告知

「あ、先生おはよう」


 朝の回診時、ノックをして病室に入ると、彼女が明るい挨拶をくれた。ベッドを離れソファーの上であぐらをかいて座っている。顔色もすっかり良くなっていた。


「おはよう、坂木さん。今日の調子はどうかな?」


「もうほぼ完璧に良くなったかんじだよ。ご飯も全部食べられてるし、痛みもほとんど無いしね」


 にっかりと笑い、大きなジェスチャーで快調のアピールをしてくる。


「熱も出てないみたいだね」


「うん、昨日なんてずっと院内を散歩してたしね。本当、なんでまだ入院してんだろうって感じ。もう明日にでも退院できると思うよ」


「そう思えるくらいに元気になっているって事は良いことだね。ただ、もう少し血液検査の数値が良くなるまでは、入院が必要だと思うな」


「えー、もう早く退院したいよ。すっごく退屈なんだもん」


 期待していた返事が僕の口から聞くことができず、彼女は椅子の上で大きくのけ反った。


「まだかなり炎症の数値が高いから、それが下がり切るまでは我慢が必要だね」


 彼女の大きなリアクション見たさに、つい少し意地悪な言い方をしてしまう。


「ぬうー」


 ふてくされたように、低い声でうめく。


「でも、坂木さんの回復力には本当に驚かされたよ、あれだけひどい腹膜炎になっていたのに、手術から一週間ちょっとでここまで良くなるとは思わなかった」


「でしょ〜!やっぱ若さゆえだね!」


 と今度は嬉しそうに胸を張っている。


 コロコロと表情を変える彼女の感情の豊かさに、僕はハハと愛想笑いを返すしか無かった。


 実際、彼女の病態は類まれに見るスピードで軽快していった。手術を終えた後、感染症の重症化が予想されたので集中治療室に入院させた。その後三日間は高熱と強い腹痛が続き、彼女はほとんどベッドの上で寝たきりだった。血流にのって全身に細菌が回ってしまう菌血症という状態になっていたのだから、それも当然であった。強力な抗生物質の投与を行っていたが、当分はこの状態が続くものと覚悟していた。ところが術後四日目からは嘘のように熱が下がり、痛みもほとんど無くなったとスタスタ歩き出したのだった。


 翌日には一般病棟に移ることができ、徐々に食事も食べられるようになり、それに伴って彼女の体力もどんどん改善していった。


 そして何より驚かされたのが、彼女の底抜けに明るい性格だった。病態の改善に伴って、彼女の口数は指数関数的に増えていった。


 初めて救急室で会った時には、こんなに人懐っこい子だとは思いもしなかった。こういった事は、医者をしているとしばしば経験する。


 やはり人間、弱っているとどんなに本性が明るくてもその本領が発揮できなくなるものだと、そのたびに思い知らされる。


 彼女がある程度元気になったのを見計らって、大腸に大きな腫瘍ができていた事、その腫瘍のせいで便が通れなくなってしまったので、逃げ道として人工肛門をお腹に造った事を改めて伝えたが、あっけらかんとした様子で、まあなるようになるでしょうとの事だった。


 そして大きな変化がもうひとつ。


 それは、彼女の口から敬語が全く聞けなくなった事だ。


 それでも嫌な気がしないのは、彼女の人柄の為せる業なのだろう。そういうところは、濱田と通ずるものがあるなと思った。


「じゃあ、あとどれくらいで退院できるのさあ?」


 あぐらをかいたまま、上目遣いで尋ねてくる。


「このまま炎症の数値が順調に下がったとして::、まあ、あと一週間くらいは見ておいてほしいかな」


「え〜、あと一週間もこんな生活耐えられないよ〜」


 上半身を大袈裟にゆすりながら駄々をこね始めた。やはり若い患者にとって、入院中の最大のストレス源は『退屈』なのかもしれない。とは言え、治療を不完全なまま終えてしまい、あとでとんでもないしっぺ返しを食らうという失敗は、医者なら誰もが経験をしている。


 ここは心を鬼にしないと。


 僕が黙ったまま彼女見ていると、


「それじゃあ先生、毎日夕方にも会いにきてよ。朝だけで終わっちゃたら、それ以降の楽しみがなんにも無くて頭がおかしくなりそう」


 と交渉を持ちかけてきた。


「分かった。じゃあ毎日朝と夕方の二回、回診に来るようにするよ。それなら後一週間ほど頑張れそうかい?」


「うん、もう仕方なしだよ」


「ありがとう。助かるよ」


「よし!じゃあ、もう少し入院生活がんばるよ。と言っても、毎日院内を散歩するかスマホをいじってるかだけだけどね」


 そう言うと、彼女は立ち上がり大きく伸びをした。


「たのむよ。それじゃあ、また」


 そう言って病室を出ようとした時、


「そうだ、先生一つ質問!」


 と僕を呼び止めた。


「なに?」


「ええと、、、先生はさあ、、もう結婚してるの?」 


 いきなりなんだ、と思ったが嘘をつく必要も無かったので、黙って首をふる。


「じゃあ:::、カノジョは??」


――これは答える必要があるのか?


