ホスピス
癌という病気は本当に容赦がない。
ある程度病態が進行しても、自覚症状が出なかったり、ほとんど不自由を感じる事なく過ごせることもしばしばあるが、なにか一つ歯車が狂うとまるで押し寄せる津波のように一気に宿主の体を蝕み始め、その生命ごと飲み込んでしまおうとする。
そうなると病態は加速度的な進行を見せ、それに伴いありとあらゆる症状が出始める。
彼女の腰の痛みは日に日に強くなっていた。
初めは一般的な鎮痛剤がまずまず効いているようだったが、しだいに効果が乏しくなってきた。薬の量を増やしてみたが痛みがやわらぐ事はなく、とうとう麻薬性の鎮痛薬であるモルヒネの投与を開始することとなった。
それにより痛みはかなり改善したようだったが、今度は薬による強い眠気と便秘による腹部の不快感が彼女を襲った。
少しずつベッドの上で過ごす時間が増えていき、それに伴って彼女の全身の筋力は急速に衰えていった。
病気は患者の肉体だけでなく、精神も侵していく。ただ、その点やはり彼女は強かった。
痛みやその他の症状に屈する事は決してなく、常にポジティブでいるように努めていた。
彼女は、病気が悪くなる前と同じようによく笑い、たくさん冗談を言い、目いっぱい僕に甘えてきた。
そして僕たちはよく散歩をした。彼女は車椅子に乗って、僕がそれを押した。
今日は鴨川に行きたい、という彼女のリクエストに答えて、しっかりと厚着をさせたうえで、いつものベンチのある河川敷に向かった。
真冬の冷気が細かな針となり、乾いた風にのって僕たちの顔に容赦なく突き刺さる。
空はどんよりと曇っていた。
「大丈夫? 寒くない?」
車椅子を押しながら、彼女に聞く。
「大丈夫だよ。ありがと」
河川敷にはほとんど人影は無く、川のせせらぎがはっきりと聞こえるくらいにあたりは静かだった。落ち葉を車椅子の車輪が踏む乾いた音が、とても心地よかった。
ベンチの横まで来たところで、彼女が車椅子からゆっくりとベンチに移動した。僕は彼女が転ばないように手を添える。
「なんだかここに来るの、すっごく久しぶりな気がするよ」
ベンチに腰掛けて彼女がしみじみとした様子で言う。僕も横に座った。
「たしかに。一緒に住み始めてからは初めてだね」
「ほんと、今せんせいとこうやって過ごせているのも、ここで二週間に一回、めげずにアプローチを続けたおかげだね」
その頃と比べると彼女の体重はかなり落ちて、すっかり痩せてしまっていたが、瞳にともった力強い光はすこしも衰えていない。
「確かに。本当に君は積極的だったな」
「今思うと、自分でも恥ずかしくなるくらい、後先考えてなかったよね。せんせいに振り向いてもらう事しか考えてなかったもん」
「うん、どうしてこの子はこんなに僕のことを気に入ってくれてるんだろう。もしかしてなにか裏があるのかって勘ぐった時もあったからね」
彼女がアハハと笑って、ひど〜いと僕の肩をポンと叩いた。
「でも今はこうやって、せんせいがずっと寄り添ってくれている。こんなに幸せな事はないよ。あの頃の自分に、君にはすごく素敵な未来が待ってるよって教えてあげたいもん」
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいよ」
彼女のポジティブさには、本当に頭が上がらない。
「でもね、この前ふと思ったことがあったの。もし、私が病気じゃなくても、せんせいはこうやってわたしと仲良くしてくれてたのかなって」
――――確かに。そもそも彼女が病気じゃなかったら出会うことはなかった。もし違う形で出会っていたら::。
「どうだろうね::」
「多分、私は相手にもされてなかったと思うよ」
彼女は、清々しい笑顔でそう言った。
「いや、それは分からないだろう::」
「ううん、きっとそう」
「::」
「先生は性格とか見た目だけじゃなくて、病気とたたかっている私の健気さとか、脆さとか、言い方が悪いかも知れないけど、可哀想なところとかも全部ひっくるめて、わたしを評価してくれてるんだよ、きっと」
「::::」
「せんせいはさ::、わたしの事::、すき?」
びっくりした。彼女の顔を見る。
いつになくややこわばったその表情からは、彼女の強い不安がはっきりと見て取れた。
そうか、この子は僕が哀れみの気持ちで一緒にいるのではないかと、ずっと心配していたんだな。と今更ながら気づいた
