ラポールへ
舞鶴市は、京都府の北部に位置する日本海に面した港町だ。古くから海軍ゆかりの街として知られ、海上自衛隊の基地もあるためイージス艦や護衛艦を間近で見ることができる。舞鶴の人間はみな、ここは肉じゃがの発祥地だ!と声を大にして言うが、他にも同じ事を謳っている都市があったので、正直疑わしいと幼少の頃から思い続けてきた。
重要文化財にも指定されている海軍ゆかりの『赤レンガパーク』や、京都府随一の水揚げを誇る舞鶴港に併設された海鮮市場が観光名所として挙げられることが多かったが、地元民の僕からするとあまり面白味を感じないのが正直なところだったので、彼女を連れて行く場所は、完全に僕の独断と偏見で決めた。
彼女の体の事を考えると長時間の外出は望ましく無かったので、昼食は家で済ませて、昼過ぎに僕の車で京都市内を出発した。途中から高速道路にのり、パーキングエリアでの休憩を一度挟んで、約二時間で僕の故郷の東舞鶴に到着した。
目的地に向けて、久しぶりの舞鶴市内を車で走る。繁華街を通る際に、シャッター商店街とまではいかないものの、閉まったり無くなっている店が増えている事に気づいた。
賑わっていた時代を知っているだけに、帰省するたびに少しずつ廃れていく故郷を目の当たりにすると、感傷的にならざるをえなかった。
帰ってきたのは三年ぶりだった。運良くこの日は雪は降っていなかったが、空は当然のようにどんよりと曇っていた。日本海から吹く季節風の影響もあり、冬に晴天を拝めることはほとんど無いと言っても過言ではない。
「すごく田舎だろ?」
助手席の彼女に問いかける。
「うん、でも私も島根の田舎町に住んでたから、なんだか落ち着くよ」
「田舎はどこも、似たようなもんだもんな」
「うん。それに、この潮風のニオイも懐かしい::」
彼女は助手席側の窓を少し開けて、車内に外の空気を招き入れていた。
「ねえせんせい、これからのご予定は?」
「うん。ありきたりな所に行ってもあまり記憶に残らないと思うから、今日は僕が個人的に思い入れのある場所にご招待するよ」
「いよいよ、せんせいのルーツに迫れるわけですね!」
この前もそのような事を言っていたな。
「君のご期待に答えられるかどうか分からないけど、僕なりのおもてなしをさせてもらうよ」
「うん! たのしみ」
車を最初の目的地に向けて走らせる。山の中の少し曲がりくねった道を進み、長めのトンネルを通り抜けると、海が眼前に広がった。
「あ~、やっぱり海はいいねえ」
「同感だね」
そのまま海沿いの道を進み、程なくして目的地である臨海公園に到着した。
「わあ、賑わってるねえ〜」
駐車場のすぐ奥には、百メートル以上にわたりコンクリートで舗装されている護岸が続いていて、そこで多くの人達が釣りをしている。海への転落防止のための安全柵も張られており、子供の利用者もたくさんいた。これは僕の少年時代と何ら変わりのない風景であった。
「ここは舞鶴の人気釣りスポットでね、こうやって舗装されている安全な足場のおかげで、初心者や家族連れも安心して釣りをすることができるんだ。はい、ということで今から釣りをしようと思います。」
「えー、釣りとかやったことないよ!」
「うん、そうだろうね。でも大丈夫。今日は初心者でも釣れやすい『サビキ釣り』をやっていこうと思います。ちゃんと道具もすべて用意してあるから心配ないよ」
「ありがとう::」
「よし、じゃあ場所を取りに行こう」
そういって、トランクから道具一式を取り出し護岸に向かった。
さすがに休日ということもあり混みあっていたが、ちょうど帰ろうとしている家族連れがいたので、運よく場所を譲ってもらうことができた。
彼女の体に負担がかからないよう、折り畳み型のイスを組み立てて、そこに座らせる。
「じゃあ始めよう。今日持ってきている竿はサビキ釣り用のもので一式セットになっているから、準備も簡単です」
「はい」
「そもそも、サビキ釣りを知っているかい?」
「あ、ごめんなさい、知らないです」
「そうか、じゃあまずはそこから。釣りというと針に餌をつけて、それを遠くに投げて魚がそれに食いつくのを待つっていうのをイメージするよね」
