わからない、、、

 貴船に行った次の週から、彼女の新しい抗がん剤治療を開始した。新しいと言っても、以前の抗がん剤と内容は非常によく似ていて、二週間に一回、六時間の点滴で投与するという点は変わらなかった。ただ副作用が前回のものとやや異なり、今回は口内炎や下痢が彼女を苦しませた。それでも彼女は今までと同じように決して弱音を吐くことはなく、健気に治療を受け続けた。今回の薬剤では、深刻な白血球減少が起きていなかったのはせめてもの救いだった。


 彼女の強い希望により、治療後の鴨川での食事は続けていた。いつも彼女が話題を提供してくれ、僕がそれに対して相槌をうつ。


 彼女が、そういえば私いまモテ期なんだよね~と、二回目の治療が終わった後、僕に言ってきた事があった。


「この前さ、うちの職場に出入りしている男性に食事さそわれたんだ」


「いいじゃない」


 そりゃあ、きみは可愛くて性格も抜群にいい。モテないはずがないだろうと思いながら続きを聞く。


「そうそう、わりとイケメンで背も高いんだよ。まあ食事くらいは行ってみてもいいかなって一瞬思ったんだけど、ああ駄目だ、わたし病気なんだったって思い出してさ」


「うん」


、、、なんだろうか、別に嫉妬をしているつもりは無かったが、面白くなく感じているのも事実だった。



「かと言ってうやむやにするのも嫌だったから、キッパリ断ったんだ。他に好きな人がいるので、ごめんなさいって。そしたら彼すごいんだよ、もし少しでもチャンスがあるなら、一回食事だけでもって、食い下がってきたの」


「ガッツあるね。よっぽど君の事が好きなんだろう」


「ね、こんな私のどこがいいんだろうって思って。ちょっと嬉しかったんだけど、もうこれ以上は誤魔化せないと思ったから、真実を伝えたんだよ」


「なんて?」


「私の体の中には大変な病気ができていて、一年先まで生きてる保証がないって。だからやめておいたほうがいいよって」


 彼女がうつむき気味に、ハハと笑いながらつぶやく。


「それはまた、思い切ったね。そしたら?」


「そしたらすごく複雑そうな顔をして、分かったって行っちゃった。おそらく信じてない感じだったよ」


 それはそうだろうな、と思った。


 彼女のような一見極めて健康そうな若い女性がまさか癌の治療をうけているとは、思いもしないだろう。


「そんな無茶なウソをついてまで、僕と遊びに行くのを断りたいんだなって思ったんだろうな」


「そんな顔だったね~。ちょっと勿体なかったかな」


 一度デートにでも行ってみれば良かったのに、とはとても言えなかった。


「変な女だと思われただろうな~。でもその後もチラホラ好意を伝えて来てくれる人が、何人かいてさ」


「すごいね」 


「本当、MMK(モテてモテて困る)っていうのは、今の私のためにある言葉だよ。なんで病気になってからモテ期くるかなあ」


 よくそんな昔の言葉を知っているなと思った。


 病気がなければ彼女は普通に異性と恋をして、デートもしていただろう。その後いくつかの交際と別れを経て、最終的に運命の人と結婚して、家庭を築いて。そんな当たり前に与えられるべき幸せを彼女から奪ってしまった癌を、今更ながら憎い思った。


「あ、またそんな難しい顔して~」


 はっと我に返り、咄嗟に作り笑顔を顔に貼り付ける。


「先生は、私が不幸だと思ってるかもしれないけど、それは私にすごく失礼だよ!」


今までにない口調の強さにびっくりした。むぅーと頬を膨らませている。


「::::ごめん」


「前にも言ったと思うけど私、今幸せだよ。病気にならなければ出来なかった経験とか考え方とかがいっぱいできて、これはこれでありかなって思ってるのに。先生がそんな顔したらあれ、私間違ってるのかなって思っちゃうじゃない!」


 本当にその通りだと思った。


 僕がしけた顔をして彼女を不安にさせてるようでは、本末転倒甚だしい。


 あーと大声をあげ、自分の頬を両手でパチンと強く叩いて僕は立ち上がった。


「ほんとそうだな! ごめん!」


 ビックリした顔でぼくを見る彼女に向かってこう言った。


「これからも君の診療は僕がしっかりしていくから、大船にのったつもりでいてほしい!」


 彼女はふわりと微笑むと、うんとだけ言った。
























「おい、名東先生よ、もう我慢ならん::::。痛くて痛くて気が狂いそうだ::。殺してくれ::、なあおい::。もう、殺してくれええ!!!」




 病棟の看護師に、患者さんが暴れているのですぐに来てくださいとコールがあり、急いでかけつけた僕に、怒声が降り注ぐ。




「永家さん、落ち着いてください! すぐに痛み止めを追加で投与しますので、一旦横になりましょう!」




「うるさい! その痛み止めが効いてないから、こんな辛い思いをしとるんだろうが! あんたはいつもそうだ::、今まで黙っていたが、あんたは全く患者の気持ちを分かっていない! 分かろうとしていない! ころせ! ころしてくれ〜!」




