第5話 義兄妹の誓い(前編)


「惜しいな、地上であれば倒れていたのは逆であったやも知れぬ」


 力尽きて地にせる幼女へとにじり寄りながら、黄泉国の女王が感嘆の声を漏らす。


 敵地にて消耗戦を強いられた彼女は、まるで蜘蛛の糸に絡めとられた蝶のようであった。


「この生玉いくたまはもらってゆくぞ。十種神宝とくさのかんだからがなくば、もうあのような力は発揮できまい」


 そうして、彼女の首飾りの紐を千切ると、翡翠に輝く勾玉を持ち去ってしまう。


「さあ、我が黄泉の軍勢よ。既に千引岩ちびきのいわは取り除かれた。世界が原初の混沌へとすべき時が来たのだ!」


 女王の宣言を受けて、黄泉戦よもついくさ黄泉醜女よもつしこめ喊声かんせいを上げる。そして、俺がいる黄泉平坂よもつひらさかに続く通路へと押し寄せてきた。


 俺は慌てて柱の陰へと隠れる。円形闘技場コロッセオの天井を支える巨柱が幸いし、俺の身体がはみ出ることはなかった。


 しかし、これはとんでもないことになったな。イザナミの言葉が本当であれば、俺たちがいた地上は黄泉国と繋がってしまったことになる。


 生者と死者の境が消えた、原初の世界への回帰……まるで悪い夢でも見ているかのようだ。


 一方で、俺もまた地上に帰ることが出来るかも知れない。やつらが出て行った後をこっそり着けていけば良いのだ。


 総勢1,500からなる黄泉戦よもついくさ、それに付き従う黄泉醜女よもつしこめが続々と黄泉平坂を上っていく。


 そして、最後に黄泉津大神よもつおおかみイザナミが坂下に足を踏み入れ……ふと、傍らに侍る醜女しこめに声を掛けた。


「お前はここに残り、あの者にかまどの飯を食べさせよ」


 一瞬、それが自分に向けられたものかと思い、にわかに心臓が早鐘を打つ。しかし、醜女は踵を返すと祭壇に向けて階層を降りていった。


 どうやら俺ではなく、あの子への指示であったようだ。それもそのはず、俺の存在は誰にも察知されていない。


 闘技場を埋め尽くしていた軍勢は既に消え、先ほど指令を受けた醜女の他に姿は見えない。今が脱出の絶好の好機である。


 俺はまだ黄泉竈食よもつへぐいをしていないから黄泉国の住人ではない。生者のまま戻れば助かる見込みは大いにある。


……


……


 そう、黄泉竈食よもつへぐいとは字のとおり、黄泉国のかまどで煮炊きした飯を食うことだ。


 同じ釜の飯を食った仲という言葉があるように、これで晴れて死者の国の一員となる。


 あんなにも強く輝いていたあの子が、策略にはまって敗れ、勾玉を奪われて力を失い、そして虚ろな亡者へと堕ちてしまう。


 そんなこと……そんなこと、見過ごせるわけがないじゃないか!


 俺は駆け出していた。闘技場の観客席を落下同然に走り抜け、下卑げひた笑みを浮かべながらあの子の口へと握り飯を押し付ける醜女に体当たりをする。


 不意を突かれた身体が5メートルくらい先へと吹き飛んでいく。当たり所が良かったのか、衝撃がキレイに相手に伝わり、俺の体勢はほとんど崩れていない。


 しかし、油断してはならない。黄泉醜女よもつしこめもまた黄泉国の貴重な戦力、すぐに立ち上がってくるだろう。それに時間が経てば他の醜女も姿を現すに違いない。


 俺は気絶したままの幼女を背負うと、今度は観客席を一目散に駆け上がっていった。

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