第3話 ひとときの安寧


 私はゆっくりと肩まで湯船に浸かる。


「あったかい……」


 こうやって安心して湯舟に浸かるのは……いつぶりだろう。


 お風呂に入る際、将臣は「はいこれ、洗顔料とシャンプー、こっちは身体を洗う石鹸、これは入浴剤ね。全部新品だから安心して使って良いよ」と言って色々と渡してくれた。

 そのいずれにも漢方成分が入っていて、将臣のお店特別の品らしい。

 市販の物には無い、独特の薬湯の様な匂いがするが決して不快な物では無く、逆に心が落ち着く匂いだった。


 将臣のお店、「ひいらぎ薬舗」に来るまでは正直もうどうなっても良いと思っていた。とりあえずこの苦しみから逃げられるのならば何でも良いや、と。

 それがまさか……こんな事になるとは、と不思議な気持ちでいっぱいになる。


「将臣……さん……不思議な人だな」


 あれ程に男の人が苦手だった自分が一つ屋根の下、出会ったばかりの人と2人きりで過ごす事になるなんて今迄では考えられない事だ。

 でも何故か……将臣だと……何となく安心してしまう。

 しかもあれだけ苦手だったお風呂に……こんなに心地良く入れるなんて……

 ……ただの一度だって安心してお風呂に入れた事が無かったのに……

 まるで自分が昔の……お母さんが再婚する前の頃の自分に戻れている様な気がする。


 湯船のヘリに頬を乗せ薬湯の匂いを楽しんでいたが、そろそろのぼせてしまいそうなので湯船から立ち上がり浴室を後にしようとした時、ふと自らの身体が浴室の鏡に映る。

 普段はゆったりとしたパーカーで隠している大きな胸が柔らかい曲線を描き、細いウエストから続く豊かなお尻、そしてふっくらとした太腿が……そう、そこにはが映っていた。


「……大丈夫……将臣は……じゃない……」


 跳ねるような鼓動を繰り返す胸に手を当てゆっくりと深呼吸をした後、私は浴室を後にした。





「おっ、おかえりー」


 お風呂から帰って来た杏に声を掛ける。


「あー……オレのパジャマだとまぁそうなるよなぁ」


 杏はパジャマの袖と裾を何回も折り返し、ウエストのゴムも限界まで締めているがそれでもダボダボ感は否めない。


「え、でも動きやすくて凄く良いよ。私はこれで全然大丈夫」


 杏が笑顔で答える。


「あっ、でも……下着だけは……明日買ってこようかな……何て言うか、スースーしすぎて……心許こころもとないと言うか……」


 杏はそう言って下を向き、モジモジしている。


「あっはっは。そりゃそうだよな。女の子が男物のトランクスを履くなんて経験、普通ないもんな。しかもオレのサイズだからブカブカだし」


「将臣、笑いすぎ」


 ぷくっと杏が膨れる。


「悪い悪い。もう笑わないよ……ぷくっく」


「もー」


 杏はぷいっと横を向く。


「はー。笑った笑った。さ、それじゃ寝室まで案内するから一緒に行くぞ」


 そう言ってオレはむくれた杏を寝室に連れて行く。


「ほれ、ここ。畳部屋だから布団も直敷きだけど……ちゃんとシーツも替えて置いたからゆっくり休みな」


「うん……ありがとう将臣……この部屋の匂い、畳の匂いなのかな?畳って……良い匂いなんだね」


「あー、今時の家だと和室が無い所も多いもんな。ま、適当に過ごしてくれ。何かあったら居間にいるから遠慮なく言いに来い」


「うん……お休みなさい」


 そう頭を下げる杏に「おう、おやすみ」と声を掛け、オレは寝室を後にした。




 将臣が寝室を出て行った後、私はゆっくりと布団の中に入る。

 シーツや掛ふとんからも独特の……多分これも漢方薬の匂いなのか、不思議な匂いがする。

 それはとても安心する匂いで、部屋の畳の匂いと重なって何故か将臣に包まれている気持ちになる。


「ふふっ、私ったら会ったばかりの人なのに……変なの……」


 そんな事を思いながら、一瞬で私は深い眠りへと落ちて行った。





「ほい、これが1日3回食後で、これは寝る前に1回。ちゃんと忘れずに飲んでくれよな」


「は~い」


「返事だけは良いんだけどなぁお前……自分の身体なんだから、しっかり自分で守れよ?」


「分かってるってばー。おみっちに言われた事はちゃんと守ってるもん」


 ゴスロリ風の格好に病み系メイクの女の子――かえで――は口を尖らせながら薬袋を受け取る。


「ふわ~。それにしても眠いにゃー。帰ってぐっすり寝ようかにゃー」


「寝ようかにゃーって……今、朝の10時なんだけどな」


「だって私はオール明けだもーん。眠くてしゃーないにゃー」


 楓の言葉を聞いて、オレはやれやれと溜息を付く。

 楓はキャバ嬢をしているが、仕事明けに客と何処かで遊び回ってきたのだろう……ま、ちゃんと薬も飲んでくれているし、一時期の様な荒れ方もしていないので大丈夫だとは思うが……


