ホタルと癌

「坂木さん、調子はどう?」


 彼女に尋ねる。


 僕たちはいつもの鴨川の河川敷のベンチで向かいあって座っていた。


 桜が満開に咲いている。


 眠たくなるほどに心地よい春の日差しが彼女の白い顔を照り付け、まぶしそうに眼を細めた。


「うん、大丈夫。変わったことはないよ」


 いつものように僕を安心させる、彼女の返事。


「良かった。そしたら、今日も抗がん剤の治療を頑張って」


 僕も、いつもと同じように声をかける。


「うん頑張るね。あ、ねえ先生?」


「ん?」


「このまま抗がん剤治療をずっと頑張ったその先に、明るい未来はあると思う?」


::::え?


「二週間に一回、仕事を休んで朝から夕方まで病院で点滴の治療を受けてさ。二日後くらいから体がだるくなって食欲も減ってきて、だいたい五日目くらいがピークかな。その後、一週間かけて少しずつ楽になってきて、やっと体が元の調子に戻ったかなって思ったら、もう次の抗がん剤の日になっちゃうんだよね」


「::::」


「しかも、こんなに頑張ってるのに癌はおそらく消えることはなくて、いつかは薬が効かなくなって、次の新しい薬に変えても結局は同じ事の繰り返し。それじゃあ何のために辛い治療を頑張ってるのか、分からないんだよ」



 すぐに彼女が言っている事が理解できず、自分の聞き間違いではと、知らず知らず落としていた目線を彼女の顔に戻した。


 穏やかな風が、彼女の肩にかかった髪をなびかせる。彼女はいつも通りに優しく微笑んでいる。


「先生は何のために私の治療をしているの? 私を少しでも長生きさせるため? 私が悔いを残さないようにするため? それとも治療ガイドラインで決められているから、なんとなくその通りにしているだけ?」


 口を開こうとするが、言葉が出てこない。


 僕は、散った桜の花びらが流されていく鴨川の水面に再び視線を落とすことしかできなかった。


「私は何を目標にして生きていけばいいと思う? 幸せな家庭? やりがいのある仕事? どっちもどう考えても無理だよね。結局、癌に体力を奪われてどんどん衰弱していって、今までできていた事が一つずつできなくなっていって::::。最後は自分でトイレにも行けなくなって、やりたいことが何もできないまま最期をむかえる。どう、あってる? それくらいは私にだって分かるよ」


 体の芯が、チリチリと熱くなって背中の方に広がっていく感じ。


 子供の頃に、学校の教師に予期せぬ叱責を受けた時に感じた緊迫感とよく似ていた。


「あ、先生また困ってる~」


 うつむく僕の顔を覗き込み、アハハと彼女が笑う。


「こんな事、今まで他の患者さんに聞かれたこと無かった? でも、先生の患者さんはきっと、みんな同じ事思ってるよ。先生を困らせたくないから、他の患者さんの迷惑になりたくないから言ってこなかっただけ」


 もはや言葉を発する意思は、僕の中から完全に消えていた。


「ねえ、先生?」


 彼女が僕の右手を両手で包み込むように握った。


「それでも先生は、まだ私に抗がん剤を頑張れって言える?」


 彼女の声が震えている。


 畏れながら、彼女を見た。


 彼女は泣いていた。


「私がもし先生の大切な人だったら、今と同じことが言える? 教えてよ::ねえ、先生。私は、これからどうすればいいの? わたしは::::」


 目が覚めた。が、今までのやり取りが現実では無かったとすぐには認識できなかった。全力疾走の直後のようにめまぐるしく血液を拍出する心臓を落ち着かせるのに、かなりの時間がかかった。


 夢での彼女の声、表情、手のぬくもり。すべてが強烈に現実的で、彼女の発した一言一句が頭にこべりついて離れなかった。


 時計を見る。午前五時十八分。


 もう一度眠れそうにはないと思い、ゆっくりと洗面台に向かい顔を洗う。


 今日は彼女が外来に来る日だった。


 僕は火曜日と金曜日、週に二回外来業務を行っている。この大学病院には、市内だけでなく周りの都道府県の医療機関からも様々な患者が紹介されて受診にやってくる。そして僕たち外科医は、基本的には手術をして治療を行うのだがそれだけではない。病気が癌であろうと無かろうと、手術後の経過が順調かどうか外来でフォローを行っていき、手術で癌が取り切れなかった人や、術後に癌が再発してしまった人に対しては、彼女と同じように抗がん剤治療を行っている。


 僕の外来では、全部で約四十人の患者さんに対して抗がん剤治療を行っていた。


 食道癌、胃癌、大腸癌、膵癌、胆管癌など疾患は多岐にわたり、それぞれに対してしっかりとした治療ガイドラインが定められているので、基本的にはそれに準じて治療を行っていく。


 残念ながら今の医療レベルでは、これらの癌を抗がん剤で消し去ることはできず、少しでも腫瘍を小さくしたり発育を遅らせる事が目標となる。


 今日も十人の患者が僕の外来で、抗がん剤投与予定だった。先月から進行性の膵癌に対して治療を始めたばかりの人もいれば、術後の再発性胃癌に対してかれこれ四年以上治療を続けている人もいて、疾患も治療期間もそれぞれ異なっていたが、辛い副作用に耐えながら癌とたたかっているという点は皆、一様だった。


「先生は、どうして私の癌を治療しているの?」


 夢で彼女が僕に投げかけた言葉が、頭をよぎる。治療の理由を考えた事は今まで無かった。


 辛い治療の先に待っているのは避けようのない、病気による死。


 それは実際、彼女の言った通りだ。


 それなら抗がん剤治療はせずに、残された時間を副作用に苦しむことなく自由に過ごすという選択肢を、もっと強く勧めても良かったのではないのか:::。


 もちろん答えなどすぐに出るはずもなく、心のなかに大きなわだかまりを残したまま、僕はいつものように午前九時前に一人目の患者を診察室に呼び入れた。


 僕の心のもやもやとは裏腹に、外来業務は順調に進んだ。抗がん剤治療を受ける患者はみな大きな変わりはなく、予定通り治療が行えた。幸いにも治療やめたいとか、なぜ治療をするのかなどと言われることも無かった。


 この日も、彼女の診察は最後だった。午後四時過ぎ、彼女を呼び入れる。


「先生、こんにちは!」


 いつと通りのハツラツとした彼女だった。


 心無しか、いつもより濃いめの化粧を施しているようで、特に頬に塗られたピンクのチークが際立っていた。七分袖の少し大きめの真っ白なシャツに、下に行くにつれスソが太くなっていくタイプのデニム生地のズボン(どうやらワイドパンツというらしい)を合わせ、ブランドロゴが大きく入ったクリーム色のキャップを被っている。どうやら、これが彼女の勝負コーデのひとつのようだった。