今まで彼女に対して、ありふれた愛情表現をしてきた事がなかった。
薄っぺらくて無責任なものになってしまう事を恐れてか、知らず知らず避けてしまっていたのだろう。
でもこれは自信を持って言える。
「大好きだよ」
彼女は大きく目を見開き表情を緩めると、両手を口に当てて、きゃーと騒いだ。
「はじめて言ってもらえたよ! 勇気を出して聞いてよかったよ!」
確かに、初めは若くして不治の病を患ってしまった可哀想な彼女の励みになればと、始めた外来の後の昼食会。でも、病気に負けないように気丈にたたかう彼女に惹かれるようになって、強くあり続ける彼女に寄り添っていく中で、いまもその気持ちはどんどん強くなっている。
彼女の言う通りだと思った。
「僕は、病気とたたかう君が大好きだ」
そう言うと、彼女は大きくうん、と頷いた。
「だからね、私は病気でも幸せでいられるんだよ」
そう言った彼女を、僕はワハハハと笑いながら抱きしめた。
その後も少しずつ、少しずつ彼女の体力は消耗していった。
今までは当然のように食べられていたものが、一つずつ口に入らないようになっていった。
それでも僕たちは悲観的にならないように努めた。
栄養ゼリーや高カロリードリンクを色々彼女に提供するようにし、二人でお気に入りの一品を探した。それだけでは栄養が足りなかったので、毎日家で点滴を一本投与するようになった。彼女は、贅沢だなあと相変わらずポジティブだった。
皮肉なことに、残された時間に反比例するかのように僕の彼女を想う気持ちは日に日に大きくなっていった。
僕の手を少しでもわずらわせないように努める彼女の健気さが、明るさを失わないようにしようとする気丈さが、そして最後まで病気とたたかい続ける彼女の強さが愛おしくて仕方がなかった。
次になにか大きな体調の変化が起きてしまえば、この日常が無くなってしまう。この綱渡りのような日々の中、僕たちは噛みしめるように一瞬一瞬を過ごすようにしていた。
「ただいま!帰ったよ!」
仕事を終え帰宅した僕は、いつも彼女の安否を確認するために、大きな声でそう言うようにしていた。
その日は返事が無かった。
眠っているんだろう、そうであってくれと彼女のもとに急ぐ。
彼女はベッドの中にいた。
呼吸が異常に早く、ぐったりとしている彼女をひと目見て、ただならぬ状態であることが分かった。
「大丈夫か!」
彼女の顔は凄まじく熱かった。すこし皮膚が黄染している。
「分かるかい?」
彼女の顔に手を当て声をかけると、うっすらと目が開いた。
「せんせぃ::、おかえりなさい::」
息も絶えだえ、そうつぶやく。
「すごい熱だ。しんどいだろう」
「さっき、急にすごく寒くなって全身が震えたんだけど、いまは少しマシだよ」
「そうか。今からすぐに病院に行くよ。おそらく入院になると思う」
「分かった::。あ、せんせい?」
「どうした?」
「もう、救急車はいやだな::」
「::分かった。タクシーを呼ぶよ」
「うん、ごめんね。わがままばかり言って」
「いいよ。すこし準備をするね」
「うん、ありがとう」
そういうと、彼女はまた瞼を閉じた。
急いで支度をして、彼女の肩を抱える。
玄関を出ようとしたとき、彼女は振り返って、今までありがとう、と部屋に向かって言った。
もうこの部屋には帰ってこられない事を、彼女は悟っているようだった。
それまではずっと、ただ寝泊まりをするだけの空間だったこの部屋に、彼女が住むようになってからは生き返ったかのように、明るく楽しい時間が流れるようになった。
こちらこそありがとう、と部屋が応えている気がした。
僕は必死で涙をこらえた。
ぐったりとうなだれる彼女を抱えてタクシーに乗り込み、大学病院の救急室に向かってもらうよう運転手に伝える。
僕らの尋常じゃない様子を察知して、慎重かつ迅速に僕たちを目的地まで運んでくれた。
救急室に彼女を運び入れ、すぐにベッドに横たわらせた。
「ナントゥー」
振り返ると険しい顔をした瀬田が立っていた。偶然にも彼は今日の救急当直医の一人だった。
「瀬田::、すごい熱なんだ。どうやら黄疸もでてきている。今日の朝まではわりと元気だったんだけど::」
「まずいな::、肝臓の腫瘍が大きくなって閉塞性黄疸を来しているのかもしれない。すぐに解熱剤を打って、腹部超音波検査をしよう」
