DNAR
緩和ケア病棟は他の一般病棟と比べて、作り自体が根本的に異なっている。
一般病棟は総室であれば4人部屋であることが多いが、緩和ケア病棟では全室が個室になっている。部屋自体も広く作られていて、家族が一緒に寝泊まりできるように座敷や簡易ベッドが併設されていた。
また窓は日光が入りやすいように大きなものが設けられていて、床も無機質なコンクリートではなく木目調のタイルが敷き詰められている。病室というよりはまるでホテルの一室のような雰囲気になっており、終末期の患者が少しでも、気分的にふさぎ込まないようにと様々な工夫がされているのだ。
病室の大きな窓からは鴨川が一望でき、彼女はとても喜んだ。
また緩和ケア病棟では、さまざまなレクリエーションが積極的に行われていた。病院内の散歩や花の水やり、レクリエーションルームでの体操や映画鑑賞など、少しでも患者達がリフレッシュできればと病棟の看護師達が主体となって企画、開催されていた。
もちろん参加は自由だったが、患者や家族からの評判はよく、まだ歩けたり、車椅子での移動が可能な患者達の参加率は高かった。
その日は、とある入院患者の誕生日会が開催された。レクリエーションルームは折り紙で作られたデコレーションや風船などで色鮮やかに装飾され、壁の中央には、アオイちゃんお誕生日おめでとう!とカラフルに書かれた大きな画用紙が貼られている。
彼女はアオイちゃんと面識は無かったが参加を希望したので、僕が車椅子に乗せてレクリエーションルームまで連れて行った。
部屋の中央に置かれたテーブルの上には、小さなホールのショートケーキが置かれ、その上に刺された数字の7を形どったキャンドルの火を、パジャマ姿の女の子が嬉しそうに吹き消した。
彼女の両親、看護師達、そして会に参加していた患者達が、いっせいにおめでとうと声をかけて拍手をする。照れくさそうにはにかむその子は抗がん剤の影響なのだろう、髪の抜け落ちた頭部を覆い隠すためにピンクのかわいらしいニットの帽子をかぶっていた。
ガラス玉のような透き通った瞳をしており、まるでお人形のように愛くるしい顔をしている彼女の顔色はとてもよく見えたが、右半身に麻痺かあるようだった。
脳腫瘍の術後再発で、全身に腫瘍が広がっている状態なのだと横にいた看護師から聞いた。はじめは抗がん剤治療を頑張っていたそうだが十分な効果が得られず、両親は悩み抜いた結果、もうつらい抗がん剤治療は継続しない方針を選択したとの事だった。両親の笑顔の奥に隠された、計り知れない苦悩を想像すると胸が痛む。
「まだまだ元気そうなのにね」
拍手を送りながら彼女がつぶやく。
僕も同じことを考えていた、と返事をした。
小さなケーキが切り分けられ、アオイちゃんが自ら、参加者達におすそ分けしてくれた。僕たちのところにやってくると、
「こんにちわ!お姉ちゃんも大変な病気なの?」
と、屈託のない笑顔で彼女に聞いてきた。
「こんにちは、そうだよ。でもアオイちゃんと一緒でまだまだ元気だよ!」
と力コブを作って返す。
「ねえ、アオイと仲良くなってください!」
緩和ケア病棟の患者のほとんどは高齢者だったので、アオイちゃんは若い女性である彼女の存在に興味津々の様子だった。
「うん、なろなろ!よろしくね」
彼女が差し出した手を、小さな左手が握り返した。
後ろにいた両親が僕たちに笑顔で会釈をすると、今日は疲れただろうからお部屋に帰ろうねと、アオイちゃんと共にレクリエーションルームを後にした。
「あんなに小さな子も、緩和ケア病棟に入院しているんだね。ここに実際に入院してみないと、想像もつかない事だよ」
彼女はそうささやき、僕は無言で頷いた。
それからは、レクリエーションがあるときはアオイちゃんはいつも彼女にベッタリだった。
この子は前からお姉ちゃんを欲しがっていたんです。はしゃいじゃってすいません。というアオイちゃんの母親に対して、私もかわいい妹ができて嬉しいですと彼女は笑顔で返した。
レクリエーションが無くて会えない日は、アオイちゃんの提案で交換日記が行われる事になった。可愛らしいキャラクター物のノートの一ページ目には、「ノートがいっぱいになるまでこうかんしようね!」と、書かれていた。
彼女はそれを目を細めて眺めながら、
「これは長生きしなきゃね!」と言って、ページ一杯にひらがなで今日の出来事や自分の紹介文を書いていた。
アオイちゃんとの出会いが、彼女にとって生きるモチベーションの一つになっているのは明白だった。
患者どうしのつながりがこのような形でお互いにメリットをもたらすことが緩和ケア病棟ではあるのだという事を知り、心の底からこの病棟に入院させて良かったと思えた。
しかしその数日後、彼女達の別れはあまりにも突然に、残酷な形でおとずれる事となる。
彼女が夜に眠るまでは病室で一緒に過ごすようにしていた僕は、その日も彼女が寝息を立て始めたのを確認して、物音を立てないように自宅に帰る準備をしていた。
その時、廊下からけたたましい女性の叫び声が聞こえてきた。
