第11話 癒しの湯




「おっ、雨脚が強くなってきたな」


 遅めの夕食を終えた後、ボケっと居間で寛いでいると少し前から降り始めたポツンポツンと屋根を打つ雨の音がバタバタバタと強くなる。

 杏は無事に家へ帰れただろうか……無事、家族に受け入れられただろうか……杏の心を覆っていた……家出の原因は払拭出来ただろうか……


 そんな事を一日中考えながらダラダラと仕事をしていたら、あっという間に閉店時間を過ぎており、思わず苦笑してしまった。

 おかげで夕食を取るのも大分遅くなってしまい、これからお風呂である。


「まっ、考えても仕方ない。風呂に入ってさっぱりするか!」


 そう自身に発破をかけ、パンッと膝を叩いて立ち上がるとリンリンと1階にあるお店の電話が鳴る音が耳に入る。

 時計を見ると既に0時半を過ぎていた。


「やれやれ、こんな時間に……まぁ、しゃーねーなぁ」


 よいしょっと立ち上がり、1階に降りて電話に出る。


「はいはーい。ひいらぎ薬舗ですよー。どうかしましたかー?」


「……」


「……ひっく……ひっく」


「もしもーし?」


 何か……僅かにだが嗚咽の様な声が耳に届く。


「……杏か?……おい!杏か!?」


「……ま、……将臣ぃ……ひっく」


「どこにいる!おい!今どこに居るんだ!!」


 自分でもらしくないな、と思うくらいに自然と声を荒らげてしまう。


「……お店の……外」


 それを聞いて急いでドアの鍵を開けシャッターを上げると、店の軒下で膝を抱えて泣いている杏がいた。傘もささずにここまで来たのだろう。雨で全身がずぶ濡れになっている。


「何やってんだお前!さっさと家の中に入れ!」


 そう言って杏を抱きかかえると身体が冷え切ってガタガタと震えている。

 もしかしたら……寒さだけじゃ無いかも知れないが……そんな事を考えている暇はない。


「とりあえず、2階に行って風呂に入れ。まずは身体を温めろ」


 杏の肩を抱き2階に連れて行こうとすると、杏はオレの腕にギュッと掴み、絞り出すような声でオレの名前を連呼する。


「将臣……将臣ぃ……お風呂……怖いよぉ……もう、嫌だよぉ……」


 その杏の様子を見て、オレは何となく『杏を覆う影』を理解する。

 父親なのか……兄弟なのか……知らないが……

 自然と拳を握りしめ、心の底では怒りがふつふつと湧いてくる。


「杏……ひとまず風呂には入れ。身体が冷え切っている。安心しろ、ここはお前の家じゃない。オレの家だ。ひいらぎ薬舗だ。お前を脅かすものは誰も居ない」


 ずぶ濡れになった杏の身体をギュッと抱きしめてやる。


「将臣……一人は怖い……将臣ぃ……一緒に……いて……」


 えぐえぐと涙を流す杏もギュッとオレに抱きついてくる。


「大丈夫だ。側に居てやるよ。ほら行くぞ?」


 そう言って杏の肩を抱いて、2階に上がって行った。





「丁度風呂に入ろうと思っていた所だったからな。お湯も沸いてるし早く温まって来い」


 ひとまず杏を洗面所に連れて来た後、着替えを用意しようと後ろを向くと、杏がオレのシャツの裾をキュッと掴む。


「ん?」


 後ろを振り返ると、杏が下を向いたまま震える声でオレに話しかける。


「お風呂……一人は……怖い……」


「あー、んー……じゃ、杏が風呂を終えるまでここに居てやるよ。だから安心して風呂に入って来い」


 オレの言葉を聞いて、杏は首をふるふると横に振る。


「……一人は……怖い……」


「あー……」


 オレは大きな溜息を一つ付いて、杏に問いかける。


「杏……何となく薄っすらだけど、杏の身に何があったかは想像が出来るんだが……その……一応オレも……大丈夫なのか?」


「……うん」


 杏は下を向いたまま、小さく頷く。


 はぁ……本人が大丈夫と言うならば仕方が無い。とりあえず早く身体を温めないと濡れた衣服がどんどん杏の体温を奪って行く。

 オレは意を決めて、洗面所と浴室の電気を消す。

 そしてパパッと着ている服を脱いで、浴室のドアを開ける。


「先に行ってるぞ、杏」


 そう言って、浴室に入りシャワーを出して浴室内を暖める。

 僅かに窓から差し込む街灯の明かりに照らされた浴室内に、もわもわと湯気が立ち上ってオレの視界は一層悪くなる。

 まぁ……こんなのただの気休めだが、少しでも杏がリラックス出来れば良いだろう。


 そんな事を考えていると、カチャッとドアが開き、手で胸と股間を隠した杏が浴室内に入って来た。


「ほら杏、とりあえずこっち来い」


 杏はそろそろとこちらに歩いて来てオレの前で立ち止まる。


