5話 おれらはお前の考えている以上にお前のことを信用信頼してんだよ。
甲高い悲鳴。小指を思いっきりタンスの角にぶつけたかのような、遠慮のない悲鳴だった。
俺はそれが聞こえると同時に、座っていた机の上から飛び上がり、教室から駆け出していた。
甲高い悲鳴ではあったが、堂上の悲鳴であることにすぐに判った。
ああいう内面のすべてを吐き出すような悲鳴を恥ずかしげもなくあげられる輩は、堂上ぐらいしかいない。
ずっと感じていた嫌な予感、嫌な空気が、また現実に牙を向いてきたと直感した。
あまり想像しないようにしていたけど、この嫌な感覚は、あのときと一緒なのだ。
父が死んだときだ。
当時の少年だった俺は、あの瞬間、父と一緒にいることに、異様な不安をおぼえた。
唐突にやってきた嫌な気分の正体や理由がつかめず、訳も分からず怖くなって、泣いてしまった。
いつものよう困ったような笑顔で俺を見送る父。
俺は泣きじゃくりながら、そんな父を一瞥しただけで、あとはママに連れられ、ひたすらに泣いていた。
それが俺の覚えている、父の最後の顔だった。
それからすぐに父は事故で死んだ。
あのとき感じた感覚と、今感じているそれは似通っていた。
だから俺は悲鳴が聞こえた瞬間から全力疾走だった。友達を救えると信じたから。
当時は怖かった。
意味も理由も分からない怖い感覚に、とにかくその場から離れたくてしょうがなかった。赤子のように泣きじゃくること以外、何もできなかった。
今ならわかる。この虫の知らせの意味が。
何が起こるか、何が起こっているかはわからない。
どうして俺にこんな感覚がやってくるかも全く理解できない。
ただ間違いなく、危険が迫っている。命の危険かもしれない。
それだけは事実だと判断できる。
だから走るのだ。全力で。
助けるのだ。今度こそ。
・
堂上が男子トイレ前の水飲み場で倒れていた。
「堂上っ」
声をかけると、わずかに反応がある。意識が軽く飛んでいるだけのようだ。
軽く揺さぶろうとして、堂上の肩を掴む。
「え」
手のひらにぬめりとした感触。
堂上は意識を失っているだけではなかった。
暗くてよくわからなかったが、全身が濡れている。
髪の毛のつむじ辺りから、外履き用のアシックスのつま先まで、文字通り全身びしょ濡れだ。わきの下や、太ももの裏辺りまで、きっちり湿っている。
異様な濡れ方だ。
頭からバケツたっぷりの水をかけられたとしても、ここまで全身ずぶ濡れには、ならないのではないだろうか。
それこそプールのような、人間の全身が簡単にすっぽり入ってしまうような大規模な水溜まりが必要ではないだろうか。全身が浸かってしまった濡れ方だった。
そのうえ、ただ濡れているだけではない。
堂上の肩を掴んだ手のひらは、ねっちょりとした湿っ気があった。
「なんか、粘ばりけがある?」
湿り気の方が強かったが、よく触ってみると、軽く粘り気のある液体であることに気付いた。
ちょっと透明度の高いスライムのような感触だ。ローションのような粘り気と濡れっ気だ。
「ローション、ではない?」
「はは、ローション」
男子高校生らしく、下っぽい単語に、笑いが漏れる。
そして誰もが真顔だった。
いったい何が起こっているんだ、と俺らの思いは共有していたと思う。
仮に、俺ら以外の誰かが悪戯目的で侵入していたとする。
堂上と遭遇してなんか邪魔だから全身水びだしにしてしまうことは、あるだろうか。ゼロではないかもしれない。そしてそんな奴らが人を全身濡らしてしまうような大量のローションを持っているのだろうか。撮影行為で不法侵入ならあり得るのか。
あり得ない。そこまでリスクを冒してまで作品作りに精を出す団体なんてきいたことがない。
なにより、そんなことあり得ない。
あり得ないはずなのに。
全身粘液まみれ、水びだしになった堂上が、目の前で寝そべっていることは、まぎれもない事実だ。
違和感と恐怖で俺らは棒立ちだった。
何もできずに顔を見合わせていると、堂上がせき込みだした。
