人生劇場

人生劇場


 その長蛇の列は、どうしても崩れる様子を見せない。


 道に関しては一本道。どれだけ退屈で、そうして帰ろうとしても、狭い道の中に並ぶ人がたくさんいるから帰るに帰れない。


 物理的に不可、というのもあるだろうけれど、もとよりこんな場所から帰れないことは、この列の人間全員が知っている。


 そもそも帰る場所がないのだ。


 帰る場所があったら、そこにいるはずだ。


 ──なにせ、この列の正体は、死んだ人間による閻魔大王への謁見が主となっているからである。





 死んでから、なんとなくこの列に並んでいる。いつの間にか俺はこの列に並んでいて、身動きがとれない状況にいた。まるで物心がついた幼子のときのような気持ちを反芻しながら、ようやく体を動かせる感覚を思い出す。でも、それ以上に何かを思い出すことはできそうになかった。


 そうして前後にいる人達に話を聞けば、ここはおそらく死後の世界なのでは、という考察が行われていた。中には、自分が死んだということに気がついた瞬間に喚くものもいた。だが、全員この状況から抜け出せないことを知ってからは、泣くこともせず、ぼうっと前の列を眺めることしかない。


 結局、ここにくれば自分の状況についてを認識せざるを得ないのである。そういうものだと、自分で納得するしかないのだ。


 そんなこんなで長い時間が経っている。死後の世界に時間があるのかはわからない。時計もないから把握することはできないが、一日か二日、それ以上に待ちくたびれているような気もする。退屈が自分の時間を引き伸ばしているだけかもしれないが。


 そうして一人一人、目の前の城のような場所に飲み込まれていく。おそらく閻魔大王に謁見しているのだろう。一人ひとり対応しているせいだろうか、時間がかかるのは仕方ないような気もする。


「なあ」と声が聞こえた。


「お前、天国に行けるか? 俺自信ねえんだけど……」


 引き伸ばされた時間の中で仲良くなった前の人間に声をかけられる。


 この死後の世界がどのような宗教観で形作られているのかはわからない。だが、仏教の世界観で考えれば、ひとつの小さい命を踏みにじることがあれば地獄に落ちる。その罪の重さにより、地獄の段階も変わるらしい。とても重い罪を犯したのなら、深く永い地獄に落とされる、と生前に聞いたような気がする。


 キリスト教であればどうだろう。真に改心して、赦しというものを乞えば神の思し召しというものがあるかもしれない、けれども。


「目の前にいるのは閻魔大王なんだよな……」


 俺はぼうっと息を吐くように言葉を発した。


 あいにく、目の前にいるのは閻魔大王らしい。別に、それに確証があるわけではないし、それぞれ入っていない人間の憶測でしかないけれど、もし閻魔大王だったのなら、仏教の観念に近いものだろうと思う。


 悪いことをした記憶はない。だが、完全に善人だったと言い張ることはできない。そこまで自信を持って区別ができる人間は、それこそ天使か悪魔に近い極端な人間性だろう。


 そうして前の人間は城に飲み込まれていく。とりあえず頑張れよ、と声だけかけるが、彼の顔は不安を彩っている。それが普通の人間だと思う。





「次の方、お入りください」


 眼の前の扉が開く。役人のような格好をしたスーツを着た男が笑顔で俺を出迎えた。薄ら笑いを浮かべていて、胡散臭さを感じずにはいられない。


 とりあえず、数日お世話になった後ろの人間に一言挨拶を交わして、そうして男についていく。


 中は暗い。かろうじて役人の背広が見えるけれど、それ以外に視線を移せば、すぐに転んでしまうかもしれない。


 案内されるまま俺は足を運ぶ。しばらく歩いて「ここにお座りください」と、一つの椅子に案内される。その頃には視界の暗さに慣れてきたけれど、椅子以外のものは特に見当たらない。


「しばらくお待ち下さい」


 役人のような男は、そういって早々にどっかに消えていく。


 何もない空間。暗闇の中にひとりでいるこの感覚は寂しさを覚えて仕方がない。


 数日の間、人と片時も離れずに過ごしていたからかもしれない。この状況になるだけで不安を覚えてしまうほどに、心苦しい孤独感を覚えてしまう。


 ──そんな寂しさを反芻しているときに、それは始まった。





「いやあ、たいへんお待たせしてしまい申し訳ないです。すいませんねぇ、最近は人不足で仕事が回らなくて。ああ、ゆっくりしてください。そこまでかしこまらなくてもいいので」


