第4話
どうやら僕が思っていたよりも事は悪く進んでいたらしく、名前も分からない女性は革手袋を着けた手で逆谷地先生の腕を掴み捻り上げている。痛そうにしてるのもお構いなしといった様子だ。
「この子だぁれ」
細めた目で僕の足元から頭まで見回したあと、綺麗な声を放つ。しかし音とは裏腹に粘着質な話し方で、耳にへばりつく不快さが残る。
よく知りもしない相手を悪くいいたくはないが、否応にも生理的嫌悪や本能的恐怖に似た冷たい感情が湧く。苦手な人と接するときとはまた違う。嫌忌の念を無理矢理掘り起こされる、この感覚は一度だけ覚えがあった。
サンと出会って目を覗き込まれたときのことだ。
だから分かった。彼女は――
「妖怪」
漏れ出した言葉に、逆谷地先生を問い質していた彼女がグリンとこちらに顔を向けた。動き一つ一つが気持ち悪い。自然に導かれた思考か、強制的に引き出された悪感かは判断が付かないが少なくとも今はそう思う。
「よく分かったねぇ、君でもいいかな。可愛い顔してるし、本当は維ちゃんがいいんだけど特別だよ? 私に選ばれるなんて本当についてる」
「この子は関係ないでしょう?!」
「うるさい。うるさいなぁ。この子で我慢して身辺整理する時間あげるっていってるんだよ。大人しく受け入れてよ。それとももう済ませてた? ああごめんね女心が分かってなかったよ。私も半分はそうなのにね。じゃあ二人共一緒でいっか。私小食だから胃もたれしちゃうけどコラテラルダメージってやつだよね」
「貴方は……人を何だと思って……!!」
一を出せば百が返って来る。聞いてるだけで早くも辟易としてきたが、間に入らない訳にはいかない。刺激してしまったのは僕だ。
間に割って逆谷地先生を害している彼女の腕を掴む。中に芯のない感触、指が何処までもめり込んでいく。水風船を掴んでいる気分だった。
ぞわぞわと鳥肌が立って彼女を見上げる。逆谷地先生よりも背の高い彼女は至当、僕よりも高い。
街灯によって影のかかった彼女の表情は分からなかった。けれど笑っていた気がした。
「私とそんなに遊びたい?」
途端、彼女の腕が蠕動し始める。
放してはいけない、脳内に警鐘が鳴り響いて痺れる腕に力が籠った。
「影女!」
駄目押しとばかりに咄嗟に影の中の庇護者を呼ぶ。僕の影が女性の形を取り、半透明の黒い腕が幾つも飛び出て彼女を近くのブロック塀に縫い付ける。
こんな荒事の経験はない。況して人間以外が相手だなんて。
まあ今そんな文句はいっていられない。逆谷地先生を逃がすのが先決、最悪僕はサンが助けに来てくれるから。
「先生は逃げてください」
「駄目だよ。君はこの子を食われたくないんでしょ?」
僕の言葉に不安や懊悩で目を揺らす逆谷地先生をこの女は引き留める。余程自分の主導権なしには逃がしたくないらしい、さっきまで見逃す気だったのに。
移ろいやすいもののことを女心と秋の空とはいうが、女心も秋の空も彼女とは一緒にして欲しくはないだろう。
「僕は大丈夫ですから」
「私はこの子に合わせてるだけ」
拘束されて尚、余裕そうにこちらを笑っていた。
残念ながらこの言葉が空元気でないのが僕と繋がっている影女が教えてくれる。手の間から溢れる女を抑え込むのも限界が近い。
「早くここから離れて」
「逃げるな」
服を隔てても分かるほど一際強く蠕動したと思えば、溢れる肉々しい色の何か。
何に似ているかと聞かれたら迷いなくこう答える。
蛸の触腕、烏賊の触腕。
無脊椎動物にも酷似したそれが影女の腕を内側から振り解いた。
「影女! 先生を連れて少しでも遠くに!」
戸惑ったように波打った影は、いいたいことはあるだろうが僕のいうことを聞いてくれる。
影女のシルエットが逆谷地先生の影へと移り、水滴が落ちる音を立てて中へと引き込んだ。代わりとばかりに残されたのは僕にとって、僕の家にとって重要な木槌。
大切なものではあるが、一秒たりとも目の前の何かから視線を切りたくないため足で蹴り上げて掴み取る。
「それが武器?」
手足以外は人の姿を保ったまま、余裕綽々といった態度で影が走っていった方向に目を向けて話しかけて来る。重たくて湿っぽい音を立てて肉塊を地面に落としながら。
そんな様を見せられれば僕だって逃げたい気持ちで一杯になる。けれどそれ以上に精一杯の強がりで返そう。僕の感情は覆水だ。
「いや、ただの防犯用具だよ」
「の割に肝が据わってるね」
「ただ信じてるだけ、助けてくれるって」
木槌を持った腕を伸ばし、横にあるブロック塀に平の部分を叩きつける。中身の詰まった軽い音が辺りに響き、何時までも鳴りやまない。
音に反応してか、彼女の袖先から溢れる幾つもの触腕が苦し気に縮み上がっている。そのまま蛞蝓みたいに縮んでくれないかなと思うが、もう小さくなる気配はない。
この木槌は通夜の日に僕が頼ろうとしていた木箱の中身であり、サンが僕のご先祖様に特定の妖怪が来たときに打ち鳴らせと渡した木槌。
伝わっていた内容とも教えてくれた本来の役割とも違うが、今は僕のためにある〝ばけもの木槌〟だ。