液体を吐き出すと、呼吸も落ち着いていく。
スズモトが駆け寄った。
「大丈夫かよ。おい、なんなんだよ」
堂上はいつもの子供のような瞳で、いつもより幾分力ない瞳で俺らを確認すると、ホっと一息ついていた。
起き上がる余力はないようだ。
それでも堂上の意識が戻って、空気が少し弛緩する。
そしてすぐにまた緊張感に襲われる。
「わかんないよ。なんか、トイレで爆発音みたいなのがあって。そしたら水の塊みたいなのがいて。真後ろ通っていって。怖くて。叫んだら、飲み込まれて。吐き出されて。あとはもうわかんないよ」
わからない。
何が起こっているのかわからない。頭がまともに動いていない。
ただ今すぐ、速攻逃げろと心が告げている。ここにいてはいけない、と本能が訴える。怖い、いやだ、と訴える。
スズモトらもどう考えているかはわからないが、表情から察するに、ここから今すぐ逃げ出したいという思いは共有していると確信する。
「逃げよう。ただ賀川が」
「は?」と、スズモト。
「いない。別の方へ行ったか、ついてきていないかわからない」
「もういいよ、あんな真面目系ビッチは」
スズモトの頬を軽く叩く。それは駄目な言い回しだ。
「落ち着け。俺も怖い。でも賀川だって怖いから逃げたんだ。お前らは今すぐ校舎からでろ。俺は賀川に連絡して連絡つかないときは一応校内回ってから出る」
スズモトは素直に頷いた。殴られた直後の割に従順だ。冷静さを失っている。
「独りで大丈夫かよ」
「俺が大丈夫ではない瞬間なんて、本当にあると思うのか?」
「確かに」
「仮にバケモノが出てきても、堂上みたいな悲鳴はあげない」
「確かに」
堂上は薄く笑ったあと、瞼を閉じていった。
体力がとことんまで失われているようだ。つい数分前まで元気の化身だった奴の体力を一気にゼロまで落としてしまう存在。なんなんだよ。ほんと意味がわからない。
そして。
多少取り戻し始めていた冷静さが、一瞬で失われていく。
学校の廊下。廊下では絶対にしない音。
深夜の誰もいないはずの校舎ではありえない音が、した。
音の方へ、俺らの視線が固定される。
悲鳴すらあげられない。硬直しすぎて顔が固い。
水音だ。
ちょろちょろ音が漏れているそれではない。バッシャーっ、と何リットルもの水が入った巨大なバケツを勢いよくひっくり返したときのような、派手な水音。
廊下に大量の水が現れた。
ただし流れてはこない。
水は固形のまま、水の塊のまま立ち上がり、天井までくっついている。そこから水滴がしたたり落ちてくる。
巨大な円柱のようになった水塊が、廊下を埋めている。すれ違うこともできない幅に拡がっていく。
それがにじり寄ってきた。ゆっくりと、でも確かに近づいてくる。
なんなんだこの世界は。
何が起こっている。
まるでスライムのようだった。
マスコットキャラとしての地位を確立している方のそれではない。
液状化して酸性などを有していそうな、比較的危険度が高そうな雰囲気のスライム。
それこそ小学校の学祭で売られている、手作りスライムのようだった。
ただ手のひらサイズではない。
廊下の天井までくっつくような巨躯になって、床から壁から、天井までひっつくサイズ感になって、近づいてくる。顔や手足などの器官は見当たらない。ただの巨大なスライムが迫ってくる。
なんなんだ、これは。
「加々見、行け」
「おい」
スズモトだった。格好つける場面ではないだろう。ヨシダも笑いながら俺の肩を掴んでいる。なんだその顔は。なにもかも諦めたような顔はなんなんだよ。
なのに俺は一瞬思ってしまった。
スズモトらを犠牲にして逃げ出すことへ、あまり躊躇していない、と意識してしまった。
なぜ。
俺はこんなに。
こんな人間だったのか。
こんなに卑屈な人間だったのか。
土壇場で。
人生の際で。
もしかしたら死ぬかもしれない瞬間。
俺の本性が滲んでしまったのか。
こいつらは、友達を助けることを選んで。俺は友達を見捨てることを選んで。