彼女の病態の深刻さを察知して、瀬田が迅速に指示を出した。
僕が彼女の腕から採血をして解熱剤の点滴をつないでいる間に、瀬田が慣れた手付きで超音波機器を用いて彼女の体の中を観察してくれた。
「やっぱり思っていたとおりだな。すぐに内視鏡をつかってドレナージをする必要がある。今から準備をしてくるから、お前は彼女に説明をしておいてくれ」
「分かった。お前がいてくれて助かったよ」
「その言葉は処置がうまくいった時にとっておいてくれ」
僕の肩をポンと叩いてそう言うと、彼は早足で救急室を出ていった。
しんどそうに横たわる彼女に僕は、ゆっくりと話しかけた。
「わかるかい?」
目をつぶったまま彼女がうなずく。
「どうやら肝臓の腫瘍が大きくなって、胆汁の流れが悪くなってしまっているようなんだ。それが原因で感染が起きて熱が出ている。今からその流れを良くするために、瀬田が胃カメラをつかって肝臓の中に管を入れてくれるそうだ。頑張ろうな」
彼女はまた、小さくうなずいた。
瀬田の処置はものの十五分程度で終わった。介助についた後期専攻医の話によると、瀬田は内視鏡処置のテクニックにおいても、この大学病院で一、二を争うスペシャリストなのだそうだ。
どこまでもニクい奴だと思った。
処置が終わった後、彼女を緩和ケア病棟に入院させることにした。麻酔のせいもあってか彼女は眠り続けていたが、体温は平熱まで下がり、全身状態も落ち着いているようだった。
彼女が目を覚ましたのは、入院してから二日後の朝だった。病棟の看護師からその旨、僕の業務用PHSに連絡がありすぐに病室に向かった。
部屋をノックするとどうぞ、と彼女の声がした。
部屋に入ってきた僕を見て彼女が笑った。いつも通りの笑顔だった。
「調子はどう?」
「うん、今は熱も下がってそうだし痛みも落ち着いているよ」
顔色も良さそうだった。
「良かった。瀬田が処置をしてくれたおかげだ」
「わたし、せんせいの家で突然寒気がして熱が上がってくる感じがしてから、全然記憶がないんだよね」
「そうか::。まあ何はともあれ、落ち着いて良かったよ」
「またせんせいが助けてくれたんだね::。ありがとう。ねえ、せんせい?」
「ん?」
「また、家に帰れるかな::」
それはもう現実的ではないと思ったが、
「これからの経過をみて、ゆっくり考えよう。な」
と返すしか無かった。
「そうだね。ここでも毎日せんせいには会えるもんね」
「ああ、ちゃん今まで通り、一日二回くるようにするよ」
「うん、待ってるね」
「じゃあまた後で」
そう言って、僕は病室を出た。
今回の急変が彼女の体に与えた影響は決して小さいものではなかった。
彼女の食欲は家にいたときよりもさらに衰え、ゼリーなどの流動物ですらわずかしか食べられないようになっていた。腰椎転移による腰の痛みも日に日に増悪し、モルヒネも飲み薬からより効果の強い点滴に変更した。
ある時、教授から呼び出しがあった。
何事かと戦々恐々としたが、業務を制限して大切な人と過ごす時間を優先するようにとの事だった。このような事は特例中の特例だったが、そのご厚意を享受することにした。
その日以降、僕は一日のうち、ちょっとした業務の時間以外のほぼすべてを彼女の病室で過ごすようになった。もう彼女は自分一人でトイレに行くことも困難になってきていたが、まだ会話はしっかりとできたし、車椅子を使えば、院内の移動はスムーズにできた。
そして何より、僕がずっと横にいられるようになったことを喜んでくれた。
「ねえ、せんせい?」
「どうした?」
「こんなにずっと一緒にいられるのは、初めてだね」
「そうだね」
「せんせいを病院で独り占めできるなんて、私は贅沢者だね::」
「僕もずっと君といれて、うれしいよ」
「::ありがと」
「うん::」
「::せんせい、また少し、痛くなってきたかも::」
「分かった、痛み止めのスピードを少し早めるね」
「ありがとう::」
「うん::」
「::::」
「::::」
「すこし効いてきたよ::。ちょっと眠るね::」
「うん、また痛くなってきたら言って」
「わかった::」
僕らの時間は、ゆっくりと穏やかに流れていった。
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