穏やかな日々
あの日以降、彼女と一緒に暮らすようになった。僕の家で。
まあ、勢いというか成り行きというか。
抗がん剤治療を行わなくなった彼女の体調は、すこぶる良かった。癌が大きくなってきている
とは言え、まだまだ彼女の若いからだを乗っ取れるほどには進行しておらず、副作用に苦しむ事が無くなった彼女は、世間一般の健康な成人女性となんら変わりの無い日常生活を送れていた。
朝から通勤して業務を行い、同僚とランチをして、夕方に家に帰ってきて晩御飯の準備をして、僕の帰りを待ってくれていた。
僕も、なるべく仕事を早く切り上げ家に帰るようにした。
今までは、日が変わる前に家に帰ることなどほとんどなかったので、まだ明るい帰り道がとてつもなく新鮮だった。
帰宅すると彼女がおかえりなさいと出迎えてくれる。
一緒に食事をしながら、毎日とりとめもない話をした。
ある夕食時に、彼女がこんな事を言ってきた。
「せんせい私ね、最期までにしておきたい事ってなんだろうって考えてたんだ」
「うん」
カレーをすくったスプーンを止めて、返事をする。
「なにか具体的な目標をあげておかないと、結局最期にあ~、あれしときゃよかった~って後悔しそうな気がしてさ」
「たしかに」
カレーを口に運ぶ。うん、美味しくできている。
「そこでね、これだけは絶対に叶えたいっていう願い事を、三つにしぼりました!」
「なんだか、ドラマとか映画のタイトルにありそうなやつだね」
「なにそれ、ありきったりって言いたいの? まあ、とりあえず聞いてよ。じゃあ、発表するね」
「どうぞ」
「ひとつめは〜〜、じゃん! せんせいと色んなところでデートする!」
彼女は右手の人差し指を立てながらそう言った。
「全然、具体的じゃないね」
「うん、でもこれはもうゆずれないからさ::」
「まあ、よしとしよう」
「つぎ、二つ目ね。二つ目は〜〜、じゃん! せんせいのふるさとにいく!」
一つ目の時よりも、彼女の声と勢いが大きくなっていた。
「ふるさとって、舞鶴?」
「そう! せんせいのルーツを探りに行くの!」
「本当になんにも無い所だよ、しかも今はとてつもなく寒いし、ほぼ一日中曇ってる」
「それでもいいの! 大丈夫、せんせいの実家に連れて行けなんていわないからさ!」
「うん、それだけは勘弁してもらいたいね」
「なにそれ、つめたっ!」
「で、三つ目は?」
「三つ目はね::、私が最期を迎えるときは、せんせいに手を握られながら!」
にっこりと、満面の笑顔で彼女が言った。
そんなにニコニコしながら言うことか?と思ったが、分かったとだけ返事をした。
一緒にいる時間、彼女とにかく僕に甘えてきた。何をする時も自分の体の何処かが僕に触れていたいらしく、いつもくっついていた。こんな事は始めての経験だったが、「夢みたいだよ」と幸せそうに微笑む彼女を見て、ぼくもまんざらでもない気分だった。
そんな彼女も、入浴の時だけは自分から僕のもとを離れていった。冗談で、一緒に入るかい?と言ってみたが、やだと一蹴された。どうやらお腹の人工肛門を見られる事に、抵抗があるようだった。僕が手術で造ったんだから恥ずかしがることはないのにと思ったが、それを口に出すのはあまりにもデリカシーが無いということは僕にも分かったので、心に留めておいた。
夜は以前から僕が使っていた、セミダブルのベッドで二人並んで眠った。これも彼女の強い希望だった。大きなベッドに買い替える提案をしてみたが、すぐに却下された。誰かと体が触れながら眠るなんてそれこそ僕には全く経験の無いことをだったので、初めはこんな体勢で眠れるものかと思ったが、小さい体を丸めながら僕の胸に顔をうずめて眠る彼女の寝息を聞くのはとても心地がよかった。巷のカップルがこうやって眠っている理由が少しは分かった気がした。