「はいはい、お休みなさいませね」 


 そう言って呆れてるオレを見て、楓はニヤッと笑う。


「ねぇねぇ臣っち。知ってる?オール明けってめっちゃ眠いけど、めっちゃ性欲マシマシになるの」


「知らん知らん。お前だけだろ、そんなの」


「ん~?私も他の人の事は知らないけど、私はそうなの」


 そう言って楓はカウンターの中に入って来てオレにピトッとくっつく。


「オレ、今、仕事中」


「うふふ、知ってる♡」


 楓が妖しい光を目に浮かべ、オレの顔をじっと見つめる。


「お前なぁ……オールで遊んで来たんだろ?」


「遊んでは来たけど、しょっぼい男だったから適当にあしらって来た。で、白衣の臣っち見たらムラっと来ちゃった」


「はぁ……前にも言ったけど、オレは今、誰とも付き合うつもりはないぞ?」


「えー、そんなの知ってるし、私だって臣っちと付き合う気はないもーん」


「何じゃそりゃ」


「だって臣っち、優しいしモテるから彼氏にしたら絶対に苦労するタイプだもん。私、嫉妬で頭がパンクしちゃう」


 オレはやれやれと深い溜め息を付いて、白衣に引っ付いた楓を引き離す。


「はいはい。褒めてくれてありがとね。後、これも前に言ったけど、オレは客に手を出さない主義なの。他を当たれ、他を」


「ちぇ~、臣っちガード固いなぁー。昨日のしょっぼい男は私とやれるなら100万払うって言ってたのに」


 むぅ~とむくれた楓はオレをジトッと睨む。


「その男にとって、それだけお前が魅力的だって事なんだろうよ」


「落としたくない男に言われても嬉しくないもんっ」


 楓はぷいっとそっぽを向く。


「絶対にいつか、臣っちを落としてみせるんだから!」


「へいへい。オレと付き合うつもりのない女に落とされて、泣きを見ない様に気をつけるわ」


 そう言ってオレは小さく肩をすくめる。


「いつか私の魅力を分からせてやるんだからね!」


「はいはい。今のままでもお前は十分、魅力的だよ」


「むー……今日はその言葉に免じて素直に帰って上げる。じゃあね!臣っち!」 


 楓はオレに手をひらひらと振って、カランカランとドアの鈴を鳴らし、自宅へ帰って行った。


「ほんっと、この街は飽きないねぇ」


 苦笑しながら首をコキコキならしていると、2階から階段を降りる足跡が聞こえてくる。


「おっ、お嬢ちゃんのお目覚めか」


 後ろを振り向くと、オレのパジャマを着た杏がひょこっと顔を出す。


「将臣……おはよう……お客さん?」


「あー、もう終わったよ。で……良く眠れたか?杏」


「うん。気がついたらもうこんな時間で……こんなにゆっくり寝られたの、久しぶり」


「そっか。そりゃ良かった。とりあえず今日もゆっくりしてろ」


「うん……ありがとう」


 杏は小さくぺこっとオレにお辞儀をする。


「あ、あと居間の机の上にラップした朝飯を置いてあるから。自分のタイミングで好きな時に食べな」


「……うん……ありがと……」


 杏は小さい声で再びお礼を言った後、再び階段を上がって行った。



 杏が居間に戻ると丸テーブルの上にはご飯と焼き鮭にラップがしてあり、その横にはインスタントのお味噌汁が入ったお椀とポット、そして海苔のパックが置かれていた。

 実に日本人らしい朝ご飯である。


「こう言う朝ご飯……久しぶりだな……」


 杏はちょこんと座り、ラップを外してインスタントのお味噌汁にお湯を注ぐ。


「……いただきます」


 誰が見ている訳でも無いが、自然と手を合わせてお辞儀をする。


「……美味しい……」


 何て事ないラインナップの食事だが……杏の心に食事の美味しさと共に……将臣の暖かさが染み渡っていった。


「明日はちゃんと朝起きて……将臣と一緒に……食べたいな」


 杏は将臣と一緒に食事をする所を想像して自然と頬を緩め、ふふっと笑った。





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