第3話
春から夏へ。
一ヶ月に一度だったバイトが、夏季休暇に入る頃には二週間に一度、新学期に入ると一週間に一度の勤務は当たり前になっていた。俺と逸早は、ひたすらに消しゴムを練り続けた。報酬は毎回、百万円。前後。百万円に少し足りない時もあれば、上乗せをしてもらえることもあった。俺としては、カネはいくらあっても多すぎるということはない。だから逸早に「今週末どうですか?」と聞かれる度に即答で「行く!」と応じていた。
俺の異変に気付いたのは、俺本人ではなく、同期生で、サークルメンバーでもある男だった。
「髪染めた?」
田潟とは別に、友だちというわけではない。サークル──麻雀同好会という名前の麻雀好きが集まるだけの集団だ──で対局する以外には、たまの飲み会で顔を合わせる人間、という印象しか残っていなかった。黒縁の丸眼鏡にぽっちゃりとした体躯の田潟は俺の返事を待たずに「ダイエットもした?」と小首を傾げて続けた。なんだよ失礼なやつだな、と思った。例のバイトのお陰で俺の財布はしっかりと潤っていて、もちろん貯金もしてるけど、いわゆる──なんていうの? QOLは格段に上がった。毎日しっかり飯も食えてるし、それに居酒屋、コンビニ、書店という掛け持ちバイトを全部辞めたお陰で睡眠時間も今まで以上に確保できている。
「何の話?」
ろくに口を聞いたこともない相手にイチャモンを付けられたような気持ちだったから、返答は荒かったと思う。だが、田潟は俺の目をまっすぐに見詰めて、
「髪染めた? それともブリーチ?」
「……は?」
何の話だ。俺は生まれてこの方20年ずっと黒髪だ。
眉間に皺を寄せた田潟が、次の瞬間スマートフォンの画面を俺の目の前にずいっと突き出してくる。
言葉を失う。
なんだ。
この髪。
白髪とまではいかないが、でも限りなくそれに近い。「ブリーチ?」と訊かれたのも無理はない。俺の髪に黒はポツポツとしか残っておらず、頭全体が金色に近い色で──
「なんで」
なんで俺、気付かなかったんだ? 毎日手も顔も洗うし、歯だって磨く。学生用の激安アパートに住んではいるけど、洗面所には鏡だってある。毎日自分の顔を見ているはずなのに。
「あのさ」
頬を膨らませて、田潟が言った。
「なんかやってるだろ」
「……な」
なんかって、なんだ。悪いおクスリとか? ハッパとか?
答えはひとつだ。
バイト。
一週間に一度のバイト。消しゴムを練るだけの簡単なお仕事。給料は良い。でも、異変は起きていた。一ヶ月に一度、つまり概ね四回に一度の頻度で、俺はあの日、バイト初日に見かけた男と同じ状況に悩まされるようになったのだ。思うように消しゴムを練ることができない。焦る。涙が出てくる。体が動かない。トイレに行きたい。腹が減った。風呂に入りたい。でも仕事が終わらない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。──失禁し、バイト先のスタッフたちに別室に連れて行かれ、そこで仮眠を取らされて、目が覚めたら施設の外に出される。報酬が百万を切る時には、大抵俺の体はそんな風になっていた。でも逸早は全然気にしていなかった。「そういう時だってありますよ、次頑張りましょ」と言ってニチャッと笑う。それで俺も──
「その顔」
「え?」
田潟の丸々とした指が俺の顔を真っ直ぐに示す。人のことを指差すなよ、失礼なやつだな。
田潟が大きく嘆息し、俺の前にまたスマートフォンを突き出す。
俺は。
ニチャッと笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます