6話 氷結の弓魔女レオーネ・ビャンコ
巨大なスライムの残滓が、廊下や天井の隙間へ流れていく。
身体の半分以上を凍結して、内側から破砕していたようにみえた。残滓が隙間に流れていくさまからは、倒してしまったというよりは逃亡していく雰囲気があった。
「ありがと。助かった」
お礼をいいつつ、状況確認。
結果は、あんた馬鹿ぁっ? と罵倒したそうな冷たく鋭い瞳。
「まだ助かってねえよ。身体維持するために必要な水分を凍らせてぶっ壊したから、回復しにいっただけ。水分補給したらすぐにお前を追ってくる。逃げるぞ」
「確認だけど、賀川さん、だよね?」
「あぁ? 当たり前だろ見ればわかるだろダホが」
顔は確かに賀川さんだけど、口調と性格が、一ミリも俺の知っている賀川嬢ではありません、と暗に表情に込めてみる。
賀川さんは俺を睨みつけを続けながらも、舌打ちする。
そんな賀川さんをみて、俺は正直ホッとしてしまった。
一挙手一投足すべての言動から、目の前にいる賀川さんの顔をした人物が、俺のよく知る賀川さんではないことを証明してくれるからだ。
「説明している時間もだるい。別にお前が知る必要ねえし。さっさと今のうちに消えろ。後始末は、後始末をやるべき奴がやるから」
「分かりました」
距離感を切り替える。
二重人格なのか、人格入れ替わってしまったのか定かではないが、俺の知っている賀川さんは、ここにはいない。初対面としての距離感で接する。
意味不明な危険が迫っているのだ。
でも今すぐに逃げ帰ることはできない。
「あの、友達がまだ、そこら辺に転がっていて。できれば手を貸してもらえると助かりますです」
「知るかよ。こっちはお前がアレに無意味に取り込まれて、馬鹿げた暴走が起こらないなら、それ以外知るかよなんだよ」
「そうですか」一旦言葉を切る。
さきほどから一生分ぐらい睨まれ続けているので、同じように睨み返す。
「ところでお前はなんなんだ」
殺意に近しいような感情を見受けられる瞳が、ギロりと睨んでくる。同級生に向けていい視線ではない。
同級生でも友達でもない奴に成り代わっているようなので、俺も遠慮はしない。
「ウザ。見ればわかるだろ、賀川だろボケ」
「お前なんて知らない。賀川さんを出せるなら出せ。事情を説明しないなら、この場から一歩も動かない」
腹に衝撃。
返答だった。拳が鳩尾にきっちりめりこむ。
ためらいのない一撃。
一瞬だけ我慢したが、まったく耐え切れず、両膝をつく。立ち上がろうとするが膝に力が入らず、逆に胃液が口から垂れている。痛みよりも苦しさの方が勝っている。
髪の毛を引っ張られ、膝も立ち上がらされ、強制的に視線が合ってしまう。
人生でまず味わったことのない痛みと苦しみ。それよりもまずいのが、殴られるまで殴られたことが全く分からなかったことだ。あまりに素早い。素人とプロの差。
「馬鹿にしてんのか。別にちょっとやそっと痛めつける程度なら、勇者のカスが出てこないこと分かってんだよ。爪の一枚二枚は剥がすぞ、あんま舐めた口きいていると」
こいつの言っていることが、なんにもわからない。
でも賀川さんの中にいる「何者」かにとって、俺が重要な存在であることは察せた。
痛めつけられているが、あくまで脅迫であり恐喝の域から出ていない。
殺すことを目的にしていない。
人なんてあっさり殺せそうな能力をみせているのに、だ。
賀川さんとは遠く離れた存在であることを、改めて確信した。
それならば。やれることはある。
諦めない。
鳩尾辺りは無論、身体全身痛くて痛くてしょうがない。今すぐ泣き叫びながら逃げ帰りたい。
だけど立ち上がる。
俺はこういうとき、立ち上がる存在だと、普段から誇示してきた。
俺は俺を裏切らない。俺を否定しない。俺に嘘をつかない。
俺のために。
俺のこれまで吐いてきた言葉のため。
俺自身のために。
唾を吐く。当たり前のように血混じりだった。気にならない。気持ちよ高ぶれ。びびるな。屈するな。涙よひっこめ。
あらんかぎりの気持ちを高まらせ、賀川もどきを睨みつける。
「話せ。話さないなら、俺はあのスライムもどきに喰われる」
ビンタが飛んできた。頬が熱い。鼻も熱い。鼻血だ。頬を張られただけなのに威力が強すぎて鼻まで痛みがきていた。
つい数秒前に誓った決意がくじける。
でもくじけない。揺るがない。倒れない。俺を叱咤する。まだっ! 倒れるなっ!