 枯れた声が前方から聞こえてくる。タバコを吸い込みすぎて喉枯れしてしまったような、そんな声。


 胡散臭さを感じるものの、俺はとりあえず目の前の男に視線を向けることしかできない。


 男の足元には明かりがある。明かりがある、というよりは、天井から一点に男は照らされている。


 見えるのは、少しよれているスーツの姿。先程の男とは違う、年季の入っているような雰囲気のあるもの。古びてあせてしまったその色には、男が働いてきた年数を彷彿とさせるものがある。


「最近は自殺なんかも多くなってきたじゃないですか。そこまで思い詰めることもないんじゃないかって個人的には思うんですけどね。まあ、人の生き死にについて私は何も知らないので、深く首を突っ込むことは自分で許せないんですけども」


 男は書類のようなものと片手で遊ばせながら、ひょうきんそうな様子を崩さないままに言葉をつぶやく。


「ええ、と。……ああそうだ。すいません、名前とか覚えていらっしゃいます?」


「……あ、遠藤雅紀です」


 男が聞くので、俺はとりあえず端的に答える。長い時間待たされていたのだ、その間に思い出せることは大半思い出すことはできている。


「エンドウ、マサキさんですね。了解了解。いやあ、稀にここに来ると自分の名前を忘れているケースなんてのもあるんですよ。だから、一応名前を覚えているか、っていう初歩的な記憶の確認で今聞かせてもらいました。記憶がない場合っていうのは大概が投身自殺なんですけれど、きちんと名前を覚えているようでよかったです。本当に良かった」


 そう言うと、彼は遊ばせていた紙の束から、一枚の紙切れを取り出して、中身をじっくりと読み出す。


「……ああ、交通事故でなくなったんですね。痛かったでしょ。最近は交通事故での死亡は少なくなってきていますけれど、極稀に轢かれて死ぬ、なんてこともありがちですからね。極稀なのにありがち、とか矛盾しているような気もするけれど、実際そんな具合だからしょうがないって感じですよ」


「……そう、なんですね」


 饒舌に喋るなぁ、とかそんな印象を覚える。交通事故のときの痛みについてなんか正直覚えていないから、適当に相槌を打つことしかできなかった。


 ふむふむ、と男は言葉を繰り返して、手元の書類を何度も眺めている。そうしたかと思えば彼は立ち上がって、奥の方へと歩いていった。


 俺は彼が何をしているのかわからないまま、呆然と座ったままでいたが、間延びした声で「ついてきてくださーい」と呼ぶので仕方がないとついていく。


「なにか始めるんですか」


 疑問をそのまま言葉に出す。その言葉に、男は一瞬俺に視線を向けた。


「あれ? 聞いたこととかないですか。人間の世界だと割と広まっているような気がしたんですけど。ええと、『審判』と言われるものですよ。天国か地獄か、そういった話を聞いたことはないです?」


 なるほど、と俺は返した。


「少しでも時間を省くために皆様の常識に頼っているので、詳細についてはそこまで教えられないんですけど、まあ大したことはないですよ。大丈夫大丈夫、安心してくださいな」


 そうして男は歩みを進める。その歩調に合わせて暗がりの世界を進んでいく。


「いやあ、随分昔の話になるんですけど、死者数とかもそこまで多くはなかったんでね、こういった『審判』をやる必要もなかったんですよ。閻魔大王、というか部長が皆様の経歴を見て判断するだけで済んでいたんですけど、流石に人死にが多すぎますから『審判』でなるべく回すようになったんです」


 ……審判、というものがどういうものなのかはわからない。男は詳細を伝えてはくれない。へえ、と適当に相槌を打つだけして、移動を続ける。


 しばらく歩いていると、明るさが適度な場所にたどり着く。


 縦長の空間、その場所をよく見れば、左の上部から垂れ幕がぶらさがっている。床は木目のものであり、昔通った高校の体育館のステージを思わせる。もしくは劇場、その舞台裏といった具合だ。


 そんな場所にたどり着いて、男は立ち止まる。それを合図にしたように、俺も立ち止まると、男は言葉を告げた。


「ええと、それでは『審判』について説明させていただきますね。……あれ、台本はどこにやったかな。ええと」


 ポケットからまさぐるさまを見つめる。彼のポケットからはしわくちゃになった一つの冊子が出てきて、男はそれを見ながら台詞を続けた。


「今からあなたには『審判』を受けてもらいます。この『審判』を『劇場』と表現する方もいますが、まあ、概ねそんな感じです。今からあなたには演じてもらわなければいけません」