「はい」
「確かにそういう方法もあるんだけど、それは難易度が高いし、そもそもこの場所では禁止されています」
「はい」
「サビキ釣りっていうのは、餌に似せた小さな擬餌針を連ねた仕掛けを使います。この疑似針がサビキね」
彼女に実物を見せて説明する。ふんふんと頷いている。
「せんせい、下についているカゴは何に使うの?」
「うん、いい質問だね。ここに魚を寄せ集めるための餌をいれます。今回はこのチューブタイプの餌を使います」
そう言いながら、カゴの中にチューブからひねり出した餌をたっぷり入れ、ゆっくりと海に落とし入れる。
「そして、カゴが底まで沈んだらここでこうやって、竿を上下させて餌を撒きます」
「ふんふん::。あっ、すごい! たくさん魚が寄ってきたよ!」
「後はこうやって待っていれば::、ほらきた。あとは焦らずにこうやってリールを巻いて引き上げてやれば::::」
十センチにも満たない二匹の小魚が、ピチピチと暴れながら釣り上げられた。
「わあ、二匹もつれてる! これはなんの魚?」
「はい、これはアジですね。これくらい小さいのはから揚げにすると骨まで食べられます。でも今日は持って帰れないので、海に返してあげましょう」
針からアジを外し、リリースした。
「よし、じゃあ君もやってみよう」
「え~、できるかなあ」
そう言って彼女がカゴに餌をいれると、それを海に入れ海底までおろす。
「ここでこうやって、竿をふるんだよね::。うわ、またたくさん集まってきたよ!」
「そうそう、そこで少し待って::、きた! リールを巻いて!」
「はい!」
引き上げたサビキには、アジが1匹かかっていた。
なかなか筋がいい。
「やったあ! 生まれて初めて魚を釣ったよ!」
針の外し方を彼女に教え、やってみる? と聞いてみたが、絶対無理! とのことだったので、僕が取って海に返してやる。
「楽しい! もう一回やっていい?」
「もちろん、餌はたくさんあるからお好きなだけどうぞ」
その後、彼女は椅子に座ったまま、きゃあきゃあと大きな声をあげて1時間近く釣りを続け、合計で8匹のアジを釣り上げた。時計を見ると午後四時を過ぎており、周りで釣りをしている人影もまばらになってきていた。
「さあ、そろそろ行こうか」
「うん。釣りってもっと忍耐が必要なものだと思ってたけど、こんなに釣れるならアリだね。私、ハマっちゃうかも!」
「気に入ってもらえてよかった。また、いつでも付き合うよ」
「ありがとう」
嬉しそうな彼女を見て、ここに連れてきて良かったと思った。
そもそもこの場所を選んだのは完全に、僕の都合だった。僕が高校生の頃、大切に想っている女性と一緒にここで釣りをする事が、同級生の間で彼女持ちのステータスとなっていた。もちろん僕も、素敵な彼女を作ってここまで自転車の二人乗りでやってきて、一緒に釣りをする事を夢見ていたが、それが叶うことは無かった。
それが長い時を経て、偶然にも叶えるチャンスが来たのだから逃す手はなかった。
結局表向きは彼女の願い事を叶えるという形で、僕のかつての夢も叶えられたという事実は、自分の心に秘めておこう。そんな事を思いながら、車を走らせていると、突然彼女が質問をしてきた。
「ねえ。せんせいは、どんな学生時代を送ってたの?」
「そうだな。小学校の頃は、とにかく足が早い名東くんだった」
そう、とにかく僕は足は早かった。
「てことは、モテたでしょ」
なにやら、彼女はすごくうれしそうだ。
「うん。同級生の女子のうち、半分くらいは僕の事が好きだったんじゃなかな」
「なにそれ、かんじわるっ!」
「でもそこがピークだった。その後、暗黒の中高生時代に入る」
「あはは!彼女はずっといなかったの?」
さらに彼女の声が大きくなる。本当に女子はこういう話が好きだなと思う。
「いなかった。だからひたすら部活の剣道と勉学に励んだね」
だからこそ、今の僕があるといっても過言ではない。
「さびしい〜。作ろうとは思わなかったの?」
「好きな子はいたけど。でも、どうこうする勇気は無かったし、結局遠くから見ているだけで終わったな」
