第62話 眠り姫


「いまのが、『よく眠れるおまじない』ですか? 紫水さんのおまじないは、今度もよく効きそうですね……」


 いよいよ瞼を持ち上げるのも億劫になってきたらしい千鶴は、むにゃむにゃと口を動かしました。

 

「……ふふ。どうだろうね?」


「教えてくれないんですか?」

  

「私は、君の不安を少しでも軽くしてあげられるように、全力を尽くしているつもりだよ。だから、すべての行動がだといえないこともないだろうね」


 紫水は、徐々に呼吸の深くなってきた少女を抱き寄せました。


「じゃあ…………全部……?」

 

「千鶴がそう思うなら、きっとそうさ」


 謎かけじみた物言いが、ますます眠気を誘います。

 

「風の音は怖くなくなってきたかな?」


「はい。紫水さんの声聞いてたら、だんだん気にならなくなってきました…………」


「そうかい。それはよかった。……私の声で安心できるのなら、ひと晩中でも愛を囁いていてあげたいところだけれど……。そろそろ寝なくては、明日の業務に差し支えてしまうからね。おしゃべりは、またの機会にしよう。ほら、おやすみ?」


 転び出た本音を深追いする前に、海を閉じ込めた双眸は隠されてしまいました。


「……おやすみなさい」


 それと入れ替わるようにして、闇夜に煌めく瞳がふたつ。


「紫水さん?」


 一度は就寝の挨拶をした千鶴でしたが、手を伸ばせば届く位置には、愛しい男の胸がありました。


 きっちり着ようという意思の感じられない着こなしをしている紫水の胸元は、常日頃から開き気味で、就寝時もそれは変わらないようでした。

 

「………………」

 

 何度か呼びかけて、紫水が返事を寄越さないことを確認すると、千鶴は頭の片隅で思い描いていた計画の決行に踏み切りました。

 

「紫水さん…………」 

  

 するり……と、合わせから侵入した千鶴の手は、紫水の身体を滑り降りていきます。


「千鶴!?」 

 

 紫水にとっては、まさに寝耳に水だったのでしょう。


 しなやかな身体がびくっと跳ねました。


「ふふ。あったかい……」


 忍び込ませた指先にすべての神経を集中させるべく、視界を遮断している千鶴は、寝ているようにしか見えません。

 

「寝惚けているのか。……やっぱり末端のほうは、まだあたたまっていない。本当に君は、斬新というか大胆というか…………いつも私の想像を超えていくね。まあいいさ。千鶴のしたいようにするのが、いちばんだ」

 

 千鶴は寝付いたものと思っている紫水は、声量を抑えて独り言ちました。


「わあ……! 紫水さんって、意外と筋肉あるんですね?」


 しかし、肝心のはというと、彼の配慮もなんのその、感嘆の声を上げました。


「……っ。起きていたのかい。……千鶴は、私の思っていたより悪い子だったみたいだ。いたずらをしたうえに、誘うようなことまで言って…………」


 時折、顔を歪める紫水は、なにかに耐えているようでした。


「ごめんなさい。……追い出さないで?」


 千鶴は瞳に涙を溜め、あわれっぽく鼻を鳴らしましたが、差し込んだ手を引っ込めようとはしません。

 

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