「こんにちは、坂木さん。この二週間変わったことは無かった?」


「うん、先生に言われた通り仕事も休んで、なるべく外出もしないようにしていたからもう、暇で暇で」


 僕は、よくできましたの意味合いを込めてうなずいた。


「そのおかげで、ちゃんと白血球の数値も元通りに戻っていたよ」


「よかった~。それじゃあ、今日は予定通り行けそうだね!」


「そうだね」


「じゃあ、七時にいつものところで」


 彼女は僕の耳元でそうつぶやくと、足取り軽く診察室を出ていった。


 夢での彼女みたいな事を突然言い出したりしないかと少し心配していたが、いつも通りの彼女でほっとした。


「先生、今日はいつもの鴨川デートじゃなくて、どこか別の場所に彼女を連れて行ってあげるんですか?」


 藤村さんが小声で聞いてくる。


「まあ、そんなところです」


 藤村さんには僕と彼女の会話はいつも筒抜けだったので、隠さず正直に話すようにしていた。


「いやぁ、良いですね先生〜、あんな若くて可愛い女の子とデートなんて。先生に見てもらうために一生懸命お洒落してきて。ほんと健気ね::::」


 目を細めながら彼女がそう言う。


「あの::、この事はどうか内密に::」


「もちろんです。患者さんの個人情報を他人に漏らすなんてこと、絶対にしませんわよ」


「助かります」


「さあ、くっちゃべってないで、はやく仕事を終わらせて!」


 藤村さんが大きな体を揺らしながらパンパンを手を叩いて、僕に急ぐよう促す。


 ホホホと笑いながら。


 やっぱりこの人にはかなわないと思った。



 僕は実に効率よく病棟業務を終え、約束通り七時少し前にいつものベンチに向かうと、すでに彼女が座って待っていた。


「お待たせ」


「先生、おつかれさま。藤村さんにはなにか言われた?」


「うん、すべてお見通しだったよ」


「えぇ、そうなんだ!じゃあ、コソコソする必要なかったね。あぁ貴船、楽しみだなぁ」


 大きく伸びをしてそう言うと彼女が立ち上がった。


「それじゃいこうか」


「うん」


 僕らは並んで、鴨川の河川敷を北に向かって歩いた。ここからだとだいたい十分ほどで出町柳駅につく。


――本当にいつぶりだろうか、こんなに早く病院を出るのは。


 日が出ている間に仕事を終えた記憶など、もう何年も無かった。タンクトップ姿のランナーとすれ違う。年齢は五十を超えていそうだったが、全く無駄のないフォームで走り去っていった。


 日はほとんど沈みかけていて、鴨川を紅くそめていた夕焼けはもうすぐ暗闇にのみこまれそうだった。そういえば、大学時代に部活でいやというほどこの河川敷でランニングをしたな。あの時はあの時で色々な悩みがあった気もするが、今考えると本当に何にも考えずに毎日過ごしていたな、と思う。


「先生?」


 早足にならないよう、彼女に歩幅を合わせながら少しぎこちなく歩いていた僕に、彼女が声をかける。


「どうした?」


「貴船ってさあ、旬は夏だよね」


「川床はだいたい五月から九月末までやっているところが多いみたいだから、まあ一番にぎわうのは夏だろうな」


 この前、貴船について少し勉強しておいて良かった。


「今回、副作用のせいで薬が続けられなくなって正直ショック受けたりもしたけど、そのおかげでこうやって一番タイムリーな時期に貴船に行けるって思ったら、悪いことばっかりでも無いかなって思えるんだ」


 そこまで楽しみにしてもらえたら連れて行きがいがあると思いながら、歩幅を合わす。


「確かにあと二ヶ月遅かったら、来年までお預けになってたもんな」


「そうだよ、その時にまだ私が生きてるかどうか、分からないもんね」


 こら、縁起でも無いことを!という意味をこめて、ジーと睨みつける。


「まあ、次の抗がん剤治療もがんばるからさ。応援してよね」


 と彼女は少しバツが悪そうに笑った。


「うん。次の薬も、体に合えばすごくよく効くから、がんばろうな」


 そう言っている途中で、夢での彼女とのやり取りを思い出してしまい、知らず知らず語気が弱まっていた。


 彼女はそんな僕の気持ちなどつゆ知らず、がんばるよと無邪気に返事をしてくれた。


 そんなやり取りをしている間に、出町柳駅に到着した。ここから叡山電車に三十分ほど揺られて貴船口駅に向かい、そこからバスで五分ほどで目的地につく。


 抗がん剤治療中の彼女にとって、人混みは望ましくないと思いタクシーで行くことを提案したが、そんなのもったいない! ありえない! と一蹴された。


 貴船口、鞍馬方面行きのホームに向かうとすぐに、普通の電車と比べて明らかにガラス窓の占める割合が多い、『きらら号』と名付けられた電車がゆっくりとホームに滑り込んできた。


「これこれー! この展望列車『きらら号』は外の景色を楽しめるように窓ガラスが大きくて、真ん中の車両の座席は窓側に向いているらしいんだよ! ねえ先生、席取りに行こ!」


 彼女が興奮しながら、僕の手を引っ張り中央の車両に向かって駆け出した。


「おいおい、そんなに急がなくても大丈夫だろ、人も少ないし」


 平日ということもあり、ホームで列車の扉が開くのを待っている人影もまばらだった。


「いいからいいから!」


 そう言って中央車両の前まで僕を連れて行く。


 列車の扉が開く。乗っている全ての乗客は、終点であるこの出町柳駅で降車する。


 彼女は周りの迷惑にならないよう節度を保ちつつ、車両の乗客が全て降りるのを確認するやいなや車両に飛び乗り、お目当ての座席を確保した。少し遅れて僕も彼女の横に腰掛ける。


「やった! とれたよ!」


 小学生のように無邪気にはしゃいでいる。そんな彼女に、


「体が進行方向に向いてないと、酔うんじゃないかな?」


 という疑問を投げかけた。


「もう! 興醒めな事いわないの」


 と彼女のたしなめが入る。


「幸先いいよ、これも私の日頃の行いが良いおかげかな」


「さあ、どうでしょう」


「意地悪っ」


 そう言いながらも、彼女は嬉しさを抑えきれないといった様子だった。


 今までこんなに頑張ってきたんだから、これくらい良いことがあってもいいだろう、と思った。


 しばらくして電車がのっそりと動き出した。始めは見慣れた市街地の中を走っていたが、次第に外観は郊外の様を呈するようになってくる。夕日も完全に沈んでしまい、かろうじて尽きていない家並と、散在する街灯の放つ光だけが暗闇の中で淡く光っていた。


