第10話 拠り所


 部屋の扉をコンコンと叩く音がして、私はふっと目を覚ます。


「杏、お夕飯が出来たわよ……居間で待ってるからね」


 お母さんが部屋の外から私にそう伝え、トントントンと1階へ降りて行った。


 ベッド脇の時計に目をやると、19時半を指していた。

 いつの間にか寝てしまったらしい。

 

「ご飯を食べに……行かなきゃ……」


 私は泥沼に沈んだ様に重くなった身体を持ち上げ、ゆっくりと1階へ降りて行った。




 居間に入ると、義兄の龍二とお母さんは既に席に着いていた。


「おお、遅かったじゃないか杏。ゆっくり休めたか?」


 龍二が大げさに心配するフリをしながら私に話しかける。


「うん……」


 私はゆっくりと席に座る。

 目の前のテーブルの上には私の好物ばかりが並んでいた。

 きっと……お母さんが気を使ってくれたのだろう……


「お継父とうさんは?」


「誠さんは今日も会合で忙しいみたい。もうすぐ選挙もあるみたいだしね」


「まぁ親父は大丈夫だろう。派閥の中でも上の方だしな」


 龍二が我が事の様に胸を張って自慢をする。


 継父の誠は区議会議員をやっており、所属する派閥でもそこそこの地位に就いている。

 だから世間体も気にするし、私が家出をしても最後まで警察には厄介になりたくなかったんだろうなと容易に推測出来た。


「いただきます……」


 本当は全く食欲は無いのだけれども……折角作ってくれたお母さんの為にも、私は無理やり口に詰め込むようにして料理を飲み込んで行った。




「ごちそう様でした」


 何とか出された料理を完食し、食器を台所に下げているとお母さんが私に声を掛ける。


「杏、後片付けはやらなくて良いから、寝ちゃいなさい。疲れているんだろうし」


「……うん」


『お風呂』と聞いて私の身体が自然に強ばる。将臣の家では……あれだけ心地良くリラックス出来る場所だったのに、ここでは恐怖でしか無い。

 流石の龍二も私が家出から戻って来た当日に……洗面所に来るとは思えない……思いたくない……

 憂鬱な気持ちのまま重い足取りで、私は階段を上がって行った。

 

 

 パタン、とお風呂場のドアを閉めてシャワーを浴びる。

 ドア1枚向こうの洗面所が常に気になってゆっくりとお風呂に入る事も出来ない。

 心の底から将臣の家に帰りたいと思っていると……カチャッと……洗面所のドアが開く音がする。

 私はすぐに湯船に浸かって息を潜める。

 お風呂場のドアに映る人影……龍二はゴソゴソと何かを物色しているが小さく『チッ』と呟いて外に出て行った。

 私は小さく息を吐いた後、お風呂場の片隅に置かれたビニール袋を見つめる。

 脱いだショーツをあの中に入れ、浴室に持ち込んで本当に良かった。

 でもまさか……帰って来た当日に……来るなんて……


「将臣……私、どうすれば良いんだろう……」


 目を瞑りながら浴槽のヘリにおでこを乗せ、私は震える身体をギュッと抱きしめた。



 お風呂を早々に済ませた私は、自室に戻ってベッドの上で膝を抱えて丸くなる。

 もしかしたら今日の夜も……龍二が私の部屋に来るかも知れないと思うと気が張り詰めて泣きそうになるが、その度に「将臣……将臣……力を貸して」と何度も呟いて平常心を保とうとする。

 そして、布団の中に潜り込み、私はゆっくりと目を閉じていった。




 部屋の時計を見ると、23時半を指していた。

 この時間なら母さんは寝ているだろうし、親父は今日も帰宅は午前様だろう。

 流石に家出から帰ってきて当日は……と思ったがどうにも欲望を我慢する事が出来なさそうだったので、とりあえず今日くらいは使用済みの下着で我慢してやるかと思い、杏が風呂に入ったのを見計らって脱ぎたての下着を取りに行ったら何処にも見当たらない。