彼女の残された時間を少しでも自分が有意義な物にできるのならと思うと、治療をしていて得られるものとはまた別の充足感を感じることができた。
あと、僕たちも大人の男と女なのでそりゃあ、そういう事になることも、たまにはあった。
いや、わりとか。
彼女の体の事を考え僕からは誘わないようにしていたが、一緒にベッドに入るやいなや猛烈に甘えてくる彼女から放たれるやわらかいニオイと甘美な誘惑に、どう頑張っても抗うことはできなかった。その時も、絶対に上の服は脱ごうとしない彼女の恥じらいが、とても愛おしかった。
そして眠る前には必ず、キスをした。お互いを貪るような情熱的なものではなく、短くてシンプルなやつだ。それで充分に自分の愛を伝えられたし、伝わってもきた。
何となく、それが自分たちにとって一番理想のものである気がしていた。
彼女との生活の中で、僕は今までに感じたことのなかった幸福感を実感していたが、自分たちにいずれ必ずおとずれるであろう残酷な未来を考えてしまうと、甘い余韻に浸れずにいた。
それはきっと彼女も同じだったのだろうけど、僕たちはそれを決して口にしないようにしていた。
「お、ナントゥー」
「おはよう」
「おいおい、なんか俺に報告しなきゃならないことがあるんじゃないの?」
朝の回診時、病棟の廊下で偶然鉢合わせた瀬田が、ニヤニヤと意味深な薄ら笑いを浮かべながら、僕に寄ってきた。
「報告すること?」
一応、シラを切ってみる。
「またまたあ。水くさいぞ」
僕の肩に、手をポンとおく。本当にこういうところは学生の頃から変わっていない。
そういえば、以前彼女のことで相談に乗ってもらったことがあったなと思い出した。
――しかし、相変わらず耳ざとい。
藤村さんには伝えていたが、まさか他人に言うとは思えないし。一緒にいるところを、どこかで誰かに見られでもしたんだろうか。
――まあ、コイツには僕の口からも正直に伝えておくか。
「実は、例の子と一緒に住むようになった」
「えっ! お前::::。まじかよ::」
瀬田が度肝を抜かれたという顔をしている。
予想外のリアクションだった。
やられた、と思った。
「いやあ、最近帰るのがすごく早くなったってもっぱらの噂だったから、彼女でもできたんかって思ってたんだけど、まさかそうくるとは思わなかった。しかし思い切ったねえ!」
「まあ、成り行きでね」
「で、病態の方はどうなんだ?」
瀬田が急に神妙な面持ちとなり、シリアスなトーンで聞いてきた。
「抗がん剤が効かなくなってね。本人と話し合って、もう治療はしない事にしたよ」
「そうか::::。」
瀬田の顔が分かりやすく曇る。彼女の先がそう長くないことを案じ、心から無念に思ってくれているのが伝わった。
「でも、今はすごく調子が良くてさ。まだこれといった症状も出てないし。だから、なるべく今のうちにできることはしておこうと思って。そうだ、今度紹介させろよ」
「おお、そうだな、是非! お前の今までの失態の数々を、俺が彼女に教えてやるよ」
「::やっぱり前言撤回しようかな」
「あはは! 本当にヤバいやつはちゃんと言わないようにするからさ。また、連絡するな」
「おう」
――――ありがとうな、瀬田。
彼に伝えられて良かったと思った。
なにかが、ぼくの瞼や鼻、頬などをツンツンとついばんでくる。
チュッ、チュッと鳴きながら。
::小鳥??
まあ、いっか::
好きにしてくれ::
僕は、疲れているんだ。もう少し寝かせおくれ::
::::::
しつこい鳥だな::
::::
なんで鳥がいるの??
