第3話
一時限目に滑り込みセーフをしてから時間は過ぎ、放課後になった。
授業の最中にも時折違和感を感じることはあったが大きな問題はない。いうまでもないことだけれど、股間ではなく腕の話。
今は終礼後の清掃時間、ゴミ出しを誰がしに行くかの押し付け合いをしている。
僕が行こうかというと提案するも、他三人が満場一致で面白くないからこれで決めると机に肘を立て構え始めた。腕相撲総当たり戦の開幕だ。
「僕、成長痛なんだって」
「だからやるんだろ!」
「無敗野郎!」
「栗毛跳ねっ返り!」
「何一つ罵倒じゃないね。というか情けなくない?」
母さん似な筈の栗色の跳ねた毛先を指で弄りながら嗤笑する。
実はここにいる三人、図体が僕よりデカいだけでこういった遊びから体育系の科目まで、僕に勝てたことがないのだ。身長の差が決定的な有利不利に働く種目でさえも。
「うるせぇ! 自然界でも弱ってるやつから狩られるんでい!」
「本格的に情けない……」
「どうとでもいいな。好きな相手を選べ」
真面目な顔をして諦める気が微塵もない三人を見て、仕方ないかと腕を構えている友人の手を握る。
思うように動かないという不安はあるが、ここで断れば揃って散々に煽り散らかして来るのがありありと目に浮かぶ。
「これで僕が勝ったらどうするのさ」
「二位決定戦の始まりだ」
「そうじゃなくて」
「この間駄菓子屋で当てたデッカいスーパーボールやるよ」
「いらない!」
「レディーゴー!」
「あっ!」
プライドをかなぐり捨てた上で負けたらどうするか、興味本位で聞いていたら不意を打たれた。
力の入っていない僕の手の甲は、あわや机につく、といった寸でのところで力みが間に合う。
何だ、思いの外いけるなとスタート時の位置へ引き戻す。顔を真っ赤にするほど踏ん張り、必死に引き倒そうとしている友人が面白い。
「ふんぬぉぁぁぁぁ!!」
「お前なら行ける! やれる! そんな細腕折っちまえ!」
「せめて疲れさせろ!」
あまり時間をかけてゴミ出しが遅れても怒られるだけなので、雄叫びを上げる友人を軽く捻ろうと一層力を入れる。
腕が倒れるに連れ雄叫びが断末魔に変わっていき、手の甲が付いた瞬間、項垂れて籠っていた力が霧散した。
「はい次」
努めて爽やかな笑顔で次の相手を促す。
意気軒昂と次の相手が僕の手を握り、鼻息荒く席に座る。今度は油断しない。
そうして残念ながら、三人合わせて一分も持たなかった事実が僕の記憶に刻まれることとなった。
「よし、二位決定戦と行くか」
「じゃあ僕ゴミ出しに行ってくるね」
「何でだよ!」
「やることないし……暇な僕が行った方が早く終わるじゃんか」
「ぐうの音も出ないな……」
別にゴミ出しが面倒とか思わないし、ついでに一ついい逃げしたいこともあるし。そのためにもゴミ出しは丁度いい用事なので、ゴミ袋の口を結び持ち上げて振り返る。
「それじゃ僕以下の順位決めておいてね」
それだけいい捨てて、廊下に飛び出して小走りで逃げる。後ろから猿のように喧しい声が聞こえるが、僕には関係ないもんね。
金属製の扉を開けて、みっちりと詰まったゴミ袋を中に投げ込む。既にほとんどのクラスが出したのだろう、奥まで行かずに手前で落ちる。
よし、と一声出して手を払って、あいつらが落ち着くまで何処で時間を潰そうか悩んでいると、近くにある倉庫の影に見たことのある人が座っていた。確か教育実習生として来てる女性だったか。
女子たちが話しかけているのは見たが、僕自身は話したことのない相手だ。正直名前も覚えていないけれど……何となく彼女の周囲の空気が重い。俯きがちに
幾許か悩んで、一度結論を出すが何となく良心が痛んで思い直してまた悩んで。今度こそ踏ん切りをつけた。
「どうしたんですか?」
声をかけることにしたのだ。
慣れないことをしているからか肌がピリピリする。
「ええと、稲生君?」
「はい。合ってますよ」
座ったまま僕のことを見上げた彼女の顔は眉も瞼も下がり、疲れた顔をしていた。とはいっても根本的な眉目は好く、好意的に見れば憂いげとでも表現出来そうだ。
「ごめんなさい、見えるところで休憩してしまって」
「ほんのちょっと、チラッと見えただけなんで」
庇っている訳ではなく、ただの事実なのに彼女は申し訳なさそうにまた謝罪の言葉を溢す。
