優しいキス

 アオイちゃんの死は、少なからず彼女の精神を削った。


 彼女の意欲の低下に比例するように病態は日に日に進行し、身の置き所の無いような終末期特有の倦怠感が彼女を容赦なく襲った。


 痛み止めだけでは症状を抑えきれず、ステロイドの投与も行ったが焼石に水であった。


 とうとうレクリエーションにも参加をすることができなくなり、その後車イスに移ることも困難となった彼女は、一日中ベッドの上で過ごすようになっていった。


 もはや、僕のできることは彼女の手を握ることぐらいだった。


 食事が一切のどを通らなくなった彼女はやせ細り、元気だった頃の面影はもはや無かった。頬はこけ、頭蓋骨の形がはっきりと分かるほどに、顔面の脂肪はそぎ落とされていた。腕は枝のように細くなり、僕が少しでも力を入れて抱くと折れてしまいそうなくらい脆弱に見えた。


 水ももうほとんど飲めなくなっていたが、僕が水差しを口に運ぶと、わずかに口にふくみ美味しいと言ってくれた。


 癌の終末期の患者の苦痛を確実に取り除ける方法がある。それは、鎮静剤を持続的に体に流し込み、患者を眠らせてしまう方法だ。


 意識が無くなってしまうため苦痛は取り除ける反面、コミュニケーションがとれなくなってしまうというデメリットがあることから、導入する時期は慎重に考慮する必要がある。


 一般的には、残された時間があと数日程度予想され、患者やその家族が希望する場合は導入を検討するとされている。


 それは安楽死ではないのですか、としばしば患者の家族から聞かれることがあるが、寿命を縮めるものでは無く、あくまでも苦痛をとりのぞくための緩和医療の一種であり、広く使われている方法ですと説明すると、納得をされたうえで導入を希望される事がほとんどだった。


 どうしてもつらい時はその選択肢があるということを彼女に伝えていたが、僕と話せなくなるのは嫌だからもう少し頑張りたい、と彼女は目を閉じながら消え入りそうな声で言った。






「ごめん、遅くなった」


 白衣姿の瀬田が、僕の背中から声をかけてきた。少し話がしたいと、病院一階の外来のロビーに僕が呼んだのだ。


「瀬田、、、忙しいのに、すまん」


「大丈夫だよ。お前こそ、大丈夫か?」


「ああ、少しずつ心の準備をしているよ」


 僕の声に瀬田が黙ってうなずき、横に腰掛ける。


 午後八時過ぎ。


 電気はすでに落とされていて、天井に張り付くように等間隔に設置された小さなLEDだけが、真っ暗なだだっ広い空間にうっすらと光を落としている。


 患者でごった返す昼間の喧騒が、嘘のように静まりかえっていた。


「彼女はどうだ?」


 すこし間を開けて、瀬田が尋ねた。


「もう食事はほとんど取れなくなって、たまに少し水を少し飲むくらい::。でも、まだ意識はわりとしっかりしているよ」


「そうか::」


 ワックスのかかった地面に視線を落とす。


 僕はさっそく本題に入ることにした。


「なあ、だいぶ前にさ、なぜ患者と親しくしたら駄目なんだろうって話をしたの、覚えてる?」


「ああ。お前があの子の事で相談してきた時だな」


「そう。その時、正常な判断ができなくなるからかもって言ってたよな」


「言ったな」


「この状況になって考えてしまうんだよ。僕が今まで、彼女にしてきた治療は正しかったのかなって。もっと抗がん剤加療を続けるべきだったんじゃないのかとか、そもそも抗がん剤治療をしない方が良かったんじゃないのかとか::」


 そう言いながら、自分は瀬田の意見を聞きたいのではなく、ただ肯定してほしいだけなのだということに気づき、無性に情けなくなった。


「答えなんて無いんじゃないの」


 と正面を向いたまま瀬田が言った。


「::::」


「そりゃあ治療ガイドラインを開けば、抗がん剤治療を行うことを推奨するって書いてあるけど、みんながみんなか必ずしもそうじゃないはずだろ」


「そうだな」


「抗がん剤治療を始めるって事は、すごく大きな決心が必要な事だと思うんだけど、逆に治療を受けないって決めるのも、すごく勇気がいる事だと思うんだよ。だって病気がどんどん進行していく中で、何もせずにただじっとしてるなんて考えようによっちゃ狂気の沙汰だからな」


「その通りだな」


「だから患者一人一人としっかり話し合って、彼らが納得のいく医療を俺らが提供していく。そして今際の際に患者自身が、悔いのない満足のいく闘病生活だったと思えるかどうか。大切なのは、そこなんじゃないのかな」