 だいたい二十分ほど電車に揺られていると、『市原』という小さな駅に到着した。乗ってくる乗客は誰もいない。再び動き出す車両の中で、彼女が弾むように腰掛け直し、


「さあ、いよいよだよ」


 と小さくつぶやいた。


 ふいに電灯が全て消え、車内は真っ暗になった。


 わあ、と小さく声を上げ彼女が息を飲む音が聞こえる。


その瞬間、鮮やかにライトアップされた青もみじの木々が右から左に流れはじめた。


「きれい::」


「うん」


 線路に沿ってほぼ等間隔に配置された円形の光源から、もみじの木々に照射された白色の光の束が、一つ一つの葉に反射され鮮烈に僕の網膜に焼き付けられる。


 明るく照らされ、写真では決して表しきれないような色彩を放つ木々達が、自分たちが主役であることを自覚しているかのように誇らしげに見えた。


 車窓に映された、うっとりとした眼差しで絶景を楽しむ彼女の姿を見て、自分の心が温かな感情で満たされて行くのがわかった。


 距離にしてだいたい三百メートルくらいだろうか、新緑のトンネルをわずか一分にも満たない時間で通り抜けてしまったが、この景色は絶対に忘れられないよという彼女の意見に、ぼくも無言で頷いて賛同した。


 冷めやらぬ余韻で満たされたきらら号は、程なくして僕たちの目的地である貴船口駅に到着した。


「ね、電車で来てよかったでしょ?」


 電車からピョンとホームに降り立ち、彼女が誇らしげに僕を見上げる。


「そうだね」


 本当にその通りだと思った。


 彼女に促されることがなければ、ぼくはあの景色を知らないまま一生を終えるところだったと考えると、新しい何かを得たいと思う好奇心は常に持っておくべきだと思った。


 駅の改札を出ると予想以上の肌寒さを感じ、彼女も二の腕をさすっていた。五分ほど歩いた先にバス停があり、自分たち以外にも数組の来訪者がいた。程なくして、来たバスに乗り込む。バス同士がかろうじてすれ違う事ができるほどの細い山道を突き進み、ものの五分程で停留所に着いた。


 右手には貴船川が流れていたが、雰囲気を壊さないようにわざとなのか、街路灯はほとんど立てられておらず、辺りは非常に暗かったため、その全容はほとんど視認できなかった。少し先に進むと道路の右端に、等間隔に配置された灯籠を形どった小さな照明具があらわれ、僕たちを歓迎しているように見えた。それらをなぞるようにさらに川上方向に歩き続けると奥の方に、ライトアップされた青もみじと沢山のちょうちんに照らされた、趣のある古風な料亭が見え始めた。


「わあ、すごいすごい」


 彼女の歩幅が大きくなる。ぼくもはやる気持ちを抑えて、彼女についていく。


少し小さな曲がり角を超えると視界が一気に広がり、眼前に飛び込んできた異世界に彼女は声にならない声をあげた。


 道路に沿って、いくつもの料亭が川上の方に向かって連なっており、ライトアップとちょうちんの光で辺りはまるで昼のように明るかった。店先に子供の背丈ほどもある水車を設けている店もあり、彼女が目を輝かせながら眺めている。


 料亭の裏側に目をやると、雄大に流れ落ちる貴船川の大きな滝が見える。その少し川下に川床が広く敷かれており、その上にござとテーブルが規則正しく置かれていて、多くの人が食事を楽しんでいる様子だった。そして、やはり明るく照らされた青もみじと、店名や家紋のような印が入った沢山のちょうちんがその頭上を優雅に彩っていた。


 自分が映画を撮るならここを舞台にしたいな、などとあり得ない空想をしながら歩いているうちに、予約していた料亭にたどりついた。


 着物姿の女性に案内されて、川床に出る。


「うわぁ~!」


 彼女が感嘆の声を上げた。


 この料亭の川床は先程見たものよりも、より川の水面近くに設置されており、座りながら川に足をつけて涼んでいる客が何人かいた。ゴォ~という川の音が耳に入り、自分が今その中に身をおいている大自然の雄大さを感じる事ができた。