急いで廊下にでると、夜勤中の看護師達が一斉にアオイちゃんの病室に向かっていくのが見えた。後を追って病室に入ると、アオイちゃんがベッドの上で眼球を上転させ痙攣を起こしていた。両親が彼女の体を揺すりながら、大声で名前を叫び続けている。
急いで主治医にコールをしようしている看護師に僕は、
「まずバックバルブマスクとジアゼパムをもってきて!」
と無意識のうちに叫んでいた。
薬剤を筋注すると、彼女の痙攣は程なくして治まったが、体内の酸素の数値が恐ろしいスピードで下がっていく。彼女の息は止まっていた。
バックバルブマスクで強制的に酸素を送り続けることで、酸素の数値は一旦改善したが、救命するためには人工挿管をして呼吸器につなぐ必要がある状況だった。
「お父さんお母さん、落ち着いて聞いてください。アオイちゃんは今、自分で呼吸ができない状態です。おそらく頭の腫瘍が脳幹を圧迫してしまっているのだと思います」
バックをもみ酸素を送り続けながら、両親にそう伝える。
母親は大声で泣き叫ぶばかりで、とても冷静な判断ができそうに無かった。
「じゃあ、どうすれば、、、」
父親がうろたえながら、そう聞いてきた。
「命を救うためには気管に管をいれて、人工呼吸器で酸素を送り続けるしかありません」
「、、、それをすれば、アオイはまた元に戻れるんですか、、、」
「一旦救命はできるかもしれません。ただ、、、」
意識が戻ることはまず期待できないだろう。もちろん話すことも、歩くことも。
それがすぐに伝える事ができずに黙り込んだ僕に、
「先生、もうアオイを、、、楽にしてあげてください、、、」
と父親が消え入りそうな声で呟いた。
「次に急変があったときは、そういった延命治療はやめておこうと前から妻と話していました。主治医の先生にもそう、お伝えしています」
「しかし、、、」
「アオイはもう十分がんばりました。三回も頭の大きな手術をうけて、抗がん剤治療もして、、、いま、また延命処置をしたとしても、もう明るい未来がないのであれば、、、そんなの、、、あまりにも可哀相だ、、、」
母親の肩を抱きながらそう言った父親の口から、嗚咽がもれる。
「もう、それでいいなあ? ママ、、、もう、アオイを天国に送ってあげよう、、、」
母親は泣きじゃくりながら、小さく頷いた。
僕はバッグを揉む手を止めた。すぐに酸素の数値が再び下がり始める。
両親がアオイちゃんのそばに立ち、優しく頭や頬をなでる。
「先生、、、。 私達だけにしていただけますか?」
父親の静かな声に従い、僕と看護師たちは頭を下げて病室から出た。
それから約十分後、アオイちゃんの心静止を伝えるアラームと共に、両親の慟哭が廊下にまで響きわたった。
遅れて到着した主治医に状況をひきつぎ、憔悴しきった僕は彼女の病室に戻った。
ベッドに目をやると、彼女は頭からつま先まで布団をかぶり、その中ですすり泣いていた。
静かに彼女に近寄り、
「大丈夫かい?」と声をかける。
「、、、、あんなに元気だったのに、、、、まだ、今日の日記、、、、見せられてないのに、、、、」
ひくひくと、息継ぎもままならぬまま、そうもらす。
「、、、顔を見せてもらっていいかい??」
そう問いかけると、彼女はゆっくりと布団から顔を出した。ずいぶん長い間泣き続けていたのだろう、瞼は腫れあがり、結膜は真っ赤に充血していた。
「アオイちゃんの病気は、いつ何が起きてもおかしくないくらい進行していた。その状況で、亡くなる直前まで彼女は強い痛みや神経症状に苦しむ事なく、ご両親と一緒に過ごせたんだ」
彼女を慰めるために言ったつもりだったが、それは間違いなく自分に言い聞かせるためでもあった。
「、、、、せんせい」
「どうした?」
「前にせんせいが言っていた、お医者さんが患者と親しくなってはいけないっていうの、、、すこし分かった気がする、、、」
「、、、、」
「わたし、アオイちゃんに先立たれて、、、残されるのってこんなに辛いことなんだって思った、、、」
「うん、、、」
「こんなに辛い思いを、せんせいにさせてしまうのかって思うと、、、仲良くならない方がよかったんじゃないかって、、、ただの一人の患者でいるべきだったんじゃないかって、、、」
そう話しながら悲しみで顔をゆがませ、ふたたび嗚咽をもらしはじめた彼女を僕はそっと抱きよせた。
「そんなことは無いよ、、、」
僕の胸の中で、彼女が声をあげて泣き出した。
「君の最期はきっとすごくつらいけど、、、なかなか立ち直ることはできないだろうけど、、、それでも、君との出会いを悔やむことなんて絶対に無いよ」
「、、、」
彼女が何度もうなずく。
「だから、、、そんな悲しい事、言わないで、、、」
そう言った僕の耳もとで、彼女はちいさくごめんなさい、とつぶやいた。
その日、結局僕は家に帰らず、ベッドの中の彼女の手を握ったまま、朝を迎えた。
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