旧友とのひととき

最後の一針を縫い終わり、手術の全行程が終了した。


「これにて、膵頭十二指腸切除術を終了します。ありがとうございました」


「ありがとうごさまいました」


 手術時間は七時間二四分。出血もほとんど無く終了し、自分としてはかなりの出来であった。前立ちをしてくれた三笘准教授からさすがだ、と最高のお褒めの言葉を頂いた。


「ありがとうございます。三笘先生のご指導のおかげです」


 と頭を下げた後に、自分も濱田と同じ事を言っている事に気づき、マスクの下で人知れず笑ってしまった。


 外科医として当然の事だが、僕は手術が好きだ。一人の患者の命を救うために、外科医をはじめ、内科医や麻酔科医といった各科の医者達が、看護師や臨床工学技師といったコメディカルスタッフ達とお互いに協力し合って手術という壮大な舞台を作り上げ、それを自分が筆頭となって遂行していく。その使命感や責任感は、他の処置ではなかなか感じることができないものだと思うし、医者になったからには手術をしないと始まらないという考えは、研修医の頃から全く変わっていない。


 大きな手術の前には未だに緊張するし、その一週間以上前から睡眠が浅くなるくらいにナーバスになることも珍しくはないが、いざ手術が始まると自分が存在する世界は五十センチ四方にも満たない狭い術野に凝集される。全身に張り巡らされている全ての神経が、脳と両手の指先に信号伝達を譲ってくれるような錯覚に陥り、空腹感や尿意といった余計な感覚はすべて置き去りとなる。


 頭で考えずともメスが踊るように進むときは一時間が数分のように感じられ、このように最後まで万能感に包まれたまま手術を終えられた時は、疲れをほとんど感じることはなく、患者の術後の経過も偶発症を起こすこと無く良好な事が多い。経験を重ねるにつれ、そういった手術を完遂できる事が増えてきてはいたが、まだまだ研鑽の余地があることは明白だし、おそらく自分に満足することのできる日は、来ないのだと思う。


時計を見る。また午後五時前だった。


――これなら、約束の時間にじゅうぶん間に合いそうだな。


 僕は患者の家族に手術が無事に終了したことを説明し、手術着から白衣に着替えた。病棟回診を行い、入院患者の病態が変わりないことを確認した僕は、外科手術の中でも最高難度といわれている膵臓の手術を無事に終えられた満足感もあってか、最高に気分が良かった。


――一足先にいって、一杯やっておくか。


 私服に着替え、病院から目と鼻の先の居酒屋 むらさきに向かう。


 入口の扉を開けると浅黒く日焼けした、黒縁メガネと頭にまいたタオルがトレードマークのマッチョが、


「いらっしゃい!」と僕を迎え入れる。


「店長、あいつもう来てる?」


「相方さんはまだやねえ。ビールでいい?」


「タコワサとフライドポテトもよろしく」


「あいよ」


 その場所がら、いつもお客の半分以上が病院の関係者だったので、今日も見たことのある顔がちらほらあった。病院内の知り合いの数を競うコンテストなんかがあれば、間違いなく優勝はこの店長だろう。


 ビールとタコワサをチビチビやっていると、待ち合わせの時間に五分ほど遅れて彼はやってきた。


「お待たせ。いやあ、今日も疲れた~」


「お疲れさん」


「あれ、ナントゥーすこし痩せた?」


 いつものようにギョロっとした目を大きく見開きながら、彼がぐいっと顔を近付けた。


「いや、そうでも無いよ。瀬田は相変わらずそうだな」


 僕のことをそう呼ぶのは大学時代の同級生の証で、うちの病院内では今や彼くらいだ。大学時代からこの瀬田とは、非常にウマがあった。


 間違いなく学年で三本の指に入るこの秀才がなぜ、部活とアルバイトにかまけて万年留年候補生の僕とつるみたがるのか、と何度か考えたことがあったが、その謎は未だに解けていない。彼は凄まじい勢いで成果を出し続け、たくさんの論文を執筆することで、いまや京都市立大学付属病院消化器内科の次期教授候補と言われいる。そんな彼が未だに僕の誘いには必ず付き合ってくれる。   


