第2話

 土曜日、16時。

 時間ぴったりに駅に降り立った俺を、同じく時間ぴったりで逸早が迎えに来る。助手席に乗り込んだ俺に、「レンタカーです」と特に何も質問をしていないのに逸早は言った。さすがに自分の車は持ってないってことか。

 車で走ること15分。俺と逸早は、銀色の建物の前にいた。思いっきり住宅街のど真ん中にあるというのに、その建物はだった。


「どうぞ」


 駐車場(銀色の建物の裏にはだだっ広い空き地があって、そこを駐車場として使って良いようだった)に車を停めた逸早が、助手席のドアを開けてくれる。何も持ってこなくていいというから、スマートフォン以外は着替えすら持参していない。


「何これ、すごい銀色」

「目立ちますよね。でも近隣住民の方には受け入れられているみたいです」


 並んで立つと、身長175センチの俺より逸早の方が肩の位置がずっと高い。声が斜め上から降ってくる。


「行きましょう」


 で、いったい何の仕事をさせられるんだ?

 質問をし損ねたまま、大股で歩く逸早の後を追う格好になった。


 銀色の建物の扉(初見の俺には扉がどこにあるのが分からないほどツルツルの素材でその建物は作られていた)を慣れた手付きで開けた逸早は「逸早です。こちらは今日から参加の椎野先輩」と目の前にある受付に声をかけた。受付、という札があるものの誰もいないその空間には四角いスピーカーフォンが置かれていて『お疲れ様です。中へどうぞ』という男性の声が聞こえてきた。


「行きましょう」


 逸早は笑っていない。真顔だと顔が整いすぎていてなんだか嫌だな、と思ってしまった。例の、ニチャッ、という笑顔も相当嫌ではあるんだけど。


 そうして。

 俺と逸早が何をしていたのかというと。

 20畳ほどありそうな広い和室に通されて、座布団の上に正座をして、。ひたすら、練っていた。

 他に言葉が見つからないので消しゴムと言ってしまったが、実際アレが消しゴムだったのかどうか俺には分からない。触った感じ、子どもの頃よく遊んだ練り消しに近いなとも思った。俺と逸早以外にも大勢の人間が作業に参加していた。老若男女勢揃いという感じだったが、俺たちと同世代ぐらい、20代前半の男女が多かったように記憶している。


 消しゴムを練る。とにかく練る。


 正解はない。「これ、どこまで練ったら終わるんだ?」と隣に座る逸早に尋ねたら、ものすごい目で睨まれた。こいつこんな顔できるんだ、とちょっと感心してしまった。


「月曜の朝まで仕事って言いましたよね……?」


 頭の上から声がした。ブラックスーツに身を包んだ中年男性が俺たちを見下ろしていた。何の気配も感じなかったので、ちょっとビビった。


「私語厳禁ね。バイト代減っちゃうよ」

「……」


 これって、いわゆるってやつなんじゃなかろうか。不意に思う。そういうマンガもあるじゃん。大金と引き換えに、命懸けの仕事をする──命懸け? 消しゴムを練ることが? それは俺には分からない。ただ。私語厳禁の職場に、時折すすり泣きのような声が響くのが気になった。誰だろう。声の主が男なのか女なのか、それすらも分からない。でも、泣くほどつらいか? この仕事が? 消しゴムを練るだけなのに? 先が見えない、無駄な行動が無理って人もいるから、そういうことなのかな。俺は時々心理実験とかで出てくる部屋の右端に箱を積んで、それからそれを全部左端に移動させて──みたいな仕事でも、金がもらえるなら余裕。

 ただ、座布団の上に正座を続けるのは少ししんどかった。あとトイレにも行きたい。きょろきょろと作業部屋を見回していると、


「おしっこ?」


 どこからか現れたブラックスーツの中年男性が、また頭の上から声をかけてくる。黙って頷くと、


「ふん」


 鼻を鳴らして俺の手元の消しゴムを一瞥した中年男性は、


「──いいよ。この部屋を出て、廊下を真っ直ぐ、突き当たりを右。、入っといで」


 お風呂? 少し驚く。だって着替え、持ってきてないし。


「下着も服も各サイズ用意してあるから、好きなのを着て戻ってきなさい」


 で、俺はトイレに行き、銭湯みたいな広い浴槽があるお風呂をひとりで目一杯堪能し、新しい下着を履き、折角だからと畳んで置かれている服の中からわざわざ浴衣を選んで着用して作業部屋に戻った。どうせ月曜の朝までは帰れないんだ。だったら『ここは温泉旅館』って自分に暗示をかけた方が楽しい。

 あと、仕事の効率次第でトイレもお風呂も許可されるようだから、真面目に消しゴムを練ろうと思った。


 食事も出た。だがこれも、中年男判断で「いいよ」と言われた者順に別の和室に通されやたら豪勢な懐石料理を振る舞われるという、贔屓目にも公平とは言えないやり方だった。斜め前の席で「もう無理、もう無理」と泣いている同い年ぐらいの男はトイレにも行けず、風呂も許されず、もちろん食事も摂れてないようだった。目の前で漏らされたら嫌だなぁ、と思いながら消しゴムを手に取った瞬間、


「あっ……」


 あーあ、失禁した。

 これどうなるんだろう。部屋ごとチェンジか? 匂いがするのはちょっとなぁ。と思っていたら、


「はい、きみもういいよ」


 中年男性が泣いている男の肩を叩き、彼は号泣しながら部屋を出て行った。彼が座っていた座布団には小便がたっぷり染み込んでいるようだったが、中年男とは別のスタッフらしい人たちが手早く座布団や座卓を撤去し掃除をし終える頃には、匂いを含めて何の痕跡もなくなっていた。


 なんなんだ? このバイト。この仕事。


 結局俺は仕事のあいだ三食きっちり食事をし、トイレにも行き、風呂も使い、月曜の朝には知らないあいだに洗濯されていた自分の服を身に着けて帰路に着いた。隣で仕事をしていた逸早が飯を食えていたのかとか、そういうのは分からない。ただ、気が付いたら逸早とふたりで職場の駐車場にいた。


「シノ先輩、


 ニチャッ。運転席のドアを開けながら逸早が笑う。


「向いてる?」

「あの仕事、あんなに淡々とこなす人、オレ初めて見ました」

「そう……?」


 褒められても大して嬉しくないが、バイト代は百万円だった。ラッキー。「いい仕事をしてくれたから」と作業中に俺が使った備品の浴衣とか下着も持ち帰らせてくれた。やったぜ。飯も美味かったし、この仕事なら、


「シノ先輩」


 最初に待ち合わせをした駅に向かって車を走らせながら、逸早が言った。


「来月も同じ仕事あるんです、来ます?」


 うん、と迷わず首を縦に振った。

 逸早の目の下にくっきりと濃い隈が浮かんでいることに、その時の俺は気付いていなかった。

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