 目が血走り、口角からは大量の唾液がこぼれている。ベッドの上で立ち上がる彼の体を抑えようとする僕や男性看護師の腕を、振りほどこうと半狂乱になっている。




 完全に我を忘れているようだった。このような彼を見たのは始めてだった。




「駄目だ、このままでは危険すぎる。ジアゼパム筋注準備して!」




「はい!」




 看護師が急いで持ってきた注射を、彼の大腿部に注射した。




大暴れしていた彼の動きが徐々に緩徐になり、ベッドの上でストンと腰掛けるような体勢になった。




「よし、今のうちに抑制しよう」




 やむを得ず、彼の四肢を拘束することとなった。












 永家さんは私立の小学校の校長先生をしていた。外来に来る時も必ず正装で現われ、常に礼節を保っていた。彼は約二年前、六十歳の頃に皮膚が黄色くなる黄疸という症状が急に出てきたため、家の近くの総合病院で精査をしたところ、膵臓に癌ができているのが見つかった。幸いにも他の臓器への転移を疑う所見は認められず、手術加療のために当院に紹介され、僕が執刀を行なった。




 十時間以上におよぶ大手術だったが、合併症なく無事に終わりその後の経過も良好で、術後三週間足らずで元気に退院していった。




 その後、一ヶ月に一度、再発なく経過しているかどうか外来でフォローをしていたのだが、手術をして半年後のCT検査で、肺や肝臓に癌の再発を認めたのだ。




 彼は僕の告知を取り乱すことなく受け止め、抗がん剤治療を希望された。しかし辛い抗がん剤治療の甲斐なく、腫瘍は著しい速度で進行し続け、強い痛みが彼の体力を奪っていった。




 これ以上の治療継続は困難と判断し、緩和医療を行っていく方針として本人の同意を得た上で、今回入院となったのだ。












「先生::::」




 うっすらと目を開け、ベッドの上で仰向けのまま手足を拘束された永家さんがつぶやいた。




「永家さん、気が付かれましたか? 痛みはどうですか?」




「だいぶ落ち着いています::。さっきは失礼な事を::::」




 いつもの永家さんのようだった。多量の鎮痛剤を使った効果でているようだ。




「いえ、痛みが我慢できないレベルになると、誰もが混乱してしまうものです。この入院中にしっかり疼痛コントロールを::」




「先生::、一度家に帰らせてもられませんか」




「::」




「先生にはすごく感謝しています。手術で膵臓の癌を取ってもらえたからこそ、まだ私は生きていられる。そして先生のおっしゃる通りにしていれば後悔しないだろうと思って、今まで治療を頑張ってきました。でも、今回だけは自分の意志を尊重したいんです」




「しかし、今の状態で、家にお帰りになっても::」




「おっしゃりたい事はよく分かります::、それでも帰りたいんです」




「::」




「患者っていうのはね、本当に弱い存在なんです。小学校で偉そうな顔をしてきた私も、病気の前ではあまりにも無力でした。だから、患者はお医者さんにすべてを委ねるしかないんです。先生は今までも私に、色々な治療の選択肢を示してきてくださった。その上で私が自分で判断して、治療方針を選択してきたと、先生はお考えでしょう?」




「ええ::」




 彼は穏やかに微笑み、天井を見つめながら続ける。




「でもそれは間違いです。私は先生の顔色を見て、話し方を聞いて、どの選択が一番いいと思っておられるかを考えて、その選択肢を選んできました。それが、一番いい結果につながると信じて。私のような患者はきっと少なくないはずです」




「::::」




「でも、今回だけは先生のお考えに反してでも、すぐに自宅に帰りたい。たとえそれが結果として私の命を縮める事になったとしてもです」




 何も返事できなかった。




 これ以上彼を引き止めるのは不可能だと思った。なにか変わったことがあればまたすぐに受診するように繰り返し説明する僕に、今までお世話になりましたと深々と頭を下げ、彼は退院していった。








 次の日の朝、彼がマンションの自室で首つり自殺を図ったと彼の奥さんから連絡があった。




 彼女は僕の判断を咎める事無く、今までの事を感謝してくれた。




 遺書にも僕への謝意が記されていたそうだ。








 やるせなかった。




 いままで経験をかさね、ようやく癌との向き合い方を少し分かってきたつもりでいたが、また振り出しに戻った気がした。




――あの子なら、なんて言うだろう。いつもの笑顔で、僕の選択は間違っていなかったと慰めてくれるだろうか::::。




早く彼女に会いたかった。


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