第5話 新主君からの書状(長屋での一人暮らし)

鶴姫は、驚いた顔で見上げる久之助に近づき、その前に座る。


『お前、本当に、私の声が聞こえるのか?』と鶴姫は久之助に再度同じことを聞いた。




久之助は、その問いに答えず、宗治に向けて語り出す。


『殿、殿にはこの女性が見えないのですか?私の頭が変になったのでしょうか?』と視線は、鶴姫の顔を凝視したまま、宗治に聞いたのである。




『落ち着け、久之助、いや、一緒に落ち着こう、ワシもお前が軽はずみな事をいう男ではないと知っておる。だからこそ、ワシも今動揺しておるのだ、いいか、よく聞け、気を失ってはならんぞ、ワシを一人にするな・・一人にしないでく・・・。』と宗治が言い終わる前に、久之助は気を失ってしまったのである。




久之助が気がつくと、覗きこむ様に心配そうな表情で自分を見ている宗治の顔が有った。


『トッ殿、スミマセン、私は、どれくらい気を失っておりましたか?』と久之助が宗治に状況を確認しながら、身を起こす。


『何、ほんの少しじゃ、四半時(30分)も過ぎておらん。安心せい!!』


『ところで、どうじゃ体の状況は?』と心配そうに宗治は久之助を気遣った。


『無理もない事じゃ、毛利との合戦が起こるかどうか分らず、ずっと緊張していたのじゃろ、疲れが出たのじゃ。』


『未だ、その女性が見えるのか??。』と落ち着いた声で、宗治が久之助に聞く。宗治の質問に、久之助は辺りを見渡し、部屋の中に人影一つも見当たらない旨を報告した。




『ワシの肩も、お前が部屋に入って来た頃ぐらいから、痛みと重みが消えたのじゃ。』


『お互いに疲れが出たのかもしれんな、今日は、もう家に帰って、休むが良い。』と笑顔で久之助に優しい言葉をかける。


『・・・有難き幸せ、‥殿思い出しました。小早川隆景殿からの書状を持って参りました。』と久之助は持っていた書状を宗治へ渡した。




宗治は、隆景からの書状に目を通すと、『‥‥これは、有難い仰せが書いておる・・・。」と呟く。


『久之助、我らが新しい主は、なかなか、気がつく御仁の様だ。・・・書状には、戦はせずとも、毛利軍が行軍した貴殿の領地にて、問題が発生しておれば何か助けが必要であれば何なりと要望せよと仰せじゃ!』と落ち着いた声で、久之助に書状の内容を説明した。


『三村の殿様の時代には、このような書状、一度ももらった事が無かった。自分の領地の事は、自分でしっかり管理する事、それが領主の仕事だと言われるだけで、温かい言葉をかけられた事は無かった・・・。』


宗治の言葉をきいて、『分かりませぬ、最初のうちは甘い言葉をかけて、結局何もしてくれないという事もございます。一喜一憂するには、未だ早いかと・・・』と久之助は神妙な顔で、主君の言葉に返すのであった。


『それも、そうじゃな・・・とりあえず、明日よりいつも通り、領地の見回りを再開する。問題があれば、此の書状の内容が正しいかどうかは直ぐに分る事よ。明日から再開じゃ、分かったな。久之助』と宗治は腹心の家来で有る久之助に明日の予定を伝え家に帰したのである。




久之助が自分の長屋についた時刻は、14時頃であった、太陽は出ており、少しずつ夏の影が迫っている、少し蒸し暑さを感じる季節であった。


『これはこれは、本日はお早いお帰りで・・・と老婆が久之助を出迎える。』


『新しい、着物は部屋に置いてありますし、お食事も台所に、お酒もお膳の横に置いてありますので・・・それでは、私はこれで家に帰らせて頂きますと。』と老婆は、すれ違うように、久之助の長屋を出て帰路に着こうとした。


『ウム・何時も助かる、気を付けて帰るのだぞ!』と久之助は老婆の仕事への感謝と、別れの挨拶をした。』


老婆の後ろ姿を見送った後、長屋に入り、久之助は一息小さくため息をついた。


老婆の帰った長屋には、久之助は独り残され、何時もの様に先ず仕事着を脱ぎ、部屋着に着替えをはじめるのであった。




久之助は、独り身であった。半年前に、最愛の息子と妻が流行り病で倒れ、突然家族を失っていたのである。25歳とまだ若いという事で、直ぐに良い縁談をと言ってくれる者は数多くいたが、本人の心の整理が未だついておらず、老婆に家事を手伝ってもらいながら独り身を通していたのであった。




部屋着に着替え、老婆が用意した食事と、お酒を居間に持ってきて、さあ、食事を始めようと言う時に、久之助はスッと部屋に入って来る人影が見えたような気がした。その人影はよく見ると、先程、宗治の部屋で見た女性であった。




『私じゃ、先程、会ったな、驚くでないぞ、何も食ったりするわけではない、怖がらないでくれ、只お主と話がしたいだけじゃ』と鶴姫は相手が驚かない様に、なるべく、気さくに優しく声をかけたのである。




未だ、昼であった事、そして自分の家だった事もあってか、驚きはしたが、久之助は2度目の気絶はしなかった。


自分が知りたかった謎を確認したいという欲求が恐怖に勝ったのである。




『貴女は誰ですか?どうして宗治様の傍に、そして今私の処に来たのですか?』と聞く、久之助の顔には恐怖の色は無かったのである。

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