 どうやら彼は昔から何かしら僕を評価してくれているようであった。


 店長が瀬田のビールを持ってきた。カチンと乾杯をする。その十秒後には、彼のグラスはすでに空になっていた。


「あぁ生き返る! 店長おかわり〜! いやあ、最近すごく忙しくてさ~。教授の無茶ぶりには本当に参るよ!」


「それだけ期待されているって事だろ」


「まあね。これだけご奉公してるんだから将来、それなりの見返りがないとやってられないよ。まあ、このままなりふり構わずのし上がってみせるから見ててよ」


 やはり大学病院で出世して偉くなっていこうと思えば、これくらいギラギラしていないと駄目なのだろうと、彼を見ていつも思う。


 清々しいくらい僕には縁のない話だった。


「で、ナントゥーは調子どうなのよ。相変わらず一人寂しくやってんの?」


 ニヤニヤしながら、二杯目のビールを片手に聞いてくる。


「そうだな」


「たは~。でも俺はやっぱり独身貴族様が羨ましいよ。たまにある休みは、ずっと子守りだし。俺も自分だけの自由な時間が欲しいよ::」


 瀬田は、はあ~と大袈裟にため息をつく。


「まあ、気楽ではあるかな」


「ところで、お前が誘ってくる時は、必ずなにか俺の意見が欲しい時だ。そうだろ? どうした、言うてみ?」


 やっぱり瀬田は話が早くて助かる。


「ああ、そうだな。いや、実はさ::」


 僕はそう切り出して、彼女の話をした。


 彼女が救急搬送されて緊急手術をしたこと、今は外来で抗がん剤治療をしていること、そして彼女がすごく積極的で、つい遊びに行く約束をしてしまったこと。


 僕が話し終わるや否や、


「いやあ、お前、振り回されてるねー! なんか学生の時も似たような感じの子にぐいぐい来られて、結局断り切れずに付き合ってたよな?」


 二杯目のビールを飲み干して、瀬田の声は一段階大きくなっていた。再び店長を呼び寄せ、おかわりのビールといくつかのツマミを頼んでいる。そんな古い話をよく覚えているな、僕も忘れていたのにと思った。


 大学生の頃、はじめて付き合った女の子も非常に積極的だった。熱烈なアプローチを受け続け、半ば押し切られる形で付き合ったその子は、すぐに僕にもの足りなさを感じるようになり、わずか三か月で別れを告げられた。


「で、その子と親密な関係になるかどうか悩んでるんか?」


「いや、そういう目で彼女を見たことは無いんだけど。ただ単に、仕事以外で患者と関わりを持つことがどうなのかと思ってね。ほら、基本的に僕たち医者は、患者に感情移入してはいけないって学生の頃から言われてきただろう?」


 うーんと瀬田は短くうなると、


「そもそもお前はどうしたいんだよ。単純に彼女はお前の中でありなのか、無しなのか?」


 と僕を指さしながら問うてきた。


 そう言われて、僕は改めて彼女の事を客観視してみた。


 彼女はいわゆる美人の部類に入るかどうかはわからなかったが、年齢よりもあどけなく見えるその容姿を、愛嬌あふれる雰囲気も含めて考慮すれば、十人のうち七,八人は可愛いと言うのではないだろうか。外来の時の出で立ちを見る限り、ファッションにもそれなりに気を使っているようだし、スタイルも今時の子らしくスリムでシュッとしている。