「冷えてる身体でいきなり湯船に浸かったら身体がびっくりしちゃうからな。とりあえずシャワーで軽く身体を温めろ」


 オレは目の前で肩を震わせながら下を向いている杏にゆっくりとシャワーのお湯を掛けてやる。


「……こんなもんで良いか……ほら、杏。湯船に浸かるぞ」


 そう言って杏の手を引っ張り、2人でザブンと湯船に浸かる。


 オレは湯船に寄りかかり、杏はオレの足の間で後ろ向きになり膝を抱え、ちょこんと小さくなっている。

 そんな杏の肩を抱き、ぐいっとこちらに抱き寄せてオレに寄り掛からせる。


「安心しろ。この程度の明るさじゃ全く見えん。ほら、杏も足を伸ばしてリラックスしろ」


「……うん」


 杏はゆっくりと浴槽の中で足を伸ばし、肩を抱いているオレの腕に手を乗せて「温かい……」と呟く。


 薄明かりの中、湯船のちゃぽん、という音が浴室内に響き渡る。


「……将臣……ありがとう……」


「ん?おう。ちょっとは落ち着いたか?」


「うん……この匂い……いつも思ってたけど、将臣に抱きしめられているみたいで……凄い安心出来る……あっ、今は……実際に抱きしめられているけど……」


 そう言って杏はキュッと身体を固くしてモジモジする。


「おいおい杏、いきなり我に返って照れるとかやめてくれよ?オレだって恥ずかしいんだからな?」


「えっ……ふふっ……将臣でも恥ずかしいんだ」


「お前な~……将臣でもってなんだよ、でもって」


「いししっ。だって将臣、前に乳臭いガキには興味が無いって言ってたから」


「興味が無くたって小っ恥ずかしいに決まっとるだろうが!」


「ふふふっ」


 杏が後ろから抱きしめているオレの腕にギュッと抱き付く。


「……あのね将臣……私が家出をした理由……伝えていない事があるんだけど……話しても良い?」


「おう、良いぞ?杏が話せるなら幾らでも聞くぞ?」


「……将臣……ありがと」


 それから杏は、学校を辞めた理由、家出の本当の理由……それらが義兄の龍二による性的暴力が原因であった事……全てを語ってくれた。

 何度も母親に言おうと思ったけれど……自分が理由で母親の再婚が破綻する事への恐怖……区議会議員で多忙な為、滅多に家にいない頼れぬ継父の存在……そしてどんどんエスカレートして行く龍二の性的暴力。それら全てが杏に覆い被さり、杏に降り注ぐ陽の光を全て遮っていた。


 そして今夜起きた事……


「良く……話してくれたな」


 オレは濡れた杏の頭をゆっくり撫でてやる。


「ふふっ……今日、龍二あの人にも頭を撫でられたけど、嫌悪感しか無かった。髪の毛一本触れて欲しくなかった……でも……将臣に撫でられると安心して……眠くなっちゃう……」


 杏はオレに寄りかかったまま、スースーと寝息を立てる。


「全く……風呂で寝たらのぼせちまうぞ?」



 オレは苦笑いを浮かべつつ、腹の底では余りの怒りにはらわたがグツグツと煮えくり返っていた。


 厳密に言えばは杏はこの街の人間では無い。

 


 だからこれは『柊将臣』としての怒りだ。

 オレは将臣として杏を守る事を心に誓った。




 一方その頃、桜は杏の部屋で呆然と立ち尽くしていた。

 

 一体……何故、杏はまた出て行ってしまったのだろう……何処へ行ったのだろう……


「杏っ……一体どうして」


 そう呟いて、桜は杏のベッドに腰掛ける。

 すぐにでも警察に捜索届を出したいが……誠の選挙の件もある。

 私達母娘の事で迷惑を掛ける訳にはいかない……


 ベッドに座ってうなだれたまま、ふと部屋の隅に目をやると杏のカバンが置いてある。


「あの子カバンも持たないで……」


 桜はのそのそと立ち上がりカバンを手に取って机の上に乗せる。

 チャックを開けて中身を見ると、幾つかの着替えやポーチ、そして財布が入っていた。


「お財布まで置いて……」


 財布を開けると中には数枚の紙幣と小銭、そして……領収書が入っていた。


「……領収書……?」


 桜が領収書を取り出すと、但し書きには『事務用品代として』と書かれており、宛名は『ひいらぎ薬舗』となっていた。


 それは杏が将臣に頼まれてお店の備品を買いに行った際に貰った領収書だった。


 桜は1階に降りて居間にあるパソコンを開き、インターネットでひいらぎ薬舗を検索すると1つのお店が検索に引っかかった。


「ひいらぎ薬舗……隣街の外れ辺りね……あの子、ここに……」


 桜は、じっとパソコンの画面を見つめながらポソリと呟いた。






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