 細い水の飛沫が顔にふれ、ひんやりと気持ちいい。僕は今までマイナスイオンというものを感じとれたことがなかったが、この場所なら敏感な人はきっと全身に感じることができるのだろう、と思った。


「マイナスイオンが、やばいねえ〜」


 彼女が言った。思った通りだった。


 僕らは一番奥の床に案内された。料理はコースを予約していた。


 席についた僕たちをみて、着物姿の女将らしき初老の京美人が話しかけてきた。


「おいでやす~。あらあ、かわいらしい彼女さんですね」


 二人とも苦笑いを返すしかなかった。


 僕はビールで、彼女はオレンジジュースで乾杯をする。


 料理を待つ間、彼女は足を川につけてキャッキャッと言っている。先生もどう?と誘われたが、楽しそうな君を見ているだけで十分と断った。五分ほど清流の冷たさを堪能した後、彼女が席に戻る。


「はぁ~、まるで旅行に来たみたいだね」


「病院から一時間足らずの場所に、こんな異世界があるなんてね」


「でも、先生は前にも来たことがあるんだよね」


「その時は半分仕事みたいなもんだったから、全然堪能できなかったな」


「ということは、わたしと来てる今の方が、楽しいってこと?」


 彼女が両手で頬杖をついてニヤニヤとした笑みを浮かべながら、聞いてくる。


「そうだね」


 そういう事にしておいた。


 彼女が並びの良い白い歯を見せる。



「お世辞でもうれしいよ。あ〜、今までの抗がん剤は今日のために頑張ってきたようなもんだよ」


 大きな伸びをして、澄んだ空気にむかってつぶやいた。


「::::」


「あ、ごめん。今は病気の話はやめておくね::。あ~お腹へったなあ」


すぐに返事ができなかった僕をみて、すこし気まずそうに苦笑いをしながら、彼女が座りなおした。


 はじめの料理が運ばれてきた。少し奮発したので、コースの内容は松茸の土瓶蒸しと炭火焼、鯛と鱧のお刺し身、鮎の石焼など豪華なものばかりで量もしっかりとあったが、いずれも非常にあっさりとしていたので彼女も概ね完食できた。


「美味しかったねえ。料理はもちろん美味しいんだけど、やっぱりこのロケーションでっていうのが、より一層味を引き立ててる気がするよ」


最後のデザートを頬張りながら、彼女が言う。


「そうだね。満足してもらえてよかったよ」


「ごちそうさまでした。先生、お忙しいのに本当にありがとうね。あ、そうだ。一緒に写真撮ろうよ」


正直写真は苦手だったが、この雰囲気の中で断るのはあまりにも無粋だと思い、黙って従うことにする。


「大丈夫だよ、SNSにのせたりしないから!」


 そう言いながら彼女は僕の隣に来て、川と青もみじを背景に自分のスマートフォンで一枚撮った。


「うん、いい感じ! はい、じゃあ画像をおくるから、先生の連絡先を教えてください!」


患者に連絡先を教えるのは良いのか?と一瞬考えたが、それも今更かと思いコミュニケーションアプリのアカウントを伝えて写真を送ってもらった。


僕は冴えない顔をしていたが彼女は最高の笑顔だったし、背景の川や自然もきれいにとれていた。おしなべて、とてもいい写真だと思った。


「やった、連絡先ゲット! 実に自然に聞き出せた! これでこれからは、外来と鴨川のベンチ以外でもつながれるね」


 大袈裟にガッツポーズを作っている彼女をみて、ハハと笑うしかなかった。





 帰り際に、女将が店の名前が印刷されたうちわを一枚ずつくれた。タクシーを呼んでもらうようお願いしようとした僕を、彼女が慌てて制した。


「あ、ちょっと待って! 貴船にホタルが見られる蛍岩っていうスポットがあるらしいんだよ、すぐそこみたいだし行きたい!」


 それは初耳だった。


 彼女に連れられ、来た道を駅の方に向かって歩く。じきに明かりが少なくなり、先程道しるべとなってくれていた道路沿いの灯籠も光が消えてしまっていたため、更に進むと辺りはほとんど真っ暗だった。ひぐらしの泣き声が暗闇の中の静寂を破り、夏の終わりを今更ながらに感じながら目的地を探す。