 ……どういうことなんだろう。余計に『審判』というものがわからなくなる。


 なんとなく裁判所のイメージが心のなかに合ったが、『劇場』という言葉が出てきてよくわからなくなる。


 確かに、俺が今いる場所はまさしく劇場の舞台裏といった感じだけれど。


「今から暫くの間、さまざまな場面が映し出されます。それに対して、あなたは演じなければなりません」


「……ちょっと待ってくれませんか」


 彼の言葉に食い込むように言葉を吐く。


「演じるも何もよくわからないんですけど、演じるんだとして、台本とかは……?」


 俺がそう言うと、彼はくすっと笑う。


「台詞なら、あなたは覚えていますよ」


 疑問に対して即座に答える男の目は、まっすぐに俺を射抜いている。その視線に動揺して、俺は黙るしかない。


 覚えている、というのはどういうことだろうか。


 続けますね、と彼は言葉を紡いでいく。


「とりあえず、まあ、演技をしてもらうわけなのです。ここで演技を完璧にすることができれば『天国』が約束されます。その逆はわかりますよね?」


 この先は自分で考えろ、そう示すような彼の視線。


 演じれば天国、できなければ……。きっと単純な話でしかないのだろう。


「説明は以上! わかんなくても、やってみればなんとなくわかりますよ」


 はあ、と俺は適当な返事をする。詳細を彼が話さないことをなんとなく理解したから、とりあえず俺はやるしかないのだろう。


 仕方がない。俺は息を吐いた。


「それでは、いってらっしゃーい」


 男の間延びした声に見送られながら、そうして幕は上がった。





 暗闇の世界にいる。


 自分はいつからここに立っていたのだろう。


 ぼうっとする意識に、そんな思考を働かせた。


 ──そして、暗転。





 あるとき、そこは埃の被った空き教室の中だった。


 人と関わることに気まずさを覚えている。そんな気持ちを反芻して、放課後という時間に彼女の存在を待っている。


 廊下にひたすら耳をすまして、足音が近づくのを感じる。


 静かな喧騒、外の運動部の声、吹奏楽部の鳴らす音。


 そうして、彼女がやってくる。


 ──俺は、この光景を知っている。


「ごめん、日直の仕事がさ……」


 遅れた理由を語る彼女に、懐かしいという気持ちを抱かずにはいられない。


 この場面についてはよく覚えている。自分がどういう言葉を話したのかも、すべて鮮明に覚えている。


「そういえば、話ってなに?」


 彼女は言葉を躊躇いながら、それでも俺にそう聞いた。


 誰かが俺と彼女の様子を見れば、告白の状況であることを理解できるだろう。そんな浮ついた空気の中で、男女の気まずい呼吸が占有する。


 息ができない感覚がした。俺は、それに怯んでしまったはずだ。


「……いや、なんでもない。ごめん」


 ──暗転。





 自分が演技をしているというよりも、演技を眺めている気分になる。演者でありながら、内なる自分は観客であるかのように傍観することしかできない。


 台詞は確かに覚えている。


 あのときの俺は気まずい空気を察して、告白する勇気を落とした。彼女から逃げてしまった。


 ほろ苦い記憶のままでしかない。


 でも、これではまるで演じるというよりも──。


 ──暗転。





 あるとき、そこは駅の待合室の中だった。


 スマートフォンを手元で遊ばせる。画面には知人のSNSの画面が表示されている。でも、それを話題にすることはなくて、俺は彼女に言葉をかけた。


「まあ、生きる上で自分を騙していくことなんて多々あるだろうし、仕方ないと思うな」


 俺は軽い口調でそういった。実際、言うことはもっともらしいと思う。


 社会に出れば、自分に対して嘘をついてでも、世界に貢献しなければいけない。それが社会に求められる人間というものであり、そうじゃない人間なんて……。


 彼女は俺の言葉に何かを返すことはない。俺は、そんな彼女に対してどんなことをしただろうか。


 ……覚えていない。思い出したくないからかもしれない。演者である自分の中にいる俺は複雑な気持ちを抱えてしまう。


「なるようになるよ、適当に頑張ろう」


 そんな言葉を俺は履いた。傍らで表示されていた電光掲示板に視線を移して、早く電車が来てくれないだろうか。そう祈ることしかできなかった。


 ──暗転。





 だいたいの感覚はつかめてきた。


 これは人生における一つの分岐に対して、もとある自分を演じればいいだけなのだ。


 なんなら演じる必要さえない。その時の自分が、その状況が、すべての場面を作り上げていく。


 その時の自分自身が、すべての言葉を作り上げていく。


 楽な話だ。俺はそれに乗っかればいいだけなのだから。


 これから先に起こるであろう場面に想像力を働かせて、俺は演技を続ける。


 ──暗転。





 あるとき、そこは会社の給湯室の中だった。


「無理し過ぎなんだよ」


 上司が俺に声をかけると、反射的に俺は泣き声を噛み殺そうとした。噛み殺そうとして、それでも上ずった声が漏れてしまう。なんてひどい泣き声だと、観客である俺はそう思った。