 あいつめ、何処かに隠したな?と舌打ちをしたが、向こうがそう言う事をするならば良いだろう、俺も好きなようにさせて貰おう。

 どうせあいつは何も出来やしない。騒いで親父と母さんが別れる事になるのはさぞ困るだろう。何て言ったって俺の親父は区議会議員の実力者だ。ちょっと我慢していれば良い生活だって送れる。家出をしたってどうせこの家に帰ってくるんだ。


 よし、行くか。

 俺はゆっくりと身体を起こし、部屋を出て杏の部屋へと向かって行った。


 杏の部屋の扉を開けゆっくりとベッドに近づく。

 久々に杏の身体に触れる事が出来ると思うと体中の血が沸き立つ感覚に襲われる。

 待ってろよ杏……今、お義兄ちゃんがお前の身体を堪能してやるからな、とニヤケながら杏の布団を捲ろうとすると、その手首をギュッと掴まれる。


 思わずギョッとすると、杏が震える声で俺に話しかけてきた。


「お義兄ちゃん……お願い……もう……こんな事は止めて!」


「……何だよ杏、起きてたのかよ」


「前から……ずっと前から起きてたよ……お義兄ちゃんのしている事は……知ってたよ」


「……何だそうだったのか……だったら話が早い。ちょっと寝てるフリをしてくれればそれで良いからさ。簡単な事だろ?」


 既にバレていた事など大して気にもせず、俺は杏のパジャマに手を掛ける。


「止めて!大きな声出すよ!!」


「ん?良いよ?そうしたら親父と母さんの仲も終わりだけどな?」


 そう言うと、杏の抵抗がピタリと止まる。

 ほんと、ちょろいなぁと俺は心の中でほくそ笑む。


「杏……お前がちょっと目を瞑って我慢しているだけでうちの家族は安泰だ。仲良し家族で居られる。分かるか?家族を壊すも壊さないもお前次第って事が」


 俺の手首を掴んでいる杏の手の力が抜け、パタリと布団の上に落ちる。


「そうそう、聞き分けの良い、可愛い義妹だ」


 杏は横を向きながら涙を流し、どこか遠くをじっと見つめる。

 俺は杏の股間に手を伸ばしつつ、頭を撫でながら気まぐれに優しい言葉を掛けてやる。


「ほら、いつまでも泣いてないで。優しいお義兄ちゃんが涙を拭いてやるから」


 そう言って杏のベッドの脇にあったハンカチで涙を拭いてやる。

 ふと、そのハンカチからは不思議な匂いが……薬草の様な、薬の様な匂いがした。


「何だこの匂い……」と俺は顔をしかめる。



 その匂いを……将臣の家の……将臣の匂いを杏が感じ取った瞬間、杏の目に光が戻る。


 ガバっと起き、龍二を跳ね除けてスマートフォンを手に取り、走って1階へ降りて行く。

 そしてバタン、と玄関が閉まる音が家に響いた。

 龍二が1階に降りて行くと、そこには桜が呆然とした表情を浮かべ玄関に立っていた。


「どうしたの?母さん」と龍二が問いかけると、桜は首を横に振りながら「分からない……でも多分……また杏が出ていったみたい」小さく呟いた。


 龍二は桜に聞こえないように小さく『チッ』と舌打ちをして、顔を歪めながら2階の自室へと戻って行った。





 家を飛び出した私はスマートフォンを握りしめながらひたすら走り続けた。

 この時間だとバスも終わってるし、タクシーを拾うにしてもこの格好では警察に通報される可能性もある。だから……このまま走り続ける事にした。走って将臣の元まで行く事にした。繁華街を超えて将臣のお店までは3、40分位だろう。ハンカチの匂いを……僅かに残っていた将臣の匂いを感じた瞬間、私は私に戻れた。

 将臣……私に覆い被さっているこの黒くてドロっとした物から私を救い出して……私から洗い流して……



 私はえぐえぐと泣きながら、将臣の元へひたすらに走り続けた。





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