 性格は一見破天荒にも見えるが、人には気付かれないような細やかな気遣いを所々でしているということを僕は見抜いている。


 とういうか、そもそも彼女は本当に僕に好意を抱いて、そういう関係になりたいと思っているのだろうか。実はそれは僕の単なる思い違いで、自分の命運を握っている主治医に懐いている。ただそれだけのことではないのだろうか。もしその仮定が正しければ、僕はとんでもない勘違い野郎ってことになる::::。


「おいおい! 誰がそこまで真剣に考えろって言ったよ! 一回帰ってこい!」


 瀬田の言葉で我に返った。あたかも別の事を考えていたかのように取り繕って、瀬田に質問した。


「そもそも、なんで医者が患者に感情移入をしてはいけないんだろうな」


「う~ん。俺が思うに、相手を大切に思うがあまり、医療を行う際に正常な判断ができなくなってしまうからじゃないか」


「正常な判断::::」


 この前、僕が彼女に咄嗟に言ったものと、そう遠くない意見だった。


 瀬戸はポテトを教鞭のように振り回しながら続ける。


「例えばある患者が、病気があまりにも辛いので安楽死させてくれって言ってきたとする。普通なら、日本では合法じゃないからできませんって一蹴するだろう?」


「もちろん」


「でも、それが自分にとってすごく大切な人で、本当に見ていられないくらい辛そうだったら、魔が差しちゃうかもしれないと思うんだよな」


「なるほど」 


「逆のパターンもしかり。ほら、俺らって基本的にはリスクの高い治療はできるだけ避けて、安全性が確立された治療を優先して実践するよな」


「うん」


「でも、ここぞという時に多少はリスクをおかしてでも思い切った治療を選択して、それが功を奏するって事も少なからずあるよな。手術でもそういう場面ってよくあるんじゃないの? 知らんけど」


「あるある」


「そういう会心の一撃みたいなのが、感情移入した患者だと失敗することを恐れてしまって、出せなくなる気がするんだよな。この前、娘が公園でこけて額にケガしたんだけどさ、消毒するときに俺、手が震えたもんな。普段、診療をしている時はそんなこと絶対無いのにさ。その時思ったよ、俺は自分の娘の主治医には絶対なれないって」


 確かにそうだと思った。自分の家族の手術を他の医者に任せる外科医も少なくない。理由はまさに瀬田のいうところなのだろう。


「まあ、お前がその子と仲良くなろうが、デートしようが知ったこっちゃないけどさ、ちゃんと自分の医療を提供できれば問題ないんじゃないの?」


――なるほど。


 毎度、彼の意見の的確さには本当に頭が下がる。


「まあ、おれはナントゥーが若い患者をたぶらかして、好き勝手してるって、院内で死ぬほど騒ぐけどな、なぜならうらやましいから!」


「おい」


「冗談だよ。まあ、うまいことやってくれよ」


 うわはは、と笑いながらポンと僕の肩をたたくと、瀬田はハイボールを二つ頼んだ。


 その後はいつも通り昔話に花がさき、気が付けば午前一時を過ぎていたので、そこでお開きとした。店を出た後、また進展があったら教えてくれよと言って瀬田は僕とは逆の方に歩いて帰って行った。


 僕も家の方に向かって歩きはじめる。火照った顔に夜風の心地よさを感じながら鴨川にかかる荒神橋を渡っていた僕は、無性に感傷に浸りたい気持ちになり無意識のうちに彼女の事を思い浮かべていた。


 彼女が病気や治療に対しての不安や恐怖の念を一切訴えて来ないのは、なぜなのか。本当に深く物事を考えていないだけのようにも思えないし、そうなるとそういった感情を排出できずに抱え込んでしまっている可能性も考えられる。それらを吐き出せるような信頼関係が築ければ理想なのだが、それは一歩間違えると医者が患者と取るべきとされている距離感の逸脱にも繋がりかねない。


 ――ほんとむずかしいな。


 ただ今日瀬田と話をして、あまり固定概念とらわれずにもっと柔軟に考えてみてもいいんじゃないか、と思い始めていたのも事実だった。

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