(頭から丸呑みにされちゃいそう……。だけど、それも悪くないかも)


「千鶴? 返事はしてくれないのかい? かわいい声が聞けたなら、肯定してくれなくても否定してくれても構わないんだけれど……」


 普段であれば浮かびもしないおかしな考えに脳を満たされ、思考も乱されきってしまう一歩手前で、静謐とした声が覚醒を助けました。 


「え? あ、はい……」 

 

 しかし、しばらく空想に囚われ、夢と現の境目が溶けかけていたせいでしょうか。

 

 臍の周辺を撫でていた白魚のような指は、つるっと左の脇腹へ滑っていって――――。


「…………っ!!」 

 

「あれ? 紫水さん、お腹のここ……お怪我してませんか……?」


 美しい肉体に似つかわしくない、不自然な凹みに当たりました。

 

「ああ。昔、少しね……」


 紫水は、苦痛に顔を歪めるでも憂いに沈むでもなく、遠い目をしました。


「ごめんなさい。傷痕があるなんて気付かなくて……」


 悲しげに目を伏せた千鶴でしたが、なぜか痛々しい欠損の上から手を離す気にはなれません。

 

「いいんだよ。し、痛みも痒みもないんだから」


「そうですか? そう…………なのかもしれません、けど……」


 千鶴は肉を抉られる場面を想像し、痛みから逃れるように目を瞑りました。


「……それより、から、そろそろそのかわいい手を私のお腹からどけてくれると、助かるんだけれどね…………」


 紫水は、細い腕をそっと掴みます。


「でも、こんなところを怪我するなんて……。あ。もしかして、泳いでて、岩礁で抉っちゃったんですか?」


 普段、露出していないはずの部位にできた傷痕は、傷の上を行き来する二指を置くために誂えられているかのようでした。


「え? いや…………」

 

「昔ってことは、小さい頃とかだろうし! 意外とそそっかしいところもあるんですね? 紫水さん、かわいい……」


 紫水の否定などまるで耳に入っていない千鶴は、さわさわとそこをさすります。


「いま話したところで、目を覚ました君に、記憶がどれだけ残るかもわからないし……。それ以前に、からなあ……」


「いまなにか言いましたか? ごめんなさい、よく聞き取れなくて」 


「ん? ああ、気にしないで。ゆっくりおやすみ。私の――――」


 愛を囁く唇は、真横に開くのではなく、前に突き出す形になっていました。

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