第10話:為すべきことを
約一時間後。テレザの家。
じゃあ私夕飯まで用事があるから。どれくらいかかるかわからないし呼びにこなくてもいいわ。終わったら降りるから。
承知しました。お衣装と帯は脱いだら浴室の台に置いておいてください。
わかったわ。あ、そうだ。一応節目だし、二人にもお礼言っておくわね。
なんです急に?
今私が生きているのも、名取が無事済んだのもあなたたちのおかげ。ありがとう。
それは間違い無いですね。私たちがいなかかったらどうなってたか。まあ私たちも楽しくやらせていただいてますからお気遣いなく。とローズ。
ええ、その通りですよ。とルーシー。
テレザは頷いて、上階の自分の部屋に向かう。
...
テレザは部屋に入ると窮屈な帯と衣装を脱いで計算服に着替える。帯は巻いてまとめ、脱いだ衣装は綺麗に畳んで浴室の台に置いてテレザは勉強部屋に向かった。
テレザは計算机に棚から大判の計算紙を下ろして文具を用意し、そして書棚から何冊も古い詩集を引っ張り出してくると机の隣に積み上げた。
それからテレザは計算紙に向かった。左手の指に集中してついさっき触れた詩碑の形状を思い出す。テレザはペンを持つと名取の儀で見た神の詩第一編第一歌を、記憶のままに書き写していった。当然その意味はわからない、ただその形を見て触れたそのままに。
約二十分後。テレザは全ての字形を書き終えた。いくつかの文字は石板の劣化から元の形状が曖昧だったのでそれはそのままに書き写した。次にその形状を図形ではなく、文字として新たに書き出す。依然意味はわからないが、その字形と周期性、そして韻律に関わるいくつかの特徴はテレザが見たことのある古代文字の複数と類似性があった。テレザは書棚から出しておいた古代の詩集の写しを見ながら、まずはその意味ではなく音韻の構造に当たりをつけていった。
やはりその詩は父王が言っていたように、古代詩の中でもあまり使われることない、ある地方の方言によって書かれていた。だがそれはテレザの印象通り、訳ではなく原文そのものだった。神の詩が古代の中心言語ではなく、一地方の方言で書かれているのは不思議なことではあったがそれは間違いなかった。もしこの言語が選ばれた理由があるなのならいずれそれもわかるだろう。
それから半時間ほどかけてテレザは詩の対訳を終え、それを新しい計算紙に書き出した。それから一度ペンを置き、お香の中身を新しい葉に交換して火をつけた。紫煙の煙が勢いよく立ち上る。
テレザはなんと言って良いかわからなかった。その詩を言い表すのに相応しい言葉をテレザは思いつかなかった。その厳格でありながら端的な構造の中の、自由な言葉達にテレザは圧倒された。
なんて形だろうか。これは確かに詩だけど、これ自身が一つの完全な幾何的構造を成している。それはまるで最初から式化されていると言っても良いくらいだった。詩が自らの形を知っている。どう式化されるべきかを内包している。こんな詩をテレザは初めて見た。だが魔力を持たない人間族がそんなことを意図するはずはない。式化は悪魔達が詩を魔力の手段として用いるために発達させた技術だ。人間はその醜悪さや愚かさばかりが伝説や昔話で語られるが、少なくともこの詩を成したというだけでもそれは一面的な評価と言わねばならない。自分も悪魔の書いた詩の全てを読んだわけではないし、悪魔の詩の中にも震えるほど美しいものがあるのは知っている。だが、これに匹敵する詩を書ける悪魔がいるのだろうか。近現代に限ったことではない。これまでの歴史上でもだ。ああ、本当になんて詩だ、なんて形だ。私の考えつく程度の形容では如何に言おうが冒涜にしかならない。この詩はあまりにも・・・、自然なのだ。ただあるべきものがあるべきようにある。これ以外の仕方などあり得ないと確信することだけしか私にはできない。
テレザは時計を見る。19時前。まだ時間はある・・・。
テレザはその詩の形が示すままに、その詩の従順な僕としてその式化を進めていった。韻律と意味、字形と音韻、それらの幾重にも重なる階層が示す幾何構造を一つ一つ丁寧に編んだ。読み解き記し、その式を記述していった。いつの間にか日は翳り、ランプの灯りで仕事を続けた。
20時少し前にテレザはその仕事を終えた。満足だった。テレザには式を実際に魔力で展開する力は無い。だが、その式の構造はそれ自体がそれが何を成すか明確に示していた。それは導きと予兆の詩だった。テレザはたった今自分が書き上げた式に手を置いて目を瞑った。
それから目を開けて立ち上がると首をかしげて改めてその式を眺めた。
もし自分に魔力があったらなんて、今まで一度だって考えたことはなかったのに・・・。
それからテレザは大きな欠伸をし、寝室に向かった。
...
不意に目がさめる。
どれくらい眠ったのだろうか。
不思議と全く時間の感覚がなかった。
見るとカーテンの隙間から月明かりがテレザの頰の辺りに落ちていた。
テレザは目を一度瞑り、静かに深く息を吸ってから、ベッドに身体を起こした。
そこにいるのでしょう?エリーゼさん。
部屋の暗がりの中からエリーゼが姿を現す。
その見慣れぬいでたちはエリーゼがここにいる理由を示していた。
なぜ、あのようなことをおっしゃったのです。私はあなたに関わるつもりなどなかったのに。とエリーゼ。
ああでも言わなかったらあなたはここには来なかったでしょう?