「そっか~、私だったら考えられないな〜。いいと思ってる人がいるのに何もしないなんて」
今までも君はすごく積極的だったんだろうな、と思ったが口には出さなかった。
「まあ、君ぐらい魅力があれば、想いを告げて断られることも無いだろう」
「確かに::。今まで告ってフラレた事はないかも」
そう言った彼女はすこし得意げだ。
「君と僕では、生きてきた世界が根本的に違うようだね」
「あはは、なに陰キャぶってるのよ。せんせいがもし高校の同級生だったら、わたし絶対、言い寄ってたよ。そしたら、なびいてくれてたと思う?」
「::まあ、イチコロだっただろうな」
お世辞抜きで、そう思った。
それを聞いた彼女は、んふふふと満足そうな笑い声を上げると、あ〜お腹へったなあと大きく伸びをした。
高校時代に、制服姿の彼女と自転車の二人乗りで釣りをしにいく世界線::。
きっと捨てたもんじゃなかっただろう。
そんな空想をしていると、自分もそろそろお腹がへってきた事に気付いた。
「さあ、そろそろ夕食にしますか」
「はい! おすすめのお店にでも連れて行ってくれるの?」
「そうだな、僕が今までたくさん食べてきた地元の家庭料理でも食べて帰りますか」
「いいねぇ~!」
「先に言っとくけど、遠慮しちゃ駄目だよ?」
「ん? もちろん、しないよ!」
そう言った彼女にうなずきを返し、僕は、車を走らせた。
市街地に戻って来た僕は、最後の曲がり角で右折をした。直進して少し進み、右手に目的地が見えてきた。併設された十台ほど止めるスペースのある駐車場に車を止める。
「:::名東医院。、ここって::」
「うん、ぼくの実家」
「え、ちょっと待って、何も準備してないし::」
「大丈夫。さ、いこうか。」
父が開業している名東医院は、地域に密着したいわゆる町医者というやつだ。診療所と自宅が併設されていて、一階が仕事場、二階が居住スペースとなっている。父親は一昨年に七十歳をむかえたが、今も現役で精力的に診療にあたっている。後継ぎ候補は僕だけだったので、おそらくいずれはこの診療所を継ぐことになるのだろうが、僕はまだ大学病院で最先端の医療を実践していたかったし、父親もまだ院長の座を譲る気は毛頭なさそうだったので、将来の具体的な話をしたことは無かった。
診療所の入口の右手にある二階の自宅へとつながる階段を、彼女の手を引きながら昇る。玄関のチャイムを押すと、すぐに母親が扉を開けてくれた。
「はじめまして、ようこんな田舎に来ちゃったねぇ~、さあ上がって」
僕の少し右後ろで不安そうに立っていただろう彼女に、舞鶴の方言で挨拶をする。
「ただいま」
「あの::、お邪魔します」
彼女が深々と頭を下げる。
父は、母の少し後ろで微笑みながら立っていた。また白髪とシワの数が増えている。
「さあ、上がって」
玄関に上がり、自分の家の匂いを嗅覚が感じ取る。住んでいた時には絶対に感じ取れなかった家の匂い。遊びに来ていた友達にとって、これが僕の家の匂いだったのか、と帰省するたびに思う。
あまりにも唐突な展開であったため、柄にもなく彼女の思考がフリーズしている様子だったので、僕がかわりに、親しくしている女性ですと彼女を紹介した。
はっと我に返った様子の彼女が、
「名東先生にお世話になっております、坂木と申します。今日はお邪魔するとは知らず、なんの準備もせずに来てしまい申し訳こざいません」
と再び深々と頭を下げた。
「なんも準備なんかいらないわよ、あなた達、もうお腹は減ってる?」
「僕はいつでも。君は?」
「はい、すごく減っています」
「そう、じゃあ早速食事にしましょう」
母に促され洗面台で手を洗い、居間に入ると食卓にはすでに食事が並べられていた。刺し身や煮物や揚げ物に加え、僕の好きな鳥の唐揚げも準備されていた。
「さあ、召し上がって」
「ありがとうございます、美味しそう。いただきます」
「いただきます。さあ、食べよう」
なかなか箸を伸ばせないでいる彼女に食べるよう促す。
「坂木さんは、舞鶴ははじめて?」
「はい、はじめてです」
「何もないとこでしょう」
「いえ、私も島根の海沿いの町に長い間住んでいたんですけど、なんだか雰囲気が似てる気がします」