「この辺だと思うんだけど::。あ、あれかな!」


 高さが二メートルほどの岩というよりは小さな山といったほうが正確な地形が、赤と黒で塗り分けられた柵で囲まれており、傍にポツンと木の看板が立っていた。


彼女が駆け寄り、目を凝らしてそれを確認をした後、「あった!」と叫んだ。


 名所と言うにはあまりにも自己主張が乏しかったので、きっと素通りする人も多いだろうと思った。


「この辺りにでるのかな、ホタル::::」


二人とも無言で、彼らの瞬きの出現を期待してしばらく待ってみたが、まったくその気配は無かった。


「::::いないね」


「ちょっとシーズンがずれているからね」


 彼女がふぅ~とため息をつく。


「残念。まあ美味しい料理と先生の連絡先で満足しなきゃね〜」


 暗闇の中の、黙って頷いた。


 すこしの沈黙のあと、彼女が口を開いた。


「ホタルってさあ、すごく得してるな~って思うの」


「得?」


「うん。ホタルって虫なんだけど、きれいだし風情あるし、まあ嫌いな人はいないじゃない?」


「うん」


「でも蛍は別に人を喜ばせようとして、光ってるわけじゃないんだよ。自分たちの都合で光ってたら、たまたま人間がすごく喜んでくれたってだけ」


「たしかに」


「だから、殺虫剤かけて殺されたりしなくてすんでるんだよね」


なるほど。たしかに害虫といわれている虫たちと蛍は、見た目は紙一重だと思う。


「それと一緒でね、癌ってすごく損してるな~って、最近思うんだ」


「え?」


 彼女の方を見る。まっすぐ前を見たまま彼女は続ける。


「癌細胞ってさあ、正常な細胞がある日突然変異を起こしてしまうことで、できちゃうんだよね?」


「そうだね」


「そして、増殖の歯止めが効かなくなって腫瘍を作ったり、ほかの臓器に転移して、そのままどんどん大きくなって人間の体力を奪っていく。あってる?」


「まあ、そんなところだな」


 彼女は一度小さく頷き、続ける。


「でもね。癌細胞は、べつに人に悪さをするつもりはきっと無いんだよ。だってさ、どんどん大きくなっていった結果、自分の御主人様が死んじゃったら自分も死んじゃうわけじゃない」


 僕は、黙って続きを聞くことにした。


「だから癌細胞は、『このままお前の全身を乗っ取ってやる、イヒヒヒ』じゃなくて、『突然調子がおかしくなって、どんどん増殖しちゃうんだ! とまらないよ〜、迷惑かけてごめんなさい』って思ってるんじゃないかな」


 そんな事は考えたことが無かった。


「こんな事言ったら、癌になってしまった人の負け惜しみだって思われるかもだけど、今では本当にそう思ってるんだよね」


 自分の命を確実に縮めるであろう、世間一般では絶対悪とされている癌に対してですら、このようなポジティブなものの考え方ができるのは、本当にこの子らしいなと思った。


「癌もホタルみたいに、人を幸せにする物質とかが出せたらワルモノにならなくて済んだのになあ」


 すっかり暗闇に慣れた目で、もう一度彼女の顔を見ると、ねっと言って目を細めて笑っていた。


「あとわたしね、抗がん剤は次にするやつで最後にしようと思うの」


::::え。


 虚をつかれた気分だった。


 明朝の嫌な夢がフラッシュバックする。


 彼女が続ける。


「先生にはすごく感謝してるし、本当は先生と相談して決めることなんだろうけど::。最初の薬をやめないといけなくなったときに、そうしようって決めたんだ」


すぐに返事ができなかった。彼女にはまだまだ治療を頑張ってもらって、少しでも長く生きてほしかったから。


 僕の顔を見て、困ったように彼女が笑う。


「それでね、それがいつになるか分からないけど、次の治療を頑張ってそれで抗がん剤が効かなくなった時は、『今まで薬でやっつけようとしてごめんね。これからは共存していこうね』って癌に言うつもり」


 相変わらず、ひぐらしの泣き声だけが暗闇に響いていた。


 彼女の意思は硬そうだと思った。


「せっかくの楽しい会が、最後暗くなっちゃったね。でも、すごく楽しかったよ。また、来週から新しい抗がん剤頑張れそうだよ」


「::::そうだね。頑張ろうな::::」


 僕はそう言うことしかできなかった。


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