くれない

 抗がん剤治療を終了した後も、一ヶ月に一度のペースで彼女には僕の外来に受診してもらっていた。一緒に住んでいるので体調の変化があればすぐに分かるのだが、血液検査や画像検査などで病態の進行具合をこまめに把握しておきたかったからだ。


 この日も、外来の最後に彼女を診察室に呼び入れた。


「今日の血液検査は問題無かったよ」


 彼女が少しほっとした表情を見せる。


「良かったよ。でも、腫瘍は少しずつ進行してきているんだよね?」


「そうかもしれない。ただ、腫瘍マーカーの数値も先月と比べてほとんど変化が無かったから、今はまだ大人しくしてくれていると思いたい」


「そうだね::。こればっかりはあれこれ考えても仕方がないよね」


「来月で抗がん剤治療をやめてから三ヶ月になるから、そのタイミングでCT検査をして腫瘍の変化を確認しよう」


「うん。わかった::」


 彼女がこくりと頷く。


 診察室に漂った少し重たい空気を追い払うかのように、藤村さんが口を開いた。


「先生? 少し坂木さんとお話してもいいかしら?」


「はい、どうぞ」


 藤村さんがそんな事を言うなんて珍しいと思った。


 彼女の近くに歩み寄ると藤村さんは、隣の診察室に聞こえないような小声で、


「先生と仲良くやってるんですってね? 本人から直接聞いたわよ。良かったわね」と彼女にささやいた。


 彼女は、僕が藤村さんにその事実を伝えていた事に少しびっくりしたようだったが、すぐにニコリと笑って、


「はい、一緒に住むようになってから毎日幸せです」


 と返事した。


「あれまあ、もう一緒にすんでるの? それは聞いてなかったわよ!」


 と結局大きな声を出す藤村さんに、僕がシーッと人差し指を口に当ててたしなめると、わざとらしく口に手を当てオホホホと小さく笑った。


「教えていただいた通り、誕生日にお弁当を作ってきたのがよかったのかも」


「きっとそうよ、胃袋さえ掴めたら男なんてなんとでもなるんだから」


「はい、藤村さんのおかげだね」


 彼女が藤村さんに相談をしていたなんて初耳だった。おそらく外来の待合室で、待ち時間にでも話していたんだろう。


「先生?」


 藤村さんがふいに真剣な顔で僕に声をかけた。


「はい」


「坂木さんを、どうか大切にしてあげてね」


 その言葉に、えも言えぬ重みを感じた僕は、黙って頷いた。


「坂木さんも、先生が働き過ぎないように見張ってなきゃだめよ」


 そう言った藤村さんの瞳は潤んでいた。


 あらやだ、年取ると涙もろくなっちゃってとあたふたする彼女を見て、僕たちは顔を見合わせて笑った。


 それから一ヶ月後。


 この日の彼女のCT検査では、幸いなことに腫瘍の増大はわずかであることが分かり、現時点では癌細胞は比較的大人しくしてくれている印象であった。


 ただ脊椎、すなわち背骨の一箇所に癌細胞の転移を疑う所見を認めた。たまに背中に軽い痛みを感じることがあるとのことだったが、生活に支障をきたすほどのものではなかったので、この時は湿布と軽い痛み止めで様子を見ることにした。



 その日の夜、瀬田とむらさきで会うことになっていた。僕は彼女を連れて。


「せんせいの大学時代からの、一番のお友達なんだよね。じゃあ、せんせいの事いろいろ聞いちゃおっと」


 と張り切っている様子だった。


 瀬田には昔から、僕の情けないところは散々見られてきた。


 彼女が喜びそうな昔話はたくさん出てくるだろうし、それが瀬田の「話は面白くなるのなら、多少は脚色してもいい」というポリシーのもとに、何倍にも膨れ上がって面白おかしく彼女に伝えられるのかと思うと、会わせるのもいかがなものかとも思ったが、彼女を自分の一番の親友に会わせておきたいという気持ちがそれに勝った。