強く賀川もどきを睨む。
「あと何発殴られたい?」
「話せ」
今度はまた鳩尾。胃液に混ざった歯ぐきからの出血。
倒れそうになるが、今度は両頬を片手でギュっと掴まれ、顎があがる。
「あと何発だ」
「絶対に動かない」
今度はさっきと反対側の頬を殴られた。グーパンだった。続けざまに掌が右目の上あたりを突かれた。じんわり痛みが拡がる。骨に鈍い痛み。視界がかすむ。
あまりに遠慮のない暴力。あまりに手慣れた暴力。
「まだ頑張るなら、目玉引っ張りだすぞ?」
「話せよっ」
それからも、ひたすらに、やられた。
殴り、殴られ、蹴られ、突かれた。
一応殴り返そうとしたが、まったくの無意味な空振りに終わった。
顔に痛みより、熱さが勝る。
何十発、殴られ蹴られ突かれ、を数えなくなった。
痛みとか熱さとか、そういう感覚すらなくなった頃。
ようやく賀川もどきの顔が引きつっていた。
「根性あるな、クソ野郎」
「は…なせよ…」
口の中は血だらけ。顔じゅう真っ赤だったり、真っ青だったり。骨もところどころ折れている気がする。膝の小刻みな震えは止まらなくなった。お腹も痛い。涙も止まらない。酷い顔になっているはず。
でも譲れない。
また殴られる。賀川もどきの拳が、俺の顔に。
当たらなかった。
殴られかけた拳が引っ込んでいく。額に汗を浮かべた賀川もどきの口元がゆがんでいく。
薄く笑っている。たぶんドン引きしているのだろう。
賀川もどきは拳をおろした。唯一あった勝ちへの路線に乗ったようだ。
「分かった。でもかいつまんでだけだ。本当にもう今すぐ逃げないと回復しきった受肉もどきが襲ってくる。アレは体力って概念ないから一生動き回って探している。独りならやりようあるが、お前を守りながらどこまでやれるかわからん。だから要点だけ伝える。それで納得しろ、いいな」
「わ…かった」
「襲ってきているのは、異世界から受肉してきた魔物。狙いはお前。お前の中にあるクソ野郎の魂が狙い。だからお前がこの場からいなくなれば、追ってはくるが、それだけだ。他の奴らは無関心。路傍の石。蠅蚊。騒げばもしかしたら襲われるかもしれないが、意識ないなら大丈夫だから。魔物が無様にお前を追いかけている最中に、背後から殺す。だからお前はさっさと餌らしく逃げ帰れ」
「でも友達が」
「受肉した魔物は魔力感知しているだけ。お前という餌に到達する通過点にいたから、結果的に襲われただけ。あいつの進路に立っていなければ、真横や真後ろを通っても無視していく。ほっといて大丈夫だから」
「でも結構強く床に叩きつけられていたし」
「骨の一本二本折れていてもすぐに死ぬことはない、お前だってこうして立派に生きている」
「でも当たり所が悪かったらなるべく早く病院に」
「うるせえよ。そしたら死ぬだろな、それがそいつの運だよ、今は死んでねえんだから、それでいいだろ」
賀川もどきが、頬に触れてくる。殴るためではないようだ。
暖かい、ぬくもりが顔全体をつつむ。温タオルを顔全体に巻かれているような安心感。思わず瞼を閉じていた。とんでもないリラックス感に覆われる。十秒未満の出来事だった。
賀川もどきが掌を避ける。
ついさっきまであった顔の痛みが、一切消えていた。
軽く頬や瞼を触ってみるが、生傷や生々しい青痣が消えていることを、教えてくれた。膝も震えていない。
「もしかして、治っている?」
「急速回復魔法。本来有料だからな。ついでに高額だ。酒で壊れた臓器は直せねえが、生傷ぐらいなら痕も残らない。でもこれでまたスライムにこっちの居所が知れた。あいつらは魔力の匂いに敏感なんだよ。すぐ来るからな、逃げるぞ」
「ありがとう。話してくれて。治してくれて」
「感謝なら金払え」
「でもだからこそ逃げないよ」
「おいおいおい」
一瞬だけ恩を仇で返している気分になったが、しこたま殴られ蹴られたのは目の前にいる賀川もどきだったので、気にしない。
「君は俺が大切。だから堂上もスズモトもヨシダも助けない。路傍の石、蠅蚊なんだろ。でも俺にとっては友達だ。だから俺は友達を助けるよ。怪我しているかもしれない。今すぐ助けないと重度な障害残るかもしれない。だから絶対助ける。お前は俺を助けろよ。そうしなきゃ、俺、殺されるぞっ!」
自分でも不思議なほど、言葉が出てきた。
なにをするべきかの覚悟が決まっていたからだろう。
賀川もどきが後ずされる。それから口に笑み。どうやら覚悟を決めてくれたようだ。
「最初の任務からクソクソ難易度たけぇな」
「人生は常にハードモードってわけ」
「もうわかった、無駄に話している暇もなくなった。とりあえず走れ」
「え」
「来るぞ」
またあの巨大なスライムが、急速に廊下を埋めていた。今度は明らかにさっきよりも早い。
「旨い餌見つけてやる気満タンなんだろ。水分じゃカロリーとれないからなっ! 走れっ」
「はい」
「びびるな、安心しろ。勇者討伐隊・氷結の弓魔女・レオーネ・ビャンコ。貴様を守ってやるよ」
いつもより野性味溢れる顔で、力強く駆け、いつもより短い弓を握っている賀川さんが、レオーネがやけに頼もしくみえた。
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