俺は友達を、そんな扱いにする奴だったのか。
なんて。
最低だ。
パンっと、軽く頬を叩かれる。スズモトだった。
「酷い顔」
「え」
「気にするな。おれらでは賀川を助ける気にならない。でもお前は助けるだろ。だからお前がいけよ」
「そだな。賀川を連れていけるのはお前だろ」
そんなことはない。お前らだってきっと助ける。
なのに。
今日に限って。
こんな人生の土壇場に限って。
真っ先に動いてくれたのは、俺ではなく。
スズモトと、ヨシダだった。
俺が何か言い訳を口にする前に。
二人は、巨大なスライムへ突撃していた。
特攻精神だったのかもしれない。
自分らではこれ以上なにもできないということかもしれない。
それでも俺は、俺より先に、敵へ無鉄砲へ突撃していって、敵にからめとられて、吐き出されて打ち捨てられた彼らをみて。
少し自分に絶望した。
巨躯なスライムは、スズモトやヨシダを一度体内に取り込んだ。
というか、二人がタックルしていって、そのままスライムもどきの体内へ入ってしまった形だった。
酸性や溶解性があるわけではないらしく、異物を吐き出すように、体内から吐き出された。吐きだされた衝撃で、二人とも激しく壁や廊下の床にぶつかっていった。死んではいない、と信じたい。でも自力で動けるようにはみえない。早く助けないと。
スライムのにじり寄りは止まらなかった。
いや、速度が増していってる。
俺は鼓動が早くなるのを感じた。
スライムの体型が変化していく。
スライムに顔はなかった。
なのに。
なかったはずなのに。
水の塊から、顔のような形取がされていく。
それは鬼のような形相だった。声にならない声のような音が鳴る。まさしく怒りの感情を訴えていた。
それをみて気付いてしまった。気付かされてしまった。
言葉を有さない、バケモノに、教えられた。
このスライムから発せられる、怒りの感情。憎しみという気持ち。
怒っているぞ、憎んでいるぞ、という意思を。
このスライムもどきの標的は、人間ではない。
俺だ、と。
俺に対してのみ、敵対している。
だから俺に、人間に伝わるように、こんな顔を模して声をあげている。
つまり。
俺のせいか。
堂上が。スズモトが。ヨシダが。
こんなに目にあっているのは、全部俺のせいなのか。
俺なんかがいるから、こんなことに。
全部。俺のせいだ。
「待て待て待て。勝手に自分を追い込むな。お前は素直に守られていろ」
聞き覚えのある声だった。馴染みの声だった。ホッとするべき姿だった。
なのに。
違和感しか感じない。
探していたはずの女子であるはずなのに。
振り返ると、賀川さんが、真後ろに立っていた。
弓を構えている。
ただ、いつも構えている和弓ではない。
いつもよりも短めの短弓。いつもより短い矢を3本つまんでいる。
射撃体勢。いつもは、狙いを定め、じっくり射撃に入るのに、今日は一瞬だった。どことなくいつもよりも弦と矢の握りが違うようにみえた。
素早く連続した動作で、続けざまなに三本の矢が放れた。
矢はスライムの体内に刺さる。ズボっと突き刺さったが、そのまま体内に取り込まれた格好。さっきの二人がタックルしていったときと同じだ。物理的な攻撃では、あまりダメージは見られない。
そう思った刹那。
「
賀川さんのその声に反応して、3本の矢の先端から氷のような亀裂が走る。スライムの内部で氷の亀裂が発生し、肉を割く。
地割れのような亀裂を内部に作ったスライムは、その身体を溶かすように、崩れていった。
思わず声が漏れていた。
「なんなんだよ、この世界は」
答えはすぐに帰ってきた。違和感と共に。
「地獄だろうが、普通に考えて」
見慣れぬ短弓を握った、賀川さんの声だった。
賀川さんの顔をしている。
さきほどまでの賀川さんの着ていた服も着ている。
なのに、ここに立っている賀川さんが、俺の知っている賀川さんではない、と直感してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます