遺伝性の癌

彼女の新しい治療を始めてから、二カ月が過ぎようとしていた。


 それまでに合計四回の点滴加療を行なってきたが、幸いにも強い副作用は起きずに経過していた。


 治療開始後、初めての効果判定のCTをとり終え、彼女は外来の待合室で僕に呼び入れられるのを待っていた。体の調子も良さそうだし、薬も効果を示しているだろうと思いながら画像を確認した僕は、全身からサッと血の気が引くのを感じた。


 病気が著しく進行していたのだ。


 大腸の腫瘍も、肺や肝臓に転移した腫瘍も、前回と比較して格段に大きくなっていた。


――そんな馬鹿な


 他の患者の画像を見ているのかと思った。何かの間違いであってほしいと願ったが、やはりそれは今日、撮像した彼女の画像であった。


 僕のただならぬ様子を察知した藤村さんが、おそるおそる聞いてきた。


「先生? 坂木さんの結果、良くなかったの::?」


 良くなかったも何も、最悪です::。という言葉を飲み込み、うなずく。


 藤村さんは、気まずそうにうつむいた。


 実質、今の抗がん剤はほとんど効果が無いと考えられた。まさかこの状況がこんなに早く来るとは思わなかった。


――どうやって彼女に説明するべきか::。


 少しの間考えてみたが結局答えが出せなかった僕は、大きく深呼吸をして彼女を呼び入れた。


「こんにちは、先生」


 いつもどおりの明るい調子だった。


「こんにちは、調子はどう?」


「う~ん、じつはちょっと食欲がないんだよね、抗がん剤の副作用なのかな。今まではわりと食べられてたんだけど」


「::そうか」


「あれ、なんか暗いね。ひょっとして、CTの結果があんまり良くなかった?」


 確かに今の僕の顔を見れば、誰だって結果が思わしくなかった事くらい、すぐに分かるだろう。それくらいに、取り繕う余裕が無かった。


一息ついて僕は彼女に告げた。


「実はね、新しい抗がん剤を始める前と比べて、腫瘍が少し大きくなっているんだ」


 咄嗟に少し、と嘘をついてしまった自分の半端さがつくづく嫌になる。


「そっか::」


「大腸の腫瘍だけではなくて、肺や肝臓に転移している腫瘍も、大きくなっているんだ::」


「::ということは、もう今の抗がん剤が効かなくなっているって事だよね?」


 その通りだったが::::


「まだ、完全にそうとは言い切れない。薬の組み合わせを少し変えれば、また前の抗がん剤のように::」


「先生」


 彼女が遮る。


「先生、正直に言って。もう、今の薬は続けても意味がないってことだよね?」


 彼女の力強い目力におされ、僕は観念する。


「そうかもしれない」


 彼女が、しずかに天を仰ぐ。


「いやぁ、意外と早かったね::」


「でも、まだ次の薬がある」


 彼女の気が変わっていることを期待してそう言ったが、彼女は大きくゆっくり首を振った。


「もう決めてるから。これ以上、新しい治療はしないって」


 黙ってしまった僕をみて彼女は困ったように笑った。


「先生またそんな顔して〜。これからの事、色々と考えていかないとね。今後治療をしなくなっても、先生が私を診ていってくれるの?」


「もちろんだよ::」


「うん、じゃあ安心だ! あ~、ちょっと気分転換に今から買い物にでも行ってこようかな。先生、今日は一旦退散するね!」


 そう言うと彼女は診察室から出ていった。


 僕は彼女に慰めの一言もかけられない自分の不甲斐なさに、嫌気がさしていた。




 その日の外来診療をすべて終え、携帯電話を見ると彼女から、


『今日は鴨川ランチは無しで! あと、夜空いてる?』


 とメッセージが来ていた。


 一刻も早く彼女と話がしたかった僕は、空いてると答えると、


『じゃあ、二十時にいつものベンチで待ってるね』


 と返信がきた。


 分かった、返信し僕は残りの業務にかかった。


 病棟の業務を終え、時計を見るとまだ七時過ぎだったが、僕はいてもたってもいられず鴨川の河川敷にでた。とっくの前に日は落ちたようで、外は真っ暗だった。


 冬の到来を間近にひかえた、晩秋のかわいた風の匂いを感じ、時が経つのは本当にはやいなと思う。いつものベンチに腰を掛け、彼女のことを考えていた。


 初めて救急室で出会ったときのこと。


 手術をした後のこと。


 抗がん剤を始めたときのこと。


 副作用の肺炎で入院したときのこと。


 貴船に行ったこと。


 新しい抗がん剤をはじめたときのこと。


 そして今日、その治療の効果が無かったと分かったこと。


 いつもどんな時も彼女はすごく物分りがよかったし、落ち着いていた。こんなに若い進行がん患者を担当したことが今までなかったので、僕に主治医が務まるのか不安だったが、そんな彼女の おかげで今までスムーズに診療を行うことができてきた。


