第2話
僕は幼い頃から朝に弱い。それは十五の今でもだ。
高校入学で出来た友人とのメールのやり取りで夜更かししていたものだから特に。
けれども同居人はそんなこと知ったこっちゃないと、僕を揺り動かす。目に入る光が煩わしくて、深く潜り込めば殊更酷く。
「坊ちゃん! 起きてくれませんと証が山本様に怒られるのですよ!」
「……しらない」
「ご無体な!」
変に高い声を出しながら僕を揺り動かしていたのは、数年前のあの日以降に山本――サンが連れて来た証と名乗る雄狸だ。
お金が好きで、買い物に出ると何時も着いて来る中年狸、小銭を落とせば目敏く拾う守銭奴狸、だというのに僕にはたまにお小遣いをくれる小太り――ではなく、太っ腹狸だ。
毎日毎朝、寝起きの悪い僕を見放さずに起こしてくれるのも感謝しきれないが、寝起きの機嫌というのはまた話が別になる。
「坊っちゃぁん……起きてくださいよぉ。ほら、早起きは三文の徳というではありませんか……」
「いまなんじ……」
「五時です」
反射的に枕を投げ付けた。これ僕悪くないよ。
どうやら五時というのは冗談ではなかったようで、朝食が並べられている居間に来るため通った縁側から、初夏の薄明かりを眺めて実感した。
朝日が目に染みるというのはこのことで、眼筋がぎゅうっと縮むような感覚が辛い。
「起きたか。先に顔を洗って来るといい。目が覚めてないのだろう?」
居間に入ると、丸い卓袱台に配膳している角のないサンと目が合い、そういわれた。そんなに酷い顔してるかなとも思うが、生憎と顔を洗うのは後に回す。
朝食の焼き魚の匂いで、もう胃は動き出している。食欲が何より最優先だ。
「んーご飯食べたらね」
「昨日もそういって出来なかっただろう」
「最悪学校で洗うから大丈夫だって」
深く嘆息するサンを横目に、笑って誤魔化しながら食卓に付く、今はもう慣れた正座で。
その場には先程僕を起こした証もおり、畳の上の皿へ置かれた焼き魚の前に座って、だらだらと涎を垂らし魚と睨み合っていた。
今にも飛びついてしまいそうな様相で、野生が滲み出ている。
「山本様、手前は腹と背がくっ付きそうですよ」
「分かった分かった。ならいただくとするか」
せっつかれて配膳を終え、全員が手を合わす。勿論、丸っこい狸姿の証も器用に前足を合わせている。そうして、いただきます、と挨拶すれば、やはり証がいの一番にがっつく。聞き慣れてはいるが、ガチガチと噛み合う食事音がちょっと怖い。
「そういえば坊ちゃんもよく食べるようになりましたねぇ」
「んぇ、そう?」
食事に集中していた証に話しかけられると思っていなかったために、気の抜けた返事をしてしまった。
いわれたことを意識して、目の前の卓袱台を見る。今日のメニューは焼き魚に、目玉焼きが四つにウインナー数本と、これから混ぜる予定の納豆に、白米で山を作られたどんぶり、あと饂飩が一人前だ。
高校に入ってからというもの、食べては物足りなくてサンに追加で作って貰って、更に食べてというのを繰り返していたら何時の間にか、こんな量を最初から出されるようになっていた。
全て食べ切っても体重は少しも変わりない。
「ついに僕にも成長期が来たかな」
「おぉ! 体の痛みはどうですかな?」
「いや特には……」
「それは……ただの食い意地ではないか?」
「サン!!」
サンは自分が大きいからってこういうことをいう。一緒に出掛けると必ず日陰になるし、店に入ればサンの後ろに隠れて一名様に間違えられる。
そんな日々はもうさよならだ。小学生の頃から止まった成長の揺り戻しが来る。来るったら来る。
さようなら一番前の席、さようなら五年近く乗ってる自転車、さようなら最小サイズの制服。自覚した今日からは早く寝よう。
「その食い意地で――」
「成長期」
「……成長期のせいで五時に起こしたのだぞ? 昨日も遅刻だ何だと叫びながら食べていただろう」
「通学途中でお腹減ったら悲しいから……」
「分かりますとも坊ちゃん。手前も腹の中の隙間があると物悲しさを覚えます」
何時も何か入っていそうな真ん丸のお腹してるのに? とは思ったが流石に口には出さない。
しかし思ってしまったのは事実なので、饂飩を啜りながらお詫びにわしゃわしゃと証を撫で繰り回す。くすぐったそうに転がる狸は、中身がおじさんといえど可愛い。
「ながら食べはやめんか。きちんと全て食してからにしなさい」
仰る通りな小言をサンから貰ったので、お詫びの撫で回しを止めた。このまま続けていると朝食を下げられてしまう。それは僕には死活問題だ。昼まで堪えられない。
「その言葉、手前がまだ小さな野狸だった頃よく母にいわれていました」
「お母さん……」
「角含めずに七尺半あるぞ」
「お壁さん……」
「言い方を寄せるでない」
サンは話を区切り、もさもさと野菜オンリーのサラダをドレッシングもなしに食べる。この大男は基本的に肉を食べない。食べると何やら消化不良を起こすとは聞いたが、何故野菜のみでこれだけの壁になれるのか。ついでにいうと、証とはまた別の意味で横にデカい、力こぶを見せて貰ったことがあるが僕の足より遥かに太く、驚いたのは記憶に新しい。
まあでも、数年後には追い越す……までは出来なくとも差は縮められるだろう。
何といったって成長期なのだから。
今も溢れる食欲で食べ進め、残りは焼き魚と白米三割といったところ。
「追加で焼くか?」
「あっいいの? じゃあお願いしようかな。四尾」
「また騒ぐことになりそうだな」
「今日は五時に起きたんだから大丈夫だよ!」
大丈夫ではなかった。
結局あのあとも食べ続け遅刻ギリギリ、自転車で一時間もかかる高校に進学したのが間違いだった。
「弁当は影女に持たせてある。昼に受け取れ」
「ありがと! じゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃいませ坊ちゃん」
鞄を引っ掴んで、二人に見送られながら玄関の招き猫を撫でて飛び出す。
んぎゃぁご、と招き猫に扮した妖怪の鳴き声を聞きながら自転車を漕ぎ出した。
先程の招き猫のように、二人以外にも僕の周囲には妖怪が多い。
僕の影と一体化している影女、定期的に庭の草毟りをさせられている鎌鼬、証と何やら金勘定をしている八面鬼、何に影響されたか押し入れの二段目で寝る座敷童、あとサンに時折料理を教えに来ている名前は分からないが安寿姫の母と名乗る女性もだ。他にも色々といるが、片っ端からあげていたら切りがない。
人と同じ姿を取る者も多く、話してみなければ分からない場合も多くある。
存外、身の回りにもいるのかもしれない。
とはいっても僕が一人で相対したことなんて、サンのことを入れても片手で数えられる程度しかないけれど。
そうしているうちに学校まで後半分といったところにある、少し細い裏路地に差し掛かる。途端に両腕にビリビリっと痺れが走り始めた。ハンドルを切り間違える程ではないが少し煩