ゆっくりと重たい瞼を開けると、すぐそこには彼女の顔があった。
「あ、起きた! せんせいおはよ〜、チュッ」
親指、人差し指、中指を合わせてくちばしにでも見立てているのだろう、それを僕の鼻にトンと当ててくる。
「::おはよう。早いね::」
ぱさついた喉の奥から、絞り出す。
「早くないよ、もう九時だぞ〜、さあさあ起きて出かける準備をするのだ! チュッ」
今度は唇に、トン。
わかったわかった::::。
ゆっくりとベッドから起こした体は鉛のように重い。明らかに疲労がまだ取れていなかった。
医者の世界には、『当直』という業務が存在する。神様は、時間などお構いなしに病人やけが人をお作りになられるので、夜間に急病人の診察をする医者が必要となり、当番制で病院に泊まり込んでその対応を行う。
長時間労働が問題視され、国が『働き方改革』を進めている昨今において、医者の世界では最もその改革が遅れていると言えるだろう。
僕の具体的なスケジュールの一例はこんなかんじだ。
一昨日の朝七時に出勤し、七時半からのカンファレンスの後、病棟回診を行い九時から約五時間の手術を行なった。昼食にカップ麺とおにぎりをかきこみ、三時と四時からそれぞれ入院患者の家族に面談をした後、息つく暇もなく五時からの当直業務が開始する。
この大学病院の救急室には、ひっきりなしに救急車で急病人が搬送されるだけでなく、風邪をひいた人や転んだ子供など、比較的軽症な患者もたくさん受診するため、待合室は常にごった返していて、待ち時間が三時間以上になることも珍しくない。
この日も、日が変わるまで休むこと無く診療にあたり、夕食にありつけたのは午前一時前だった。患者の波が途切れれば仮眠を取れることもあるが、この日は午前の二時頃に急性虫垂炎の穿孔、すなわち『もうちょう』をこじらせて膿がお腹の中に漏れてしまっている状態の患者が救急搬送され、午前の四時から一時間半ほどの緊急手術を行なった。この時も濱田を呼び出したが、呼んでいただいてありがとうございます! と気持ちよく現れ、手術中も抜群の安定感を見せた彼は、結局執刀をすべて行なった。
術後管理もお任せください! と去り際まで完璧だった彼を見て、僕もあれぐらいの頃は疲れ知らずだったけど、もうこの年にもなると一回一回の当直で命を削られていくような疲労を感じるな、と思ったのが午前七時ごろ。
その後、七時半のカンファレンスに出て九時から外来業務開始。一睡もしていなかったしクタクタだったけど不思議と体は動いてしまう。午後の四時頃に最後の患者の診察が終わり、先生、顔が土色ですよ、早く帰って休んでください、と藤村さんに気遣われながら外来診察室を後にし、病棟業務を終わらせて帰宅したのが午後七時前だった。
二日間におよぶ激務を終え、彼女の用意してくれた食事をとってシャワーを浴びた後、明日が土曜日であることを心から感謝しながら崩れるようにベッドに入り、今に至る。
結局、十時間以上寝ていた事に気づき、よしっと気合を入れてベッドから立ち上がる。
今日は彼女と動物園に行ったあと、僕のイチオシのラーメンを食べに行く予定を立てていた。
「せんせい、わたしもう準備ばっちりだから、せんせい待ちだよ〜」
見ると化粧も服装ばっちりお出かけモードだった。
「ごめんごめん、すぐ支度するよ」
そういって洗面所に向かった。
一緒に住むようになってから、休日の空いた時間には、なるべく彼女と外出するようにしていた。
彼女の一つ目の願い事をすこしでもたくさん叶えたかったから。
嵐山、金閣寺、清水寺など、京都の名所はだいたい網羅した。彼女も幼少時代を合わせると十年以上京都に住んでいるわけだし、珍しくもないだろうと思ったが、彼女の希望だった。
あと、僕が自信をもっておすすめできる定食屋やうどん屋などもだいたい連れて行ったし、概ね彼女の評価は良かった。
本当はもっと早くにラーメン屋につれていきたかったのだが、あまりラーメンは食べないとのことだったので、つい後回しになっていた。あと、動物園は彼女のリクエストだった。
支度を終え、車で二十分ほどで動物園に到着した。土曜日であり、入口手前から家族連れで賑わっていた。大人二人分の入場券を買い、入園する。
「懐かしい〜、この動物園に来るのは、小学校の写生大会の時以来だよ」
「たしかに。僕もそうかも」
「だいたい写生大会っていったら、ここだもんね。あ、そうそう。まずはじめにライオンの檻があって、その奥にトラがいて::」
