最終話 ひいらぎ薬舗


「この度は本当にありがとうございました」


「あぁ、いえいえ。お顔を上げて下さい」


 ひいらぎ薬舗店内で深々と頭を上げる桜にオレは声を掛ける。




 この前の店内での騒動から1ヶ月が経とうとしていた。

 杏はあの後、自宅へ帰り、ひとまず近隣の親戚家に避難する事となった。

 その後、宮ヶ瀬と桜の間で離婚が成立した。

 宮ヶ瀬が慰謝料……と言う名の口止め料を渡そうとしたが桜はそれを固辞したとの事だった。

 龍二の事を訴えるつもりは無いけれど、早く綺麗に忘れたいのでもう2度と関わりたくない……と言う事らしい。


 宮ヶ瀬は離婚成立後、所属政党から離れた。

 叔母ちゃんに何気なく聞いてみたが「あら、私じゃないわよ?」とコロコロ笑うだけで……

 宮ヶ瀬が自身の意志で離れたのか、それともやはり叔母ちゃんの力が働いたのか……オレには分かり得ぬ事だ。


 龍二は……あの件の後、不登校になって大学を休学しているらしい。公に裁かれる事は無いが、十分な恐怖を植え付けたつもりだ。それでも、もしまた杏にちょっかいを出す様な事があれば……オレは今度こそ自制する自身がない。

 このままひっそりと生きて行って欲しいものだ。


 そして杏は……桜と共に、今オレの目の前にいる。

 随分と表情も明るく、親戚家ではまだ多少緊張するものの……入浴も普通に出来る様になって来たとの事で、傷も少しずつではあるが癒えて来たのだろう。

 それを聞いてオレはホッと胸を撫で下ろす。


「杏……良かったな」


「うん……本当に将臣のお陰……ありがとう」


「おう。お前の元気そうな顔を見れて嬉しいよ」


 オレは穏やかな笑みを浮かべ杏の頭を撫でてやる。


「えへへっ」


 杏は撫でられながら嬉しそうに目を瞑る。


「それで今後の事は?」


「ええ。いつまでも親戚家に居候と言う訳には行かないので住まいを探していたのですが……ようやく決まりまして。ここから少し離れた所になるのですが……この後、引っ越し作業を始めようと思います。母娘2人で……ゆっくり暮らして行きたいと思います」


 桜が微笑みながら暖かな目線で杏を見つめる。


「そうなんですね。良かったな、杏」


 杏はそうオレに言われて、うんっと小さく頷いた後、下を向いて床を見つめる。


 その時、「カランカラン」とお店のドアが開く。


「すみません、国際タクシーの者です」


「あぁ、すみません。桜さん、タクシー来たみたいですよ」


 先程、電話で迎車をお願いしたタクシーが到着したらしい。


「柊さん。本当に何から何まで……ありがとうございました。この御恩は一生忘れません」


 桜が深々と頭を下げる。


「いえいえ、本当にお気遣いなく……この後、娘さん……杏さんのご活躍をこのお店から祈っております」


 そう言ってオレも頭を下げる。


「さて、それじゃそろそろ行くわよ……杏……?」


 杏は下を向いたままジッと黙っている。


「……分かったわ。きっと柊さんとお話したい事もあるわよね?お母さん、先にタクシーに乗ってるから、お話が終わったら来なさいな」


 桜は再びオレに頭を下げ、店の外へ出て行った。



 店内はオレと杏の2人きりになり、穏やかな沈黙が流れる。



「……将臣……本当にありがとう」


「おう……杏も良く頑張ったな」


 そう言って再び杏の頭を撫でてやる。


「私……お母さんの事、とても大切に思ってる……でも……私は……将臣の事を……私は……」


 杏の頭を撫でる手を止めて肩をポンっと叩く。


「良いか?杏。今までは雨が降っていたので、たまたまここで雨宿りをしていただけだ。でももう雨は止み、お前に影を作っていた物も取り払われた。杏はこれから明るい未来に歩きだして、陽の光をいっぱい浴びてお前の蕾は綺麗に花開き、そしてそれはきっと沢山の人の目に止まってみんなを喜ばせるだろう。オレはそれを……ひいらぎ薬舗ここで楽しみにしているよ」


 オレの言葉を聞いた杏は、大粒の涙を流しながらオレにぎゅうっと抱きついてくる。


「将臣……将臣さん……私は……私はあなたの事が……大好きです」


「……『さん』は止めてくれって言っただろ?何かこう……ムズムズするんだよ」


 オレはとぼけた表情を浮かべ、頭をポリポリと掻く。


「……ふふっ……将臣は将臣だねっ」


 杏はオレからパッと離れ、涙を流したまま笑顔を浮かべる。

 それはとても悲しそうで……それでいてとても優しい顔だった。


「私……将臣に会えて良かったな……そうでなければ……きっともう……」


「全く……本当だよ。最初にうちに来た時は、咳止め薬が買えないと分かったら『楽に死ねるお薬をちょうだい』だからな。これは困った客が来たもんだなぁと思ったよ」


 オレは肩をすくめてとぼけて見せる。


「ふふっ……でも将臣はその『困った客』を助けてくれた……救ってくれた……」


 杏は真っ直ぐにこちらを向き頭をペコリと下げる。


「私を救ってくれて……本当にありがとう!将臣!!」


「……おう……元気でな、杏!」


 そう言ってオレは、頭を下げたまま涙を床にポタポタと落とす杏の頭を、再び優しく撫でてやった。






 桜と杏を乗せたタクシーの後ろ姿を見送っていると、真っ赤な羽根付き帽子を被った叔母ちゃんがこちらに歩いて来る。


「あら、将ちゃん、私のお出迎え?」


 叔母ちゃんがいつもと変わらぬ笑顔で小首をかしげる。


「あははは。今、杏と杏のお母さんを見送ったところだよ」


「あら、それは残念!杏ちゃんに合いたかったわぁ」


「今いる親戚家の所から引っ越すみたいでな。その挨拶に来たよ」


「あらま、遠くに行っちゃうのかい?」


 叔母ちゃんが残念そうな顔をする。


「まぁ二度と会えない距離では無いけれど、大分遠くはなるなぁ」


 オレが寂しそうに笑うと叔母ちゃんは小さく息をふっと吐く。


「良いのかい?」


「ん?何が?」


「将ちゃんには……ひいらぎ薬舗を閉じて……自分の人生を歩いて行くと言う選択肢もあるんだよ?」


「……そうだなぁ……確かに時代は変わって……『ひいらぎ薬舗』に使はもう無くなったかも知れいない。でも、まぁ……うちを必要としてくれてる人はまだいるからな。祖父ちゃんと親父が目指した『新しい使命』を全うして行くよ」


 オレはもう既に視界から消えたタクシーに乗っている杏の事を思い浮かべ、目を細くして遠くを見つめる。


「あら、頼もしいわね。この前の様な『やんちゃな将臣』が再び出て来ない事を祈ってるわ」


「それはまぁ……オレも反省しているよ。勇次にも『将臣!お前は今、何歳だと思っているんだ!!!』ってあの後こっぴどく怒られたしな」


 オレは苦笑いを浮かべ肩を竦める。


「ふふふ。お友達は大切にね?将ちゃん」


「へいへい。ところで叔母ちゃん、今日は薬は?」


「勿論貰って行くわよ?将ちゃんのお薬は良く効くから」


「そりゃどーも。さ、店内へどーぞ、叔母様」


 オレは仰々しく扉を開けて、いつも通りに叔母ちゃんをひいらぎ薬舗へと迎え入れた。







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