 そう思いながら彼女の顔を見ていたら、


「いいから早く!どうなの?」


 と引きそうにも無かったので、正直にいない事を伝えると、


「さびしい〜。そりゃあ、忙しすぎてそれどころじゃないか~」


 とにやけた視線を僕に投げかけてきた。


 返事をするのも面倒だったので、手術があるからもう行くねと部屋を出ようとした僕の背中は、


「夕方まってるね〜!」


 という彼女の明るい声で送り出された。



 短めの手術を終わらせた後、病棟に向かって廊下を歩いていると病理診断部の岸田先生が後ろから声をかけてきた。病理医は、顕微鏡で病気の診断をつける事を生業としている。岸田先生は僕が学生時代から学会の発表の際などですごくお世話になっていて、今でも全く頭が上がらない。


「おう、名東。今、少しいいか?」


「岸田先生、おつかれさまです」


 相変わらず白衣が筋肉でパツンパツンだ。この年齢で、忙しい合間をぬって過酷なトレーニングを続けているなんて、本当にどうかしている。


「坂木さんっていう若い女性の患者がいるだろう。大腸腫瘍で結腸閉塞を起こして、人工肛門を造った」


「はい、腹膜炎もだいぶ良くなって順調に快方に向かっています。もう病理結果が出ましたか?」


「ああ、、、やっぱり腺癌だったよ」


「そうですか::::」


 知らず知らず視線が落ちる。


「しかも、かなり顔つきが良くない。できるだけ早く抗がん剤治療を開始したほうがいいだろうな、、、」


 落胆を隠せていなかったであろう僕の表情が、岸本先生の声の勢いを弱めていたのは明らかだった。


「、、、分かりました。迅速にご診断いただき、ありがとうございます」 


 動揺を振り払うように、僕は少し大げさ気味に大きく頭をさげた。


「うん、頑張って」


 そう言って小さく手を上げニコリと笑うと、岸田先生は僕とは反対の方向に歩いていった。


 顔つきが良くないというのは、癌の中でも悪性度が高く、増殖するスピードが早いという事を意味する。同じ大腸癌でも悪性度の違いによって、患者の予後は大きく左右される。癌であることは予想していたが、その中でもたちが悪いものだったということに、僕は少なからずショックを受けていた。


  これから彼女に『大腸癌』という病名を告知をしなければいけない::::


 そう思うと、ここしばらくは感じていなかったような強い憂鬱が、僕の胸の中で広がっていくのを感じた。


 今までにも、沢山の患者に『癌』の告知をしてきた。


  冷静に受け止める人、戸惑いうろたえる人、受け止められずパニックを起こす人。


  皆がそれぞれ違った反応をするのだが、自分が癌であることを伝えられてショックを受けない患者などいない。いかに彼らによりそい、少しでも与える恐怖を少なくするように告知できるかが、医者の腕の見せ所となる。


  ましてや、彼女はまだ二十代の非常に若い女性だ。どれだけ明るい性格の持ち主とはいえ、必ずショックは受けるだろうし泣き出してしまうかもしれない。僕の伝え方次第では、今後の彼女の精神状態がとても危ういものとなる可能性も考えられる。


 一刻も早く治療を導入するためにも、彼女が入院をしているあと一週間の間に告知をする必要がある。


 夕方、一通りの病棟業務を終わらせた後、僕は再び彼女の病室に向かった。


「坂木さん、入るよ」


「どうぞ〜」


 ノックをすると、いつも通り明るい返事が返ってきた。ドアを開け、中に入る。


 彼女は朝と同じ体勢でソファーの上に座り、スマートフォンをさわっていた。


「お、早速夕方にも会いに来てくれたんだね、感心感心!」


 そう言いながら、スマホから僕の方に視線を移す。


「うん、朝から特に変わりはない?」


「全然変わりないよ、人工肛門の扱いもだいぶ慣れてきたし」


「うん、さすがだね」


 こういった手技の体得は若い患者ほど早いことが多い。


「ほんとにもう退屈で::あ、そうだ先生、いくつか質問してもいい?」


「どうぞ」


 彼女からの質問は他愛もないものばかりだった。僕の好きな食べ物、家族構成、出身大学、生年月日など。そんな事を聞いてどうするのか、病気の事や今後の治療の事など、もっと他に聞きたい事は無いのか、と思ったが患者とのコミュニケーションも仕事の一つだと思い、全部正直に答えてやると、ふんふんと聞いていた。