 むらさきに着くと、瀬田はすでに店に入ってすぐ左の掘りごたつの席に着席していた。


「おーい、こっちこっち!」


と少しおどけた様子で僕らに手招きをする。


 瀬田なりに、すこし緊張している様子が見て取れ、かわいいところもあるなと思った。


「はじめまして。名東先生にお世話になってます、坂木と申します」


 彼女が丁寧にペコリとお辞儀をして挨拶をする。


「おお、はじめまして! ナントゥーの親友の瀬田です。ごめんね、今日は無理言って一緒に来てもらって」


「いえいえ、今日はすごく楽しみにして来ました! ていうか、ナントゥーていうあだ名なんですね、かわいい」


「だろ? 俺が大学一年生の時につけたの。もうそれからに二十年以上こいつはずっとナントゥーだよ」


「あはは、わたしもこれからナントゥーて呼ぼうかな、ね、ナントゥー?」


 先が思いやられた。



 三人ともビールで乾杯をした。


 無理してアルコールを飲む必要はないよと彼女に言ったが、すこし飲みたいとのことだった。


 場は当然のように瀬田が仕切った。食べられないものは無い? と彼女に確認をした上で、ぱぱっと食事のオーダーも済ませてくれた。


 話が彼女の病気の事にならないように、瀬田が持ち出す話題はもっぱら、僕らの学生時代のことだった。


「こいつは今でこそ、こんなにいっちょ前な雰囲気出してるけどさ、昔は本当にろくでも無かったんだよ。とにかく酒癖がひどくてさ〜」


「え〜、意外! 昔から、お固くて隅のほうでチビチビやってるキャラかと思ってた」


「だろ〜。こいつのやらかした話なんか、星の数ほどあるんだけどね。やっぱり一番どうしようも無かったのが、香川まで旅行に行った時だな」


 やっぱり、それを言うんだな。


「聞きたーい!」


 彼女はノリノリで瀬田を煽った。


「学生時代に、仲のいい男ばっか数人で香川まで旅行にいって、旅館で夜飲んでたんだよ。で、トランプゲームで負けたら罰ゲームでテキーラショット一気飲みってなってさ」


「うんうん」


「で、こいつが弱いのなんの。負けては飲み負けては飲みで、どんどん酔いが回って思考力が無くなっていって、また負けては飲みっていう無限ループにハマっちゃってね。で突然、もうやめだ〜つってプッツンキレちゃってさ、フラフラしながら出ていったの」


「え〜、それで誰もついていかなかったんですか?」


「外は真っ暗だし、どうせすぐ帰ってくるだろうって、放っておいたんだよ。そしたら、三十分後ぐらいに廊下から若い女性の悲鳴が聞こえてきてさ」


「えぇ、まさか襲いかかったの?」


 彼女が大きく目を見開いて、僕に詰め寄った


「アハハ、坂木さんおもしろいね! こいつにそんな度胸あるわけないじゃん。何事だって慌てて外見に行ったらさ、なんとこいつが廊下の水溜りの上で死んでたんだよ」


「水溜り?」


 全く話のオチが想像ついていない様子だ。


「そうそう、なんでこんなところが濡れてんだって一瞬なったんだけど、なんとも香ばしい香りがしてきて、コイツやりやがったって悟ってさ。みんなで部屋までナントゥーを運び込んで、すぐに廊下の大掃除だよ。なんでこいつのシモの世話しなきゃなんねーんだって、みんなで文句たれながらさ」


「ひど〜い。でも先生もどっちかっていうと被害者だよね、それ」


「いやいや、ゲームに負けるこいつが悪いの。後はね〜、酒のんだあと急に馬券を買いに行くって言って、原チャで飛び出したはいいけど、すぐに軽トラにつっこんだっていうのも::」


「もういいよ! すべて時効だ時効! もっと生産性のある話は無いのかよ」


 さすがにそれはマズイだろうとおもい、堪らず横槍をいれた。


 彼女もやばい〜と言いながら、苦笑いをうかべている。


「そうか、じゃあ少し話の路線を変えて::。坂木ちゃんは、コイツのどこが気にいったの?」


 また、普通の品性があればなかなかに聞きにくいであろう事をそんなにストレートに。


 しかも、もうちゃんづけか。


 答えなくてもいいよと首をふったが、彼女は笑顔で話しだした。


「うーん。先生のいいところは色々あるんですけど、やっぱり一番は器の大きさっていうか、なんか安心感っていうか。私が救急車で運ばれて、初めて救急室で会って診察してもらった時に、この先生なら絶対に何とかしてくれるっていう確信めいたものがあったんです。私はこの先生じゃなきゃ駄目だって」