「田舎はどこもおんなじような感じだもんね」
彼女は白い歯をこぼして、はいと返事をする。
父は相変わらず微笑みを浮かべながら黙って、僕らのやり取りを聞いていた。
「どう? 健一はちゃんとやってますか?」
母の問いかけに、一度口に運びかけた惣菜を皿に戻して彼女が答える。
「はい、先生には本当にお世話になっています。私の病気の診断から治療まで全部、先生にしていただいて::」
「健一の患者さんなのね。そう、これからも良くしてやってくださいね」
いえいえ、そんなと彼女が恐縮して頭を下げる。
家族には前もって親しい女性を紹介するとしか言っていなかったし、もちろん彼女の病気のことも知らないはずだったが、余計な詮索をしてこないあたりが我が親ながらさすがだなと思った。
まだ固い場の空気を和ますために話題を変えることにした。
「最近、父さんと母さんの調子はどう?」
「もうお父さんの耳が遠くなってきちゃって。七十超えてそろそろしんどくなってきてる感じよ、ねえ?」
「そうだな、でももう少し診療所は頑張って続けるよ。お前はどうなんだ?」
父が初めて口を開いた。
「まあ、ぼちぼちだな。大学病院はなかなか色々大変だけど、やっぱり働いていて楽しいよ」
「そうか。まあ、必ずしもうちを継ぐ必要はないから、好きなようにやりなさい」
「ああ、そうさせてもらうよ」
その後、彼女の緊張がほぐれてきたのか徐々に口数が増えていった。話題は基本的には僕に関する事だったが、あまりにもあれこれと褒めてくれるのでとてもくすぐったい感じがしたが、両親が嬉しそうに聞いているのを見て僕も口出しはしないことにした。
「あら、もうこんな時間。あなた達、今日車で帰るんでしょ?」
「そうだな、そろそろおいとましますか」
「はい。ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。坂木さん、お料理ちゃんと食べられた?」
母が机の上の空いた食器を片付けながら聞いた。
「はい、全部すごく美味しかったです! 特に唐揚げ様が!」
一瞬、両親が呆気にとられたような顔をした後、顔を見合わせてゲラゲラと大笑いしだした。
「なにそれ? 本当におもしろい子ね」
彼女は、複雑そうな表情で愛想笑いをしながら、唐揚げ様のくだりを僕に説明するよう目で訴えかけていたが、知らないふりをして一緒に笑った。
「また、いつでも遊びにきてね」
ひとしきり笑った後、母が彼女に言う。
「はい、ありがとうございます」
彼女は満面の笑顔で、そう答えた。
駐車場まで出てきた両親に見送られ、車を出発させる。
「それじゃあ、帰りますか」
「はい、お願いします」
助手席でシートベルトを締めながら、彼女が言う。
「舞鶴はどうだった?」
「うん、素敵なところだった。釣りも楽しかったし、ご両親もすごくいい人達で」
「母親は、ああ見えて僕が子供の頃は、すごく怖かったんだよ」
「えぇ、見えないね。でも、きっとすごく聡明な人なんだろうな〜て思ったよ」
そうだね、というのも変な気がしたので、返事はしなかった。
「あと、お父さんはとにかく優しそうだった」
「確かに子供の頃から、父親に怒られた事はほとんどなかったな。一見、母親の尻にしかれているようだけど、実は父がいないと母は駄目なんだよ。きっと、二人ともそれは自覚している」
「そういう関係って素敵。きっと長く続く秘訣なんだろうね」
「うん」
返事をした後、しばらく沈黙が続いた。信号が赤になり、助手席の彼女に目をやる。
彼女は瞳をひらいたまま、静かに涙を流していた。
必死に声を押し殺しているようだった。
車を止め、手を握る。
すすり泣きに変わった。
「ごめんね。せんせい::、ごめんね。ご両親にも会わせてもらって、すごく楽しかったのに、泣いちゃって::」
「大丈夫。何も言わなくていいよ::」
彼女が落ち着くまで、彼女の手を握り肩を抱いた。
帰りの車内、よほど疲れたのだろう、緊張のせいもあったのか彼女は眠った。
家に着いたのは日が変わった後だった。
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