このままだと休憩を中断して戻ってしまいそうな気がして、頭をフル回転させる。唸れ僕の口説き回路、やったことはないけどレパートリーの一つや二つあるだろ。
無駄な足掻きをしている間も一秒一秒は無慈悲に過ぎるもので、彼女は立ち上がってしまった。打って変わって今度は僕が見下ろされる。
ああもう、どうにでもなれ。
「そろそろもど――」
「名前教えてください!」
無理矢理彼女の言葉を断ち切り、名前を聞く。心の広い相手だとしても諸刃の刃な質問だ。
やはり怒ってしまったのか面食らったように固まっている。
それもそうだ。クラス全体に向けてといえど一度は名乗っているのに、目の前の生徒は覚えちゃいない。彼女は僕のことを覚えていたのに。
失礼なことをしているのは自覚していて、はっきりと彼女の顔を見ることが出来ず上目に様子を伺う。けれど彼女は僕の予想とは正反対に微笑を浮かべた。
「
「今度こそ、ちゃんと覚えます」
「そんなに気負わなくても大丈夫、何度でも教えるから」
疲れていそうな様子で尚、僕のことを気遣う態度が胸の奥底に焼け付いて、嫋やかな口調が耳を擽る。単刀直入にいうと僕はこの人を好ましいと思った。こんなに単純な男だったろうかと自身を疑るが、深く掘ってみれば恋心というには浅く、性欲というには煮えていない。この感情の名前が分からない。
「……どうかした?」
己の感情の動きに戸惑い、ジッと彼女改め、逆谷地先生の顔を凝視してしまっていたらしく、咄嗟に、何でもないです、と首を横に振る。
何となくこの気持ちを持っていることが後ろめたく、話題を早急に変えようと先程の様子への質問を投げかけた。
「さっき凄い落ち込んでましたけど怒られでもしました?」
「あっ、あれは実習とは関係がなくて……」
気まずそうに語尾が弱く消えていき、視線を右に泳がせている。
反応からして僕の質問の答えがあるのは私生活なのだろう、ただの実習先の生徒であるだけの僕がそこまで深入りしていい訳がない。余計なお世話だったかと後悔が過る。それが表情に出ていたのか逆谷地先生が僕の肩に手を置く。
「ありがとう」
「えっ?」
「私を心配してくれたんでしょう? あれ、自意識過剰だった?」
「いや、確かに心配はしましたけど……余計なお世話だったかなと思って」
「いいえ、私は純粋に嬉しかった。だからありがとう」
お礼の言葉と柔らかい表情に、頭の奥の方にある何かがチリッと火花を散らす。嫌な感覚ではない。強いて表現するなら引っ掛かっていた何かが取れたような感覚だ。何が、と聞かれたら返答には困るけれど。
「それじゃあそろそろ戻るね。下校は気を付けて」
頭の中の現象に気を逸らしていたら、逆谷地先生の休憩時間は終わってしまったらしい。
現状の浅い関係性ではこれ以上深掘りは出来なかっただろうが、結局気を楽にさせることすら出来ず、汗顔の至りでしかない。だから何と返せばいいのか分からず吐き出た返事は歯切れの悪いものとなった。
「あっ、えっと……はい」
「また明日」
軽く手を振ったあと、僕に背を向けて校舎の中に入っていく逆谷地先生を見送る。
姿が見えなくなった頃、無意識のうちに入っていた全身の力が抜けた。
自分のことは情緒が激しい性格だとは思っていたが、ここまで知らない方向に突っ走ったのは初めてのことだった。否応なしにも疲れてしまう。
「はぁ……」
僕よりも明確に感情豊かな相手に相談してみようかと考えながら、何となく視線を感じて見上げた。
「……」
「……」
ゴミ収納庫の屋根の縁に止まっていた烏と目が合う。
子供の頃、烏と目が合うと目玉を突かれるなんていわれたな、なんて呑気に考えていると。
「ア゙ー!!」
「うおわぁっ!!」
威嚇かただの鳴き声か、俄に上がった汚い鳴き声に僕は驚いて逃げ出した。
それから外に出るのが怖くて、真っ直ぐ教室に戻った僕は、教室にいた友人らに少し遅かったこととかいい捨てた言葉について詰められた。けれど全部受け流して鞄を背負い、用事が出来たからと別れる。折角待っててやったのにという言葉には謝罪をして。
向かうのは旧校舎、とはいわないまでも移動教室程度でしか行かない棟の、ほぼほぼ使われておらず倉庫と化してる教室だ。
当然扉は閉まっているが、廊下側の薄い壁の下にある仕切り、確か地窓とかいうものが開いてるのでそこから潜り込む。
埃っぽい室内を見回しつつ、目的の人物を見付けた。