 今から考えれば、それは彼女の気遣いや我慢強さに僕が甘えていただけなのかもしれないと思った。


 癌に命を削られていく恐怖や、抗がん剤治療の副作用の辛さは当事者にしか理解できないものだ。どれだけ沢山の患者の診療にあたってきたとしても、患者からすれば医者なんて所詮ひとごとでしょう、と言われても仕方がない。


 でも彼女はそんな恐怖や辛さを表に出すことなく、またそれらに対して苛立ちを見せることも無く、常に明るく振舞ってきたのだ。


----------本当にすごい子だ。


 今更ながらそう思い、鼻の奥がつんと熱くなる。


―――――駄目だ、僕が泣いてどうする。彼女の前で泣くつもりか?


 そんな風に自問自答をしていると、彼女がこちらに向かって来るのが見えた。



「先生、忙しいのにごめんね」


 彼女の目が少し腫れていた。僕は気づかないふりをして、


「今日は仕事が少なかったから、大丈夫だよ」と返した。


 彼女が僕の横に腰掛ける。


 いつもなら彼女が話し始め、それに僕が答えていた。無意識のうちに彼女の一言目を待っていたが、彼女はずっと黙っていた。


 二人の間に流れた気まずい空気をかき消すように、


「大丈夫?」と聞くと、彼女はいつものように笑って


「うん、大丈夫だよ」と返した。


 少し間が空いて、彼女が話し出した。


「でも、正直今日の結果はちょっとショックだったなあ。いつかこの時が来るっていうのは分かってたけど、こんなに早いとは思ってなかったから」


 本当にその通りだと思った。


「自分の病気のこと、ちゃんと受け入れられている気がしてたけど、いざとなるとやっぱりそう簡単にはいかないね。やっぱり私は弱いなあ::::」


「::::君は強いよ」


――僕が今までで診てきたどの患者にも負けないくらい。


「::::ありがとう」


 彼女がそうささやく。


 またしばらく間が空いて、彼女が口を開いた。


「私、今まで誰にも言ったことが無かったんだけど::。実は、お母さんも大腸癌だったんだ」


 はっとした。


 同時にしまったと思った。


 彼女のような若い癌患者は、遺伝性の癌であることが多い。この病気の患者は、癌の発生を抑制する機能もつ遺伝子が生まれながらに欠損していることが原因で、若い時に発癌してしまうといわれている。そしてその欠損は親から遺伝する。すなわち、彼女のお母さんも遺伝性の癌を若くして発症し、彼女にもその遺伝子が受け継がれたということだ。


 遺伝性の癌かどうかで治療方針が変わることはなかったが、家族歴は患者背景として最低限、知っておくべき事項だ。


 つくづく自分の至らなさが嫌になる。


 彼女が続ける。


「私が中学生の時にお母さんの病気が見つかって、その時にはすでに全身に転移していたの。それで私を養うために仕事をしながら、抗がん剤の治療を頑張ってた。すごくしんどそうだったけど、お母さんが私の前で弱音を吐くことは一回もなかった::::」


「君の強さは、お母さん譲りなんだね」


 彼女は首を振った。


「ううん。私なんかよりずっと強い人だった。実は私が小学生の時にお父さんとお母さんは離婚したの。原因はお母さんの浮気で、まあそれは自業自得なんだろうけど」


彼女は苦笑いしながらつづける


「それでわたしには双子の姉がいてね。離婚した後、どっちに付いていくかってなった時に、姉は迷わずお父さんを選んだの。お父さん以外の人と仲よくするお母さんなんて、気持ち悪いって言って。姉は性格が私と全然違うくて、とにかくしっかりしていた。だからどうしてもお母さんの事が許せなかったみたい。でも私は、他の人の事が好きになっちゃったんなら仕方ないじゃないって思っちゃって」


「君らしい素直な考えだね」


 彼女が頷いて、続ける。


「それに何より、このまま私までお父さんの方に行ったら、お母さんがあまりにも可哀想だと思って結局、お母さんについていく事にしたの。その時の姉の怒りようったら無かったよ。信じられない、もう二度と顔も見たくないって言われてさ」


「本当に君と性格が全然違ったんだね」


「うん。一卵性双生児だったから、昔から見た目とか仕草とか声はそっくりだって言われてたんだけどね。それで、私とお母さんはそれまで住んでいた京都から、逃げるようにお母さんの実家がある島根に帰ったんだ。でも名字は坂木のまま変えることは無かった。それに関してあまり深く考えた事はなかったけど、今考えたらそれも私のためだったんだと思う」


