第3話 幼女と女王


「俺は生きているのか、それとも死んでいるのか……」


 鬼と醜女しこめをやり過ごした俺は、しばらくその場を動けずに自問していた。


 ここが黄泉平坂よもつひらさかであるとしたら、このまま下り続ければ黄泉国よみのくにに向かうことになりかねない。


 一方で、地上に向かって上り続けても、いつ先ほどの鬼たちに見つかるとも限らない。まさに八方塞がりといったところだ。


 悩んだ末に……俺は、当初の予定どおり下ることにした。それは日本神話のある記述を思い出したからだ。


 かつて、イザナギとイザナミの夫婦神が日本の国土と神々を産んだ。しかし、ヒノカグツチという神の誕生によりイザナミが火傷を負って死んでしまう。


 イザナギは妻を探して黄泉国に渡るが、既にイザナミは死者の国の食べ物を口にする黄泉竈食よもつへぐいを済ませ、黄泉津大神よもつおおかみとして君臨していた。


 慌てて逃げ帰ろうとするイザナギに対し、イザナミは黄泉醜女よもつしこめ黄泉軍よもついくさ、そして八雷神を差し向けた。


 イザナギはそれらを退けながら黄泉平坂よもつひらさかを抜けて地上に帰り、千引岩ちびきのいわで道を塞いだという。


 つまり、坂を上ったところで出られないというわけだ。一方で、たとえ黄泉国に入っても食事をしなければ大丈夫かも知れない。


 あの鬼と醜女しこめもやがては引き返してくるだろう。今度も見つからずに済むという保証はない。それならば、少しでも隠れやすい場所を探した方が良い。


 そして、俺は洞窟内を下っていった。それは紛れもなく地の底に向かうものであり、決して足取りは軽いものではなかった。


 いくら理由を付けたところで、黄泉国に入るなんて正気の沙汰じゃない。僅かな望みに賭けて地上に向かう方が懸命だ。


 でも……きっと、俺は何かを予感していたのだろう。或いは、呼ばれていたというべきか。


 そして、洞道とうどうの先、黄泉平坂よもつひらさかの坂下に俺は辿り着いた。そこは洞窟内とは打って変わって広く開けた場所であった。


 黄泉国の詳細は日本神話には記述されていない。基本的には地下世界と考えられているが、それがどんなものかは想像の域を出ない。


 しかし、少なくとも俺の眼前に現れた光景は……そう、古代ローマの円形闘技場コロッセオに似ていた。


 俺の居る場所は最上階の通路であり、ぐるりと回った対岸の先には荒野が広がっている。その更に向こうは暗闇に覆われており、あれが黄泉国の本土なのだろう。


 下層には観客席のようなものが階層を成しており、千を超える鬼や醜女しこめが耳をつんざくような奇声を発していた。


 そして、最も下段に位置する場所。間近で観戦できる豪奢ごうしゃな造りがされた貴賓席には、この世のものとは思えぬ妖艶さを湛えた美女が座していた。


 古代の女王を連想させる大袖の白衣に、金糸の刺繍が施された緋色の帯を締め、琥珀色の管玉くだだまから成る首飾りを付けている。


 直感的に黄泉国を統べる黄泉津大神よもつおおかみ、イザナミであると理解した。


 伝承では身体は腐敗してウジが湧き、八雷神が取り巻いているとされるが、衣の下に隠しているのだろうか。


 しかし、それよりも――


 闘技場中央に設けられた祭壇。無数の鬼の屍が埋め尽くす中央。そこに立つ一人の幼女に、俺の視線は釘付けになっていた。


 粗末な貫頭衣かんとういと紐を通しただけの翡翠の勾玉。


 それでも、俺には彼女の方がよほど女王に思えた。


 これが俺とニギハヤヒ……義妹ハヤちゃんとの馴れ初めだ。

 

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