そう言って彼女がライオンの檻に向かって駆け出した。遠くからでは、中に主の姿は見えなかった。彼女が檻の貼り紙に目を通している。
「三年前に亡くなったんだ::。二十五歳で。国内最高齢だったんだって::。私とほぼ同い年だね」
こちらを向いて、ニカッと彼女が笑う。
そうだね、と返事をした。
彼女が再び、檻の近くに立てられたライオンに関する展示物を読み始めた。
「なになに::。へぇ~、おじいちゃんライオンに対して、安楽死をするかどうかっていう議論が上がったことがあったみたい。こんな高齢でしんどそうなライオンを見せ物にするのは良くないっていう、外国人からの指摘があったんだって」
「そうなんだ::」
興味深かったので、僕も展示物に目を通す。市民に安楽死をするかどうかアンケートをとり、結局賛成の意見は皆無であったため安楽死は行わず、彼は天寿を全うしたとの事だった。
「ふ~ん。安楽死したほうかいいかどうかなんて、ライオンに聞いてみないと分からないじゃんね」
「そうだね。まあ、こういう考えは文化によっても異なるからね」
「なるほどね::。じゃあせんせいは私が最期、安楽死させてほしいって言ったらどうする?」
またそんな難しいことを無邪気に聞いてきて、と思ったが、はぐらかすわけにもいかなかったので正直な意見を述べることにした。
「安楽死は日本では禁止されているからキッパリと断ります。でも、つらさを取り除ける方法はたくさんあるから、それを君と相談しながら実践していくんじゃないかな」
「そっか。やっぱり頼りになるね、せんせいは!」
彼女はそう言って、トラの檻の方に駆けていった。
檻の中で動き回るトラを目で追っている彼女に追いつき、前から聞こうと思っていた事を聞いてみる。
「そういえばさ、君ってどんな仕事しているの?」
彼女がびっくりしたように目を開いて僕の顔を見た。
「いや、言いたくなければ言わなくてもいいけど::::」
「どんな仕事だと思う?」
逆に聞いてきた。
「うーん、そこまでカリカリに忙しい職場では無さそうだし::。ケーキ屋さんとか?」
「たしかに昔なりたかったよ、ケーキ屋さん! でも、違います!」
正解を教えてくれる事を期待したが、どうやら当ててほしいのか、じっと僕を見たまま黙っていたので、もう少し考えみることにした。
「::なにか、売る仕事?」
「違います!」
「::接客業とか?」
「違います!」
「うーん::、なにかを作る仕事?」
「お、近くなったね。まあ、大きく分けるとそうかな。でも、私はあくまでもそのお手伝いだけどね」
「::分かったかも。料理人? パティシエ? あ、フラワーアレンジメントの人?」
彼女があははと笑う。
「いや、分かってないじゃん! しかも、全部違うし」
「::::答えを教えてもらっていいかな」
「諦めるのはやくない?正解は::、漫画家の先生のアシスタントでした〜」
へぇ~と返事をする。
普段漫画というものを読まない僕にとって、とても縁遠い職業だったが、その業務内容が全く想像がつかないだけにとても興味深かった。
「ということは、絵を書く仕事だよね。君、絵がうまかったんだ」
「一応、芸術系の短大でてるからね。でもまだ全然だよ。私がつかせてもらってる先生とか先輩のアシさんの足元にも及ばないよ」
「いずれは自分の作品をって思ってるの?」
「私はデビューは元から考えて無かったよ、もちろんそれを目指しているアシさんも多いんだけど。あくまでもお仕事としてやらせてもらってる感じかな」
「へえ~。じゃあ、なんか書いてみてよ」
彼女の画力がどれほどのものなのか、シンプルに興味があった。
「せんせいが私になにかお願いするなんて、めずらしい! でも、恥ずかしいな〜。そもそも、わたしは基本的には背景が担当だから::」
「まあ、そう言わずに」
そういって、僕はメモ帳とペンを渡した。
え〜と言いながらも、それらを受け取りサラサラと何かを描き始めた。僕の顔をチラチラと見ながら。
ものの六十秒ほどで、出来たといった彼女は、見たい? と僕に上目遣いで聞いてくる。
勿論とうなずくと、少し勿体ぶったあとにハイっとメモ帳を僕に見せてくれた。
いかにも漫画に出てきそうな、シュッとしたイケメンが悔しそうに目を閉じながら涙を流している絵だった。彼に抱きしめられている女性の後ろ姿もバランスよく描かれており、少し左上から見下ろされたその画角は、明らかに素人では思いつかないものだ。
吹き出しがついていて、