 いつにもまして瀬田の口調が柔らかく、温かく感じる。


「::::」


 永家さんの事が脳裏をよぎる。彼と向き合っていたつもりだったが、結局それは自分の思い違いで、彼が納得のいく医療を提供することができなかった::::。


 その原因は、彼の本心が汲み取れなかった自分の未熟さ以外の何物でも無かったと、今更ながら腑に落ちた。


「彼女はどう思ってるとお前は思うんだ?」


 瀬田が静かに尋ねてくる。


「わからない::。けど::、きっと感謝はしてくれていると思う::」


 確信はないけど、そう思いたかった。


「お前は彼女としっかり話し合って、どういう治療をするか一緒に決めてきたんだろう? それで彼女が最終的にお前に感謝しているなら、それ以上は無いんじゃないの」


「:::そうだな」


「胸はれよ。それに彼女はまだ、ちゃんと生きてるんだからさ。今からクヨクヨしてどうすんのよ」


「、、、そうだな、最期まで添い遂げれるよう、頑張るよ」


「おう。まあ、お前も無理すんなよ」


 そう言って僕の肩をポンと叩くと、瀬田は医局の方に戻っていった。


――――悔いの無い闘病生活だった。


 彼女は最期にそう思って、逝けるのだろうか::::












 彼女の苦しそうな姿を見ているのは、とてもつらかった。




 僕が手を握りながらそっと話しかけると、どんなに苦しくても小さくうなずいてくれた。




 彼女の体はもう自分で尿をつくることもできなくなっていた。それは、残されている時間がもう二、三日程度であるということを意味していた。




 彼女は辛うじて、その日の夜を超すことができた。だが、いよいよ最期の時が近づいてきていた。








「おはよう」




 うっすらと目を開けた彼女に、声をかける。




「::せんせぃ::」




「::つらい?」




「::うん::」




 彼女の手を握る。もはや握り返す力も残っていなかった。




 彼女の体温を感じたかったので、彼女の手を自分の頬にあてた。




「あったかい::」




 彼女がささやく。




「うん::」




「せんせい::、わたし、もう::、早く楽になりたいって::、ずっと思ってる::」




「うん::::」




「でもせんせいの::、声を聞くと::、もうすこし頑張ろうって::」




「うん::::」




 これ以上涙をこらえられそうになかった。




 僕の目からとめどなく流れる液体が、握った彼女の手に落ちる。吸い込まれていくのではと錯覚するくらい、彼女の皮膚は乾ききっていた。




「あとわたしは::、どれくらい::?」




「それは::、わからないよ」




「::もうあしたか::、あさってか::?」




「::::」




「せんせい::、うそつけないね::」




 かすかに笑う。ぼくを握る彼女の手にわずかに力がはいる。




「ぶはぁ::」




 みっともない泣き笑いをすることしかできなかった。




「君は::、前に癌は悪者ではないって言ったよね?」




「::うん」




「僕は::、やっぱりそうは思えないよ::」




 声が震える。僕を励ますかのように、目を閉じたままの彼女の右の口角がほんの少し上がる。




「君の健康な体を::、明るい未来を奪ってしまう癌を::、僕はそんなふうには思えない::」




「::せんせいは、お医者さんだから::」




 僕は頷いて続けた。




「僕は今まで、沢山の癌の患者さんを治療してきて::、それでも治せなくて癌で最期を迎える人を何度も看取ってきた。その度に自分の無力さに打ちのめされてきたけど::、相手が癌だから仕方がないって、自分に言い聞かせてきた::」




「::」




「でも、今回は::::、とても諦められそうにない::」




「::」




「こんなに::::、癌を憎いと思ったことはないよ::::」




 自分の無力さに対する怒り、彼女を失ってしまうことに対する恐れ、悲しみや戸惑いなどがごちゃ混ぜになってできた大きな塊が、喉の奥からドバッと吐き出された気がした。それと同時に大量の涙が、僕の閉じた両目から流れ出るのを感じる。




「::わたしの病気は::、遺伝性なんだよね::?」




 かすかに目を開き、僕の方を見た彼女がそう絞り出す。




「::そうだね」




「::お母さんからもらった遺伝子に::、こうなる未来が刻まれていた。だからこれは::、運命なんだよ::」




「::強いな、君は::」




「せんせいとの::、出会いもそう::」




「::」




「::わたしの、最後の願い::、おぼえてる::?」




「もちろん::」




「::ちゃんと叶えてね::」




「::::ああ」




「::ちょっと、疲れちゃった::」




「ごめん::」




「んーん、::ずっと眠れてなかったし::」




「そうだね::」




「ぐっすり::、寝たいな::。鎮静剤::、おねがいしようかな::」




「::::分かった::」




「せんせい::」




「::ん?」




「私が眠るまで::、そばにいてね::」




「もちろん::」




「今までありがとう::。本当に::、せんせいで良かった::」




 彼女の左目から、一粒の涙がこぼれた。そんな水分はもう体には残っていないはずだった。




 僕にはそれが、心から絞り出された最後の一滴のように感じられた。




「こちらこそ::」




「眠ってもしばらくは::、手、握っててね::」




「もちろん::」




「それじゃあ::、元気でね::」




 彼女は最後にそう言った。




――――僕も、君の主治医になれてよかった::::。




「::ありがとう。おやすみ:::、アイ::::」




 僕は彼女の名前を呼び、最後に短く口づけをした。




 そして、鎮静剤の投与を開始する。




 程なくして、ずっと苦しそうだった彼女の表情は穏やかなものとなり、静かな寝息を立てはじめた。




 僕はずっと、彼女の手を握っていた。





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