FN

「わかったわかった、もうすぐ終わるから少しじっとしててくれ」


 自分達を捕まえようと伸ばてくる僕の手から逃れようと、ケージの中で彼らが一斉に逃げ惑う。チュウチュウと泣き声を上げながら。


 ここ動物飼育室は地下につくられているため、日が入らず日中もうす暗い上に、常に動物の糞尿特有の悪臭が立ち込めており、お世辞にも気持ちのいい環境とは言えなかった。


 時計をみるともう午後の十時を過ぎていた。かれこれ、二時間以上ネズミ達と格闘していた。


 僕が所属する京都市立大学医学部附属病院をはじめ、大学病院というところは医療と同時に学問や基礎研究を行う場所でもある。


 僕はどうも基礎研究というものが苦手で、細胞を培養したり、それをネズミに打って彼らの動向を逐一記録したりするのが性に合わず、できることならずっと患者さんの相手だけをしていたかったが、そうはいかなかった。


 癌になったネズミの便中の細菌叢がどのように変化するのか、とういう研究をするように教授からお達しをうけ、僕は夜な夜な、ネズミの便を採取する業務に追われていた。


 僕が現在お世話をしているネズミの数は六十匹以上におよび、彼らが便を出してくれるのを一匹ずつ、じっと待っておく必要があったので、それはもう気の遠くなるような作業だった。


 今日のノルマはまだ半分もいっていない。これは日が越えるなと覚悟した瞬間、ポケットに入れていた業務用のPHSがなった。


「はい、外科の名東です」


 ネズミの糞にまみれた手袋を急いで脱ぎすて、電話に出る。


「お疲れ様です、当直をしています救命救急科の小橋です。先生、いまお時間よろしいでしょうか」


「はい、大丈夫です。どうされましたか?」


 今、ネズミの相手をしているので忙しいんです。とは言えないのが、基礎研究の難しいところだ。あくまでも臨床が第一優先で、その空き時間に業務をこなす必要がある。


「先ほど、先生が外来で診ておられる坂木さんが救急に受診されました。大腸カルチに対してケモをされておられる患者さんです」


 カルチは癌を、ケモは抗がん剤治療の事を表す、医療界で頻用される略語だ。


「はい、彼女がどうされたんですか?」


 嫌な予感がした。胸の中で、ドロッと焼けつくような焦燥感が広がる。


「高熱と呼吸困難が主訴です。CTにて右肺野に肺炎像を認め、採血で著明な白血球減少を認めています。入院にて抗生剤加療が必要な状況と考えます。今から診察をお願いできますか?」


「わかりました。すぐに行きます」


――くそ:::。


 無意識のうちに舌打ちをしていた。ここまで彼女の治療は順調に進んでいただけに、大きなショックを受けていた。僕はネズミ達を開放して白衣に着替えると、急いで救急室に向かった。


 救急室に入ると、先程電話があった小橋先生が申し訳無さそうに


「時間外なのにすいません」と僕の方に駆け寄り、彼女の検査結果を電子カルテを使って教えてくれた。


 CTを見ると彼女の右の肺に、白い影がベッタリと広がっているのが確認できた。かなりひどい肺炎を起こしているようだった。


「血液検査の結果ですが、好中球がほぼゼロになっています。ケモの副作用による発熱性好中球減少症かと」


「そうですね::。初期対応いただき、ありがとうございました。後は僕が引き継ぎます」


「よろしくお願いします。三番ベッドで横になっておられます」


 彼に頭を下げ、三番ベッドに向かう。彼女は酸素マスクを口につけた状態で、ベッドの上にぐったりと横たわっていた。僕に気付いた彼女は、力のない笑顔をふりしぼった。


「坂木さん、大丈夫?」


「先生、こんな夜中にごめんなさい」


 そう言った彼女の声は、今まで聞いてきた中で一番弱々しいものに聞こえた。


「大丈夫だよ、まだ病院にいたから。いつから調子が悪くなったのか、言えるかい?」


「昨日までは全然元気だったんだけど:::。今日の朝、全身がすごくだるくて。なんとか仕事には行ったんだけど、その後もどんどんしんどくなってきて、夕方に熱を測ったら三十九度あって::。その後から息苦しさがひどくなってきたの。本当は明日の朝まで我慢したかったんだけど::」


 普段は見せない、申し訳なさそうな彼女の表情がいじらしかった。


「いや、病院に来てくれて正解だったよ。肺炎を起こしてしまっている。残念だけど今から入院して治療する必要がある」


「そうなんだ::。これも抗がん剤の副作用?」


 彼女がゴホッと一度、乾いた咳をする。


「うん、抗がん剤の影響で血液中の白血球がすごく少ない状態になっているんだ。それが原因で、細菌が体の中に侵入して肺炎を起こしてしまっているようだ」


「白血球って、たしか外敵から体を守ってくれる成分だよね。今までずっと大丈夫だったのに::。」


 彼女がそう思うのも無理は無かった。今まで同じ抗がん剤治療を繰り返し行ってきたが、このような副作用が起きたことは無かった。前回までが大丈夫だったから、今回も大丈夫。とは言い切れないのが抗がん剤治療の恐いところである。


「大丈夫。きっと良くなるよ」


「ありがとう。それじゃあ、しばらく抗がん剤治療は中止ってことだよね?」


「そうだね::。」


 正直なところ、肺炎になってしまったことよりも、その事のほうが痛かった。治療を中止することで、抗がん剤に増殖を抑えつけられていた癌細胞が一気に活性化し、病気が恐るべき早さで進行する事は今までよく目にしてきた。そうなってしまうと、いままで効果があった薬が効かなくなってしまうケースも多い。


「まずは、焦らずにしっかりと肺炎を良くしよう。な」


 自分にも言い聞かすように彼女にそう伝える。


 彼女は頷くと、


「また毎日会いに来てね」


 と儚げに微笑んだ。


「もちろん」


 僕は、自分の焦りが彼女に伝わらないように、ぎこちない作り笑いをするのがやっとだった。












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