 気がつけば、三十分近く話をしていた。


 あわよくば告知を、と機会をうかがっていたが、途中からまた後日にしようと考えていた。


「つい話しすぎちゃった、先生忙しいのにごめんね~」


 そう言いながら、大きく伸びをしている。


「いいよ」


「じゃあ最後に、あと一個だけ」


「うん」


「やっぱり::::、私の病気は癌なの?」


  告知は今度、と心の緊張を解いていた僕は完全にふいをつかれ、時間が止まった気がした。


 いや、止まったのは僕の思考か。


 彼女はじっと僕の目を見ていた。


 沈黙が続く。


―――何か言わないと。


 そう思うものの、次の一言が出てこずに自分の唇が無様に震えているのが分かった。


 まだ結果が出てないから分からないと、医者がよく使う常套文句でも言えば良かったのだが、それすら出てこなかった。


「::::アハハハハ!」


 急に彼女が大声で笑い出した。張り詰めていた空気が一気に和む。


 僕は黙って彼女が笑い続けているのを見ていた。


 彼女はひとしきり笑った後、


「先生、本当に嘘つけないんだね。は〜おもしろい。大丈夫だよ先生、ちゃんとそうだって事は分かってたから」


 と落胆の色を微塵も見せずにぺろりと言った。


「だって普通の病気でいきなり手術して人工肛門になったり、二週間も入院したりしないでしょ?」


「::::そうだね」


そう絞り出すのが精いっぱいだった。


「わたしの大腸の癌は、いつか手術で取ったりするの?」


「いや::::」


 答えあぐねていると、


「大丈夫だよ、先生。ちゃんと教えて」


 彼女は優しく僕に微笑みかけてきた。


 僕は、彼女が作ってくれたこの流れに乗って、病態について洗いざらい話す事を決めた。


「実は:::君の肺や肝臓にも癌細胞が転移していそうなんだ。だからもう残念だけど手術での癌の切除は適応にはならなくて、今後は抗がん剤で治療をしていく事になる」


「うわあ、それはなかなかだね。う〜ん、抗がん剤か〜。私、がんばれるかなあ」


「君ならきっと頑張れるよ」


 それは嘘偽りなく本当にそう思った。


「そうかなあ::、それも先生が治療してくれるの?」


「うん。責任をもって引き続き担当させてもらうよ」


「そっか。じゃあ、頑張れそうな気がするよ」


 彼女は目を細めて、一度頷いた。


「うん、一緒に頑張ろう」


「ありがとう。あ〜、でもなんかスッキリしたよ。本当はもっと色々聞きたい事あるんだけど、またさっきみたいに先生を困らせたら可哀想だし、今日はこれくらいにしておくね」


「::ああ」


 僕の間の抜けた返事を聞いて、彼女はまたニカッと笑った。


 ぎこちなさなど微塵も無い、はじけるような笑顔だった。


――この状況でも、この子はこんなふうに笑えるんだな。


  僕は素直に彼女を尊敬した。


 そして、また明日といって彼女の部屋を後にした。


 全く予期せぬ形で告知がすんでしまい、自分の未熟さを歯がゆく思ったが、同時に安堵していたのも事実だった。彼女は動揺ひとつ見せず、自分の病気を受け止めているようだった。達観しているのか、それともあまり深く考えていないのか。いずれにせよ僕が彼女の明るさに救われたのは、紛れもない事実だった。


 その日以降、僕は彼女の御希望通り、必ず朝と夕方の一日二回会いに行くようにした。告知以降、返答に困るような質問を投げかけられることはなく、いつもとりとめもない話をするのみであったが、彼女も楽しんでくれているようだったし、それはそれで意味があったのだと思う。


 結局思っていたよりも早く炎症の数値は改善し、告知から五日後に彼女は退院していった。


 そしてその二週間後、外来で彼女の抗がん剤治療が始まった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る