からあげさま
彼女の抗がん剤治療の経過は良好だった。
二週間に一度の治療は滞りなく継続できていたし、少しの手足のしびれ以外は目立った副作用は出ていないようだった。治療の日以外は、仕事にも休まずに行けているとのことだった。彼女のように抗がん剤の治療を頑張りながら、治療前とほぼ変わりのない日常生活を送っている人は、実は沢山いる。
治療の効果がちゃんと出ているのかどうかは二、三ヶ月に一度、CT検査で腫瘍の大きさを測定して判断する。
治療を始めてから最初の効果判定のCT検査は、抗がん剤を六回投与した後に行なった。
幸いなことに、大腸の腫瘍だけでなく肺や肝臓に転移した腫瘍も、目に見えて小さくなっていた。
もちろん僕は嬉しかったので、彼女に喜々として伝えた。彼女も素直に喜んでいたし、このままずっと薬が効き続けて癌が無くなってしまったらいいのに、と言っていた。たしかにごく稀に、抗がん剤治療で全身に広がった癌がきれいサッパリ無くなることもある。そうなる事を期待して、このまま頑張っていこうと励ました。
外来後の、鴨川のベンチでの昼食会も欠かすことなく開かれた。毎回コンビニのパンでは忍びなかったので、売店の手作り弁当を勧めたりもしたが、パンでいいとのことだった。
あの日の瀬田との食事以降、僕はすこしずつ彼女の事を意識するようになっていた。いや、意識しないように努めることをやめた、という方が正しいのかもしれない。
彼女は、僕と鴨川で過ごす時間を心から楽しんでくれているようだったし、僕もそれを素直に嬉しいと思えるようになっていた。
回数を重ねるごとに、お互いの知らないところが少しずつ色鉛筆で鮮やかに塗られて明瞭になっていくような気がして心地が良かったが、この感情は好きだとか愛しているだとかとは、きっと別のものな気がした。
僕は、ただただ病気がこのまま良くなり続けて、こんなに頑張っている彼女がもうこれ以上辛い思いをしなくてすむことだけを望んでいた。
季節がかわり、春が訪れていた。
その日は十二回目の抗がん剤治療の日だった。
相変わらず経過は順調で、二週間前に行なったCT検査では、腫瘍はさらに小さくなっている事が確認できた。肺にあった沢山の転移性腫瘍は、その一つ一つがもうほとんどわからないくらいに縮小していた。いつも彼女は火曜日の外来日に治療を受けていたが、今回はどうしても金曜日に日を変えて欲しいと言ってきた。まあ、治療が二、三日先延ばしになっても大きな支障はないだろうと思い、彼女の言うとおりにした。
いつも通り抗がん剤治療をおえた後、彼女は診察室に入ってきた。朝にも気にはなっていたが、その日は見慣れない大きな手荷物を持っていた。
「治療おつかれさま。今のところ変わったことは無い?」
「うん。いつも通り大丈夫だよ」
「それは何より。ところで大きな荷物だね。この後、何かあるの?」
彼女の荷物を指さして、聞いてみる。
「先生、そこは見て見ぬふりするのが粋ってもんだよ」
どういうことか分からなかったので、ぽかんとしていると、
「今日はコンビニ無しで。いつものベンチ集合ね~」
と彼女は言い残し、診察室を出て行った。
外来業務を終えた後、私服に着替えて河川敷に出た僕はそこで初めて、もう桜がほぼ満開に咲いていることに気付いた。ところどころ立っている桜の大木が、おのおの枝を幾十にも折り重なるように広げて、力強く咲き乱れていた。
河川敷は当然、お花見を楽しむ人たちでごった返していた。いつものベンチに目をやると、すでに先客がいた。辺りを見回してどこにいるのかと探していると、ベンチのやや向こうの芝生エリアに、レジャーシートの上で座りながらこちらに向かって手を振っている彼女を見つけた。
僕は右手を軽く挙げ、走るでも歩くでもないスピードで彼女のもとに向かった。
「準備がいいね、今日はお花見仕様かな?」
「はいはい、早く座って~」
僕は靴を脱いでレジャーシートの上にあぐらをかく。
ポカポカとした春の陽気が気持ちよく、すこしの照れもあってか、汗をかいていることに気づいた僕は、知らず知らずのうちにセーターを脱いでいた。
「はい、まずは今日も外来業務、おつかれさまでした~」
「君も抗がん剤治療、おつかれさまでした」
「じゃあ、準備していくね。ちょっと緊張するなあ」
そう言いながら、彼女は先ほどの大きな紙袋から重箱式の弁当箱と水筒をとりだした。
「すごいね」
「じゃあ、あけま~す!」
彼女は照れくささを隠すように、大きな声を出しながら弁当箱をあけた。弁当箱の上の段は、卵焼きやウインナー、スパゲティ、焼き鮭、アスパラ肉巻きなど色とりどりの惣菜で埋め尽くされていた。そして下の段の半分はおにぎりが占めており、もう半分には大量の鶏のから揚げが敷きつめられていた。
朝食から今まで何も食べていなかった僕の摂食中枢が強烈に刺激される。
「これは::::、すごいね」
「でしょ? 早起きして頑張りました」
「君の花見はいつも、こんなに気合入っているの?」
「まさか。今日は花見はついでだよ」
「え、ついでなの?」
「そう、ついで」
「::::ん?」
---ついでって何の?
