苦渋の決断
「体の内側から湧き上がってくるみたいに寒気がしてさ~。そしたら急に全身がすごい勢いでブルブル震えだして、胸がギュッと締め付けられるような痛みも出だして、それで息もしづらくなってきて::。これはもうマジで駄目かもって思ったよ!」
彼女が病室のベッド上であぐらをかきながら、大きなジェスチャー付きで当時の状況を僕に伝えてくる。入院からまだ五日しか経っていないとは思えないほど、彼女は元気になっていた。
「救急車を呼ぼうかとおもったけど、職場だったし大事にしたくなかったから、なんとかタクシーで病院まで来てさ。そしたら救急室が混んでるから、診察まで二時間待ちって言われて、ああもう限界ってなって待合室のベンチで横になってたら、看護師さんがこれはやばいってなって、ベッドに運んでくれたの」
「結果論かもしれないけど、僕は救急車をよんだほうが良かったと思うよ」
ちょっとしたことで簡単に救急車を呼んでしまう、いわゆる『コンビニ救急要請』は勿論決して褒められたものではないが、逆に彼女のように周りへの迷惑などを気にして、救急要請を躊躇してしまうような重症患者が多いのも事実である。
「そうなんだろうけど::。やっぱりためらっちゃうんだよ。ただの風邪とかだったらどうしようとか、お医者さんとか看護師さんに怒られるかもしれないとか考えちゃうんだよね。先生はさ、患者さんとして救急車に乗ったことある?」
「無いな」
首を横に振る。
「だよね。私もこの前、ここに運ばれた時初めて乗ったんだけど、なんて言うか予想以上に異世界っていうか、なんだかとんでもないものを呼んでしまったっていう気がしてさ」
「気持ちは分かるけど、今後調子が悪くなったときはためらわずに救急車を呼んでほしい。君の場合は抗がん剤で免疫力が落ちているから、たとえちょっとした風邪でも重症化してしまう可能性があるって事を忘れてはいけないよ」
きつい言い方にならない様に言葉を選びながら、彼女を諭す。
「はあい、気をつけま~す」
と右手を挙げている。
「ところで、もう本当に息苦しさやしんどさは無いの?」
「うん、すごく楽になったよ」
実際彼女の血液検査の結果も、治療に反応してすごく良くなっていた。
「もう少し抗生剤の治療を続けてこのまま良くなれば、来週には退院できると思うよ」
「分かった。じゃあ、それまでは大人しくしてるね」
「たのむよ。それじゃあ」
「夕方もきてねー」
無邪気な声を背に、僕は病室を出た。
その後、病態は順調に改善し入院から二週間後の朝に彼女は退院していった。
彼女が退院した一週間後に、外来で再び抗がん剤治療を開始した。今度は白血球が下がりすぎないように、薬剤の量を少し減らして治療を行ったが、翌週の血液検査でやはり白血球が極端に減っていた。
結果を伝えるために彼女を診察室に呼び入れる。
「調子はどう?」
「うん、熱も出てないし調子は悪くないよ」
「それは良かった」
「んで、今日の血液検査はどうだった? 先生の顔を見るに、やっぱり良くなかった?」
「::::僕はそんな浮かない顔をしてるかい?」
そんなつもりは無かったが。
「うん。先生が困ってる時とか、大事な事を考えてる時はすぐ分かるよ。眉間にシワが寄って、眉毛がこんな風になってるもん」
彼女は両手の人差し指を自分の眉毛の上におき、「ハ」の字を描いている。
そんなこと初めて言われた::::
自分の感情を言い当てられたことに何となく気恥ずかしさを覚えた僕は、彼女の指摘は無かったかのように、返事をせずに続けた。
「::今回もやっぱり白血球がすごく減ってしまっている」
「そっか::、困ったね」
彼女がいつになく弱々しい声で呟いた。
「残念だけど、次からは新しい抗がん剤に切り替えようと思う」
とても歯がゆかった。
今の抗がん剤をどれだけ長い間使い続けられるかによって、彼女に残されている時間が大きく左右されると言っても過言ではなかった。まだ効果が出ているだけに、この治療をこれ以上継続出来ないというのは、痛恨の極みだった。
「ごめんね、むずかしい体で::::」
少しの沈黙の後、彼女がそう言った。
「いや、こっちこそごめん。またむずかしい顔をしてしまっていたね」
「うん、また立派な『ハ』だったよ」
困ったように彼女が笑い、つられて僕も少し笑ってしまった。
「今後、気をつけるよ」
「今のままでいいよ、先生が私の体の事を一生懸命考えてくれているって事がちゃんと分かるから」
「うん。また次の治療がんばっていこう」
「頑張るよ! あ、先生?」
「うん?」
「約束::忘れてないよね::?」
遠慮がちに、ちらりと上目遣いで僕を見る。
「ああ、そうだったね。そうしたら二週間後、体から抗がん剤が抜けて免疫力がしっかりと回復していることが確認できたら、約束を果たすよ」
「やった! 本当に我ながら秀逸な約束をとりつけたもんだよ」
彼女の言う通りだと思った。
「例え先生がどんだけお堅くても、抗がん剤が続けられなくなって途方に暮れてる可哀想な患者さんのお願いを、無下に断ることはできないでしょ?」
「おっしゃるとおり」
にししと彼女が笑う。
「じゃあ先生、二週間後の外来の後は、ちゃんと空けておいてね」
「君こそ、感染対策はしっかりとね」
「うん!」
結局、こんなに重々しい告知の後ですら、いたたまれない空気など微塵も残さず、彼女は笑って去っていった。きっと彼女はそういう星の元に生まれているのだろう。僕はそう思った。
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