 大の大人がこらえられないほどに追い詰められている。先程の場面で自分を騙すことを雄弁に語っていたのに、それがすべて嘘のように涙をこぼしている。


 すいません、すいませんと俺は言葉を呟く。独り言のような小さな声音。


「いいんだよ。無理はすんなって。なんとかするから、ゆっくり休みな」


 彼の言葉に、俺はひたすら泣き声を殺すことしかできない。それでも涙は溢れ続けたのだけど。


 ──暗転。





 もとより、人とは演者である。


 自分自身という役柄を演じることこそが本来の生き方であり、そこから逸脱してしまえば自身というものを持つことはできないだろう。


 これが『劇場』と表現されるのにも頷ける。


 相違はない。


 俺は、演技を繰り返した。




◇◆


 あるときは道路の上で。


 あるときは病院の中で。


 あるときは墓場の前で。


 数えきれない場面の中。


 自分が自分に重なっていく。


 そうして演技を繰り返す。


 その、結末はどうだったろうか。


 ──暗転。





 あるとき、そこはマンションの屋上だった。


 屋上の扉は無理に破壊されており、誰であれ容易に入ることができた。だから、俺もその場にいたのだ。


「うまくいかないもんだよなぁ」


 うわ言のように男が呟いた。


 緑色のフェンスの向こう、彼の目は明らかにやつれている。今にも終りを迎えてしまいそうな雰囲気。それしか感じることはできない。


 ──これは、いけない。


 彼は俺の親友である。彼は俺の幼馴染である。彼は俺の……。言い出せばきりがない。


 人の命の自由について、その個人が所有するものだろう。だから、その命を捨てることに対して、俺は感情を抱いてはいけない。


 それでも、俺は目の前の命に対して身勝手な気持ちを抱いてしまう。


 人の命の自由。それが個人のものだというのならば、彼がその後になすことを止めることはできない。権利がない。


 死んでほしくない。そんな気持ちを抱くものの、それを止めていいのかどうかなんて、その時の俺には判断することができなかった。


 ──これは、いけない。


 彼の結末を知っているからこそ、その先の結末を見届けてしまったからこそ、その場面に対して存在してはいけない言葉が生まれてしまう。


 あのときの俺は彼の最後を見送ることしかできなかった。あれこれ考えて、俺は彼の最後を邪魔しない、そう選択をした。


 俺は彼から逃げたのだ。


 演技の上での答えは沈黙だ。そんなことはわかっている。


『その逆はわかりますよね?』


 頭に胡散臭い男の声がよぎる。


 わかっている。わかっている。そんなことはわかっている。


 わかっているんだ。


 そんなことは、きちんとわかっているつもりだ。


 ──だが、目の前の状況を反芻するたびに、すべてを台無しにしてでも、自分を逸脱しろと訴えてくる。


 ここにきてようやく理解する。


 俺は場面の分岐に立たされていたわけではない。自分が後悔している場面を追体験し、演技をする。それがこの『審判』なのだ。


 はは、と乾いた笑いが出る。その行先を、その想像を働かせて、俺は諦めたように笑う。


 ──俺は、喉を焼くような叫び声を屋上に響かせた。





「こうした『審判』に変わったのも理由があるんですよ。確かに閻魔大王と言われている存在もいましたけれど、個人の判断で命を比較するのはよろしくない、って批判をいただきましてね。それからはいろんな方法を模索して、結果『劇場』と言われる形式になったんですよ」


 男はよれたスーツを伸ばしながら語る。


「ん? ああ……。ええ、たしかにきちんともとある自分を演じることができれば『天国』ですとも。それができなければ、ただ地獄を味わってもらうだけですね」


 男はネクタイを整えながら、にやりと微笑を浮かべた。


「ここは死後の世界。何も失うものはなく、得るものもない。普遍だけが続く世界。そんな世界なのに、未練を抱いているのは最初から失っているのと同じですからね」


 男は、語る。


「彼ですか? もちろん地獄に落ちますよ。それは説明したとおりです」


 私は疑問を口にした。


「地獄がどんな場所か? ……そんなの、もう知っているじゃないですか」


 男はため息をついて、言葉を吐く。


「『この世』という名の生き地獄。すべての世界の中で、一番苦しみが多いと言われる場所。まあ、人生ってやつですよね」


 男は、語る。


「まあ、今度来るときも歓迎しますよ。そのときは、未練がないといいですね」


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