「そうだったんだね。それからもうお父さんやお姉さんには会ってないの?」


「うん、姉には何度か連絡は試みてみたんだけど、返事は返ってこなかった。完全に絶縁状態。今どこで何してるかも分からないんだ。でも、どうやら今も京都に住んでるってことは風のうわさで聞いたことはあるんだけどね」


「::そうか」


「それで、お母さんは癌が見つかってから二年後に亡くなったの。最初はずっと二週間に一回、抗がん剤の点滴を受けに病院に行ってた。その後一年ちょっとして、抗がん剤が飲み薬に変わって、最後は緩和医療に移行して::::」


「::きっと君と同じ治療を受けていたんだろうね」


「そうだと思う。私も実際に抗がん剤治療を受けてみて、やっぱり本当にお母さんはすごいなって思ったよ。だって、本当にしんどいんだよ、副作用って! 先生には平気なフリしてたけど、点滴した二日後くらいからすご~く体がだるくなってきて、その後からムカムカが一週間続くの。ちゃんとご飯は食べなきゃいけないなって思って、なんとか食べやすいものを口にするんだけど、やっぱりもどしちゃうこともあって。あと、最初の薬はとにかく痺れがやばかった! 両手が一日中じんじんしてさ~。最後の方なんか、ボタンかけるのも一苦労だったんだよ。今ではずいぶんマシになったけどね。あとは、口内炎!多いときなんか一気に十個以上できて、喉にもできるから飲み込むたびに痛くて、もう訳わかんなくなって、逆に笑っちゃったもん。でも、こんなにしんどいのにお母さんは仕事をしながら私の面倒を見てくれてたんだなって思うと、弱音を吐いちゃいけないなって思って::」


::::言ってくれたら良かったのに。


 僕は小さく呟いた。


「だって、私が辛いって言ったらきっと先生の眉毛がまた::::、先生::?」


 彼女が話すのをやめた。僕の顔を不安そうな顔で見つめていた。


「先生::、大丈夫::?」


 えっ? そういうのがやっとだった。


 こらえられなかった。


 自分の顔がゆがみ、目からとめどなく涙が流れ出るのが分かった。


 自分でも信じられなかった。


 病気を知ったときも、抗がん剤治療を始める前に説明を受けたときも、そして治療を始めてからも彼女がうろたえたり、不安を吐露することは決して無かった。そして人知れずつらい副作用に耐え続け、決して弱音を吐いたり、治療から逃げ出すことも無かった。それは、癌と闘い続ける母親を間近で見てきたから。そんな母親のように強く有りたかったから。そして僕に負担をかけたく無かったからだった。


 後先の事をあまり深く考え過ぎない、底抜けに明るい子。ずっと彼女のことをそう思っていたけど、そうじゃなかった。病気の事も、治療の事も、そして自分がいずれ迎えるであろう最期の事も、彼女はすべて知っていた。その上で、彼女は自分の運命を受け入れ、常に自分らしくあろうとしていた。


 それが分かり、彼女の強さ、聡明さ、そして健気さに打ちのめされたような気がして、涙が止まらなかった。


「ごめん::、ごめん::。僕は、君のことを何もわかっていなかった::。君は、全部わかっていたんだな::。それなのに僕は::」


 嗚咽しながらそう言った僕の肩を、彼女がそっと優しく抱いてくれた。


「先生?」


 僕は呼吸をするのがやっとで、返事が出来なかった。


「私が今まで頑張れたのは、先生だったからだよ。はじめて救急室で先生を見たとき、こんなに素敵な人が私の先生になってくれるんだ、って思ったもん。先生は本当にキラキラしていて、絶対に私の運命の人だって::。抗がん剤治療も、先生と一緒なら絶対に頑張れるし、先生の言う通りにしたら、絶対大丈夫だって思ったもん」


 僕は頷きながら、なんとか嗚咽を止めようとしたが、まだ時間がかかりそうだった。


「それに何度も言っているけど、私いま幸せだよ。二週間に一回、大好きな先生と一緒にランチもできて、貴船も連れて行ってもらえて。病気にならなかったら、絶対に経験できなかった事だよ」


 僕は、知らず知らず彼女を抱きしめていた。


「抗がん剤治療はもう終わっちゃうけど;;、まだ私の闘病はこれからだし、不安な事だらけだけど::、先生と一緒なら怖くないよ::::」


 彼女を抱く腕の力を緩め、彼女の顔を見た。


 目は真っ赤に充血していた。


 彼女に対する愛おしさが僕の胸を埋め尽くしていくのが分かった。


「僕が::、最期まで寄り添うから::」


 そう言うと、瞬く間に彼女の顔が涙でくしゃくしゃになった。うんと頷く。


 僕は彼女にキスをした。


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