ここにある物の中で唯一塵を被っていないが、経年劣化で黄みがかった人体模型だ。
「遊びに来たよ」
声をかけても反応がない。いや、普通の人体模型ならそれが当然だけれど目の前にいるのは特別、な筈だ。
しかし一向にうんともすんともいわない目の前の人体模型に、間違えたかなと不安になり始めたとき、金具で固定されている筈の頭が、ゴロンと床に落ちて転がる。
しゃがんでそれに手を伸ばすと閉じていた瞼が持ち上がり、血走った目がこちらを凝視した。
「おはよう」
「んもう、驚いてくれたっていいじゃないのよ! 乙女心分かってないわね!」
「君、男性体じゃんか」
「それはそうなんだがね」
彼は人体模型君、僕が入学するよりも前からこの学校にいた妖怪だ。厳密には七不思議とか都市伝説とかに分けられるらしい、細かいことは覚えていない。最初の邂逅時に君付けで呼んでねといわれたため、そう呼ぶことにしている。
先程の感情豊かな相手というのは彼のことだ。
だが相談の前に、転がった彼の頭を掴み、首から突き出た金具を胴体の穴へと差し込む。これで元通りだ。
「さてさて港坊や、何用かね? 甘い甘い青春の香りがするよ」
「そんなんじゃないよ」
「うっそだぁ!」
御覧の通り彼はとても元気がいい。過ぎるぐらいには。
相談してみようとは思ったが更に疲れそうな気がしてきた。
「で、相談なんだけど」
「絶賛思春期真っ盛りな高校生の相談とかラブしかないでしょ。あたい分かってるわよ!」
「お口チャック」
「はい」
真剣なトーンにすれば素直に聞いてくれるのはいいんだけれど、それまでがまあ兎に角五月蝿い。黙っても目が五月蝿い。今も、爛々とした目で僕の話を待っている。
でもそれも仕方のないことだとは思う。彼自身好奇心が強い性格ではあるのだが、手足がないのだ。胴体と頭のみの人体模型、自分で動くことが出来ない。だからおおよそ週一程度で来る僕を好奇心の捌け口と見ている節がある。
その代わり、ちゃんと聞いてくれるからこそ不明瞭で面倒な相談をするにも向いていた。
「でまぁそのね、さっき女性と話したのさ」
「ほう」
「そのときに何となくこう不思議な感情を抱いたんだ」
「不思議とは」
「うーん……何かこう胸の奥が疼くような?」
「淡くて透き通る恋心じゃん」
「違うって」
いやこればかりは本当に違う。何時だったかは忘れたけれど初恋をしたときの感覚は覚えている。
手を引かれているときに深く胸が高鳴って、幼いながらにどうすればずっと一緒にいられるか考えたものだ。
今回のはそれとは明確に違う。強いて近いものをあげるとすれば。
「昔おじいちゃん家の近くでやってた夏祭りかなぁ」
「郷愁の念じゃねぇか! 絶対小学生の夏休みが舞台の話好きだろ!」
「よく分かったね。ちなみに主人公の両親が出て来ると感情移入出来なくなるんだ」
「重ぉい!!」
冗談だって。
僕の宥める言葉を強がりと受け止めて号泣する彼に慰められていたら、日は既に空からいなくなっていた。残照で薄紫色の雲を遠くに見ながら、自転車を漕ぎ出す。
ちなみに今回の帰り道は遠回りをする。
今朝苦い思いをした細い路地を通りたくないとかそういうことではない。ないったらない。
そうして久し振りに通った覚えてはいる見慣れない道の更に先、数時間前に見知ったばかりの顔の逆谷地先生がいた。
呑気にこの道が帰り道なんだと思っていると少しばかり様子がおかしい。
目を細めて見れば、傍には知らない顔が一人、薄墨色の長い髪を持った中性的な人だ。恋人や友人というには険呑な雰囲気を纏っている。
「――」
「――――!」
この距離では内容は聞こえないが、何やらトラブルの気配がする。他人なら踵を返して交番に行くのだけれど知り合いとなると声をかける方が先決か。
まかり間違っても警察より自分が役に立つとは思ってない。しかし呼んでる間に何かがあったら寝覚めが悪い。
悪いことは重なるもので、腕の違和感が強くなり痺れに近くなってきた。絶対腕相撲が原因だ。
グッとハンドルを握り、力が入ることを確認してからペダルを回し、段々と近付いていく。
息を深く吐き、吸って、ブレーキをかける。
「どうしたんですか逆谷地先生」
声は震えていなかっただろうか。
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