「僕が寄り添うから::」とのことらしい。
これをササッと描けてしまうあたり、やはりさすがはプロだなと思わせる出来だった。
「これは、うまいな::」
思わずうなった。
「ほんとに? ありがとう〜」
彼女は素直によろこんでいるようだった。ただ気になることが一つ。
「まさかとは思うけど、これは僕では無いよね?」
一応聞いてみた。
「もう、分かってるくせに〜。どっからどう見ても、名東健一じゃない!」
「::僕は、君の目にはこんなに男前に映っているのかい?」
「ううん、せいせいの格好良さは、こんなんじゃ表せられないよ」
「それはどうも。後、このセリフは::」
身に覚えが無いわけでも無かったので、それ以上は何も言わないことにした。
「だって、すごく嬉しかったんだも〜ん!」
そう言って、ぼくの腕に彼女が抱きついてきた。
その後僕たちは手をつないで、動物園を一周した。
ゾウやキリン、ペンギン、ダチョウ、猿などを見て回ったがその都度、おっきい〜とか、かわいい〜とか、近くで見るとちょっと不気味だね〜、とか素直な感想を楽しそうに述べていた。
昼前に動物園を後にした僕らは、ラーメン屋に向かった。僕が間違いなく京都一だとみんなに言って回っているこの店のラーメンは、いわゆる京都ラーメンといわれている豚骨醤油を主体としたスープに、豚の背脂ををまぶした「背脂チャッチャ系」に属するものだ。希望すればスープの表面が真っ赤になるくらいに一味をまぶしてくれる。
店につくと三組ほどが列を作っていたが、十五分も待つと店に入ることが出来た。
僕はラーメン大盛りの一味たっぷりのせ(ツウはこれを紅とオーダーする)を、彼女は並を注文した。
「この店は僕が中学生の時にできたんだけど、あまりに美味しくて瞬く間に人気店になったんだ。映画のモデルにもなったこともあるんだよ」
「へえ、そうなんだ~」
お世辞にもきれいとは言えない店内を、彼女がキョロキョロと見回している。
壁には、愛妻弁当持ち込み大歓迎!という謎の貼り紙がされている。これは、もう二十年以上前からだ
「この店の初代店主がだいぶ前に亡くなってね。その時に一度、味がガタッと落ちたんだ。客足も遠のくようになって、ああこの店ももう終わりかなって思ったんだけど、そこから今の店主が腐ること無く、なんとか元の味に近づけるようにって、夜な夜な研究を重ねてさ。それが今では以前を上回る人気店に返り咲いたってわけなんだよ」
「へぇ~すごい。詳しいね、せんせい。今の店主さんと仲が良いの?」
「それがさ、今の店主になってもうかれこれ二十年近く通ってるんだけど、まだ一度も話したことないんだよ。なんだかおっかなくてさ」
「なにそれ、おもしろい~」
彼女がケラケラと笑う。
「はいお待ち」
ラーメンがテーブルの上に運ばれてきた。
「うわあ、せんせいのラーメン真っ赤っ赤だよ。辛いの大丈夫だっけ?」
「そう思うだろ? ここのラーメンは、その一味と背脂の多さに初めはみんな度肝を抜かれるんだけど、食べてみると不思議なことに全然辛くないし、脂っこくもなくて、ついスープも全部飲み干しちゃうんだよ、さ食べて」
「うん、いただきます」
手を合わせて、彼女がスープをレンゲで口に運ぶ。
「ん! ほんとだ、意外とアッサリしてるね」
「だろう? このスープがまた、ここのストレート麺と相性が抜群でさ。もう何もかもが計算され尽くしているんだよ」
僕もスープをいただく。
――あぁ、これこれ。うまいなぁ。
僕は隣に彼女がいることも忘れて、夢中でラーメンを貪るように食べた。スープを飲み干しても、罪悪感など微塵も感じないくらいにただただ旨かった。隣をみると彼女がニコニコうれしそうに、僕を見ていた。
「どうしたん?」
「こんなに嬉しそうで饒舌なせんせいを見たのははじめてだな〜と思って。そしたらこっちまで嬉しくなってきたの」
ついついテンションが上がりすぎてしまっていたことに気づき、すこし恥ずかしくなった。
「あと、ラーメンもとっても美味しいよ。せんせい、連れてきてくれてありがとう」
彼女の笑顔と、そのちょっと甘えた口調がとても可愛らしかったので、僕は思わず目をそらしてしまった。
駄目だ、こういうところで経験の少なさが出るなと思った。
「こちらこそ。ゆっくり食べて」
僕はそう言って、彼女がゆっくりラーメンを食べるのを見守った。
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