「今のうちに帰った方がいいよ」
「何この音! すっごく不快!」
「直通の防犯ブザー鳴らしちゃったから」
またも役割と違うが、木槌を構える。
時間稼ぎに使えるものは使わないと耐えられない。使っても耐えられるか分からないのに。
「いいから、止めなよ!」
今の彼女は額に血管を浮かべて、見た目からして頭に血が上っているのが分かる。実に短絡的で、喧嘩童貞の僕でも読みやすい。
証拠に束ねられた触腕が真っ直ぐ勢いよく伸びて来る。その触腕を横から木槌、ではなく乗ってきた自転車を左手で掴み殴りつける。想定外の圧力にフレームが曲がり、きっとこの自転車にはもう乗れない。
「んぎぁぁぁ! ムカつく!」
元より広量な性格ではないのか。不快な音と抵抗する人間、何もかも気に食わないといった様子だ。これでいい。影女を追われるより余程ね。
「でもね、今ならまだ許すよ」
加えて情緒不安定なのか、怒りを唐突に収めた。何というか癇癪を起こした子供と接してる気分になる。そんな可愛い姿ではないけれど。ついでにサンに聞かされた妖怪の中にもこんな姿の存在は覚えがない。
「許されなくていいからさ、名前教えて欲しいな。ないなら妖怪としての区分とか」
どうせ答えてはくれないと思って問い掛けると、止まらなかった口が噤まれ間が空く。時折口が動いているのを見ると話すかどうかよりも、何と答えようか悩んでいる風だ。
「……しんの」
ボソッと呟かれた苗字としか思えない単語が耳に届き、同時に太い触腕がもう一度振るわれる。答えたからいいでしょといわんばかりに。
慮外の攻撃に大振りな自転車は間に合わず、小回りの利く木槌で殴り付けるがこれは重さが足りない。
勢いの残ったままに顔面を打ち払われ、視界が揺れて足元がふらつく。予期しない負荷がかかって首が痛いし脳も揺さぶられて全体的に頭が痛い。威力をなるべく抑えようとしてこれなのだから二度と食らって堪るか。
「ぐ、ぎぎぃ……!!」
来るであろう二発目に備えて、痛みに呻きつつも無理矢理焦点を合わせて顔を前に向ける。
「ばぁ」
悪戯染みた声が聞こえて、ピントを合わせたばかりの視界に肌色が迫る。
一に、これが何か考えてしまった。
二に、人だと気付いてしまった。
三に、受け止めようとしてしまった。
何処から出されたかも、本当に人なのかも疑問に思わないまま、自転車を捨てて両腕を広げる。
僕は目の前の肌色ごと触腕に顔面を打ち抜かれて、後ろに吹っ飛ばされた。
「ばーか」
思考が浮つく。
何とか目だけを動かして、自分の上に重なる先程の肌色の正体を見る。
それは、両目が明後日の方向に向いた熱のない、僕よりも小さい――
「まだ私のために役立ってくれてありがとうね」
考えが纏まってしまう前に、あいつの触腕が伸びて、僕の上にいたものを回収した。これ以上首は動かず、見ることは出来ないが湿った音が聞こえる。
サン、時間稼ぎは無理だったよ。
「ねぇねぇ戦い慣れてないのに何でこんな馬鹿なことしたの?」
「ぁ……が……」
泥が這いずり回るような音が僕の足元に近付いて来る。
流れ込んだ鼻血で喉が開かず悪態すら吐けやしない。ああでもいいか、無暗に悪いことしたら父さん母さんに会えなくなる。不悪口というんだったか。
「まあいいや、後でいくらでも聞けるもんね」
すぐそこにいるのが分かる。
人を逃がして死ぬんだから、まだマシだ。そう自分にいい聞かせようとするが、どうしても色々と未練が頭を過ってしまう。
サンに僕のお願いに付き合わせてしまったお礼も謝罪もしてないし、証に寝起きに関しての謝罪もしてない。高校生活も恐らくこれからが楽しい盛りだし、ようやく来た成長チャンスが不意になる。父さん母さんのお墓参りもあんまり出来てなかったな。これは今から直接会いに行くからいいか。
けど、死にたくないなぁ。
色々と回る思考の最中、痛みで意識が飛びかけたとき。
「達磨落しィ!!」
聞き慣れた狸の声が聞こえ肉が潰れる水っぽい音が響く。
「また遅れてしまった」
これまた聞き慣れた優しげな声と共に上体を起こされる。
それでようやく見えた光景は、道を塞ぐ程巨大な達磨とその上に座る、狸をそのまま人の姿にした存在。見慣れた丸い腹と知らなかった大きな傷、証だ。
なら、僕を起こしたのは。
「すまなんだ。帰ったら治してやるからな」
サンだ。遅いとはいうが手遅れになる前に間に合ってくれたのだ文句はない。
「影女と、一緒にいた者どちらも保護している。よく踏ん張った」
「山本様、潰したこれ抜け殻になってますよ」
「後に調べよう。不自然でない程度に人避けをしておけ」
「承知しました」
二人が軽く話を終えて、サンがもう一度僕を見ると、頭の痛みも首の痛みも鼻の痛みも少しずつ消えていく。
「痛みは消した暫し休め」
我ながら単純というか、緊張状態だったものが解けて、ここで意識の糸がプツンと切れた。
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