「ほえ〜。ビビビッと来たんだね」


「ビビビ?」


 二十年以上前の流行語を、彼女が分かるわけないだろうと思った。


「あ、気にしないで。で、そっからコイツにアプローチしたの?」


「はい。それからもうずっと好き好きオーラ出しまくってたんですけど、全然知らないふりされちゃって」


「だろうね〜、こいつアホなふり本当に得意だから」


 その場にいるのがすごくきまずかったので、トイレに行こうとしたが瀬田に、おい逃げるなっと律せられ、しぶしぶまた座った。彼女はお構いなしに続けた。


「それでこのままでは駄目だと思って、いろいろ無茶な理由をつけて、なんとか一緒にいれる時間や遊びに行く時間をつくってもらって。あとは、成り行きというか::」


「かあ〜、坂木ちゃんやるね~。どう? コイツ落とすの楽勝だった?」


――おい。聞き方。


 彼女の方を見る。


「はい、意外とチョロかったです」


 といたずらっぽく笑った。


――おい。お前もお前だ。


 瀬田がゲラゲラと大笑いする。


「いやあ、実はコイツからも坂木ちゃんの事で相談を受けたことがあったんだ。患者さんに手を出したら、やっぱりまずいかなっつってさ」


 だめだ、いよいよ瀬田のワルノリがヒートアップしてきた。


「えぇ、そうなんだ! なんか、嬉しい〜」


 彼女がぐいっと前のめりになった。


::::駄目だ。否定するタイミングを完全に失った。


「そうそう。やっぱ駄目だよな〜、医者として患者さんに手を出すのはな〜、あ〜でもやっぱり諦めたくないな〜ってずっとクヨクヨウジウジしてるから、『お前の気持ちは、そんなもんなんか!』って一喝してやったわけ。そしたらありがとう、目が冷めたよ。僕、頑張るよっつってヤル気になっちゃってさ」


「えぇ〜、両想いだったってこと? やだあ、それなら早く言ってほしかったよぉ!」


 と、頬を膨らまして上目遣いで僕を見た。アルコールのせいか、少し目がトロンとなり頬を紅潮させた彼女が、いやに色っぽく見えて僕はドキっとした。


 予想していた通り、瀬田の話は原形の何倍にも膨れ上がっていたが、彼女も喜んでいる事だし、もうそういうことでいいかと思った。


「まあ、君たちがこうやって仲良くしてくれて、嬉しいよ僕は。うんうん。店長、ナマ三つおかわりー!」


 その後も、彼女が最高のリアクションをしてくれるおかげで、瀬田は絶好調だった。


 僕の黒歴史が次から次へと出てきて、中には僕自身が全く覚えていないものもあって、瀬田の創作じゃないのかとも疑ったがとにかく彼女は終始楽しそうにしていたので、それ以上は何も望まなかった。


 ひとしきり話し終えた後、瀬田は時計を見て、


「お、もうこんな時間か。それじゃあ、そろそろお開きとしますか」としめてくれた。


 彼女がトイレに立った。


 瀬田が急に真顔になり、


「ホントいい子だな。お前が選ぶだけのことはあるよ」


 と静かにつぶやいた。


「ああ、おれには勿体ないくらいだよ::。ありがとうな、今日は。彼女もすごく楽しそうだった」


「いや、ちょっと好き勝手言っちゃったけど。まあ結果オーライってかんじだな」


「やりすぎるお前じゃなきゃ、きっとここまで盛り上がらなかったよ」


「まあな!」


 そう言うと、瀬田は僕の首に手をかけて耳元でつぶやいた。


「彼女と仲良くな。俺、お前達の事応援してるからな。なにか助けになれる事があったら、いつでも言ってくれよ」


 そして、僕の肩をポンと叩いて頷く。


 僕も黙って頷いた。


 彼女が帰ってくるのを待って、三人で店を出る。


 瀬田は、


「坂木ちゃん、また飲もうね〜」


 と、大きく手を降って僕たちとは逆の方向に帰っていった。


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