そんな必要ない方が良かった。
優しいのね。これから殺そうって相手に。
おっしゃる必要は無いし、何も結果は変わりませんが。教えていただけますか?
なぜあなたが間諜とわかったか?
はい。
あなたには不審なところなんて一つもなかったわ。
ギトリですか?
ああ、あの大使の方?そう、あなたはあの属領に関係があるのね。
ではなぜ。
わかってなどいないのよ。あなたにお別れを言おうとした時にね、言ってみたくなっただけ。そんな事それまで考えもしなかったのに。
馬鹿な・・・馬鹿なことを。私はあなたを消さねばならない。例え冗談にしても、知られた可能性をそのままにはできないのです。
冗談で言ったわけじゃないわ。あなたが間諜だったら良いなと本当に思ったのよ。
なぜです?
あなたあとどれくらい時間あるの?
五分もすればあなたの家人が様子を見に上がってくるでしょう。
聞いてもらいたい話があるの。
そう言ってテレザは自分の意図の全てを話した。
...
...
...
どうかしら?
・・・あなたはその意味を理解していません。
そう?
血の裏切りは最も重い罪です。どれほどの恥辱と苦痛の果てに殺されるか、あなたはわかっていない。今ならあなたは眠るような静かな死を選べる。
色々見てきたあなたが言うならそうかもね。でもあなたも私が見てきたものを知らないわ。立ち上がっても良いかしら?
どうぞ。
テレザはベッドから起き上がると、エリーゼの近くに歩いていく。月明かりが二人の間にまだらに落ちている。
テレザは右腕の袖をまくりその素肌を晒すとエリーゼに差し出した。
触ってみて。
なぜ?
触ればわかるわ。私の身体を心配する必要なんてもうないでしょう?
エリーゼがその肌に触れる。魔力抑制の術具を付けたままでも、直接の接触には意味をなさない。その触れた所から立ち所に鮮血が泡立って伝い落ち、力を入れてもいないのに皮膚が滑って剥がれる。
思わずエリーゼは手を引く。
ローズとルーシーがこの身体の扱い方を見つけてくれるまで、これが私の日常だった。痛みと、痒みと、熱、それが私にとって世界の全て。それは本質的には今も変わらない。ベッド脇の引き出しから包帯を取り出してその傷に巻きながらテレザは言った。
だから何ってわけでもないけど、私にとって苦痛の程度は問題じゃない。問題はどこに私が生き続けることのできる可能性があるか、それだけ。私にとってそれはあなたなの。もし、私がこの国の王位継承候補者として、今あなたが父王の側で得られる以上の価値を提供できると思うなら。どうか損得勘定として、あなたの目的のための打算として私の元にきてほしい。私にそんな価値など無いとあなたが判断するなら。あなたが為すべきことをして。恨みなどしないわ。
エリーゼはしばらく黙ったまま。
あなたが一体何をできると言うのです。
・・・そうね、こちらへ。
そういうとテレザは隣の書斎に向かう。
...
これは?
神の詩、第一編第一歌、導きと予兆の詩。その写しと、対訳、そしてそれを術式化したものよ。
なぜそんなものがここに?
今日の名取の儀で見せられたの。詩碑の原本は図書館の機密区画にあるわ。
これはあなたが?
ええ。
エリーゼはその式を見定めようと注視するがその細密な構造は見ただけでは判断がつかない。
これがここにあることは誰も知らない。王宮ではまだ訳も式化もされていないわ。
テレザは羊皮紙に書いたばかりのその式を丸めて紐で括り、それをエリーゼの手に持たせる。
これが私があなたに提供できるものの一つ。でもこの式は私のお願いとは関係無くあげるわ。あなたにはお世話になったし。このままこの式が忘れられてしまうのも嫌だから。好きにするといい。あなたにならきっと役にたつ。
そう言うとテレザは寝室に戻る。
残されたエリーゼは机に置かれた対訳に目を向ける。
...
エリーゼが寝室に戻るとテレザはベッドに寝転んでいる。
この世界で生きるには、あなたはあまりにも弱すぎる。エリーゼが言う。
ええ、よく知っているわ。とテレザ。
沈黙。
突然扉が叩かれてルーシーが声をかける。
テレザ様夕飯のご用意ができました。もういらっしゃいますか?
今ちょっと手の離せない仕事をしているの。でもすぐ片付けるから。
わかりました。早くしてくださいね。
そう言ってルーシーは去る。
...
テレザが部屋を見回すがそこには誰もいない。ベッド脇の台にはさっきエリーゼに渡した神の詩の式が置かれている。
テレザはベッドから起きて窓辺まで行って外を見る。そこには見慣れた月夜の景色があった。
テレザは絨毯の上に腰を下ろし、少しの間そこに座っていた。
まだ少し自分には時間があるらしい。
終わりの続きを生きている。それは妙な感覚だった。
お腹が鳴る。
テレザは立ち上がり、部屋を出ていった。
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