理解できていない僕を見て、彼女が怪訝そうな顔を見せる。
「ちょっとまってまって、アホなふり? 本当にアホなの?」
「ん?」
「今日は::::、何の日? それともこの前ひょっとして、私に嘘を教えた?」
いつになく、鋭い視線を投げかけてくる。
「今日は四月の、、何日だっけ?」
「九日!」
「四月九日::::、おお!」
僕の誕生日だった。真剣に忘れていた。
「本気で言ってる? 誰かからおめでとうのメールとか来てないの?」
「この年にもなると、そんなもの誰もくれない。というかもう何年も、もらった記憶がない」
彼女は一瞬大きく目を見開いた後、ケラケラと笑い出した。
「本当に寂しい人生だったんだね。じゃあ、今年は私が祝ってあげるね。先生、お誕生日おめでとう!」
「おお、ありがとう」
紙コップに入れてくれたお茶で乾杯をする。
そういえば彼女が入院していた時に、僕の生年月日を聞かれた気がする。しかしそんなのよく覚えていたな。
「さあ、食べて食べて。先生のお口に合うかどうかわからないけど」
もうお腹と背中がくっつきそうだった。
いただきます、と手を合わせ、真っ先に鶏の唐揚げを口に放り込む。
――うん、うまい。衣がぱりぱりだ。分かった、さては卵をあえて使っていないな。そして、これはむね肉! もも肉と比べると脂身が少ないのでどうしてもパサパサになってしまいがちなため、ごまかしが効かないといわれているあのむね肉だ。最高のスパイスをいわれている空腹の効果が多少あるとはいえ、これはなかなかにうまいぞ。
「どう? 唐揚げ様のお味は?」
それを聞いた僕は思わず吹き出してしまった。
入院していた時に彼女に好きな食べ物を聞かれて、鳥の唐揚げが一番の好物で、好きすぎて唐揚げと呼び捨てするのも申し訳ないので、心の中で唐揚げ様と呼ぶようにしている、という話をしたことを思い出した。
「むね肉をここまでジューシーに調理するとは、恐れ入ったよ。最高のから揚げ様だ」
ここは素直に褒めることにした。
「本当に? うれしい~。揚げたてなら、もっと美味しかったと思うんだけどね」
――いやいや、唐揚げ様というものは冷えたら冷えたで、揚げたてにはない美味しさがあるのだよ。
結局僕は、ほぼひとりですべての唐揚げ様を平らげた。おにぎりや他の惣菜も残さずに。全部、とても美味しかった彼女は少しだけ惣菜をつまみながら、うまいうまいと夢中で頬張る僕を、微笑みながら見ていた。
「ごちそうさまでした。ありがとう、本当に美味しかったよ。誕生日に合わせてこんなにたくさんのお弁当を作ってきてくれて」
彼女に祝ってもらえなかったら、きっと二、三日後あたりで、そういや今年も誕生日が知らない間に過ぎていたな、と思い出すところだった。
「ほんと、自分の誕生日忘れるとかありえないよね」
「忘れていても別に困らないからね」
「なにそれ」
彼女がまぶしそうにフフフ、と笑う。
「これは先生への感謝の気持ちだよ」
「感謝?」
「うん。私、今すごく幸せなんだ。健康な人からすれば、全身に癌ができていて抗がん剤治療していて、後どれくらい生きられるのか分からないなんて、不幸以外の何物でもないと思うんだけど。私、今は毎日がすごく充実しているの。きっと全部、先生のおかげだよ。来年も、再来年も抗がん剤受けたあとに、こうやって先生の誕生日が祝えるように、わたし頑張るよ」
彼女が、歯を見せてニシシと笑った。
――かわいい::::
僕は気が付けば、よしよしと彼女の頭を撫でていた。
そのような行動にでたことに自分でも驚いたが、それにもまして彼女が驚いているようであった。
一瞬、体を強ばらせたように見えたが、すぐにくしゃりとくすぐったそうに笑った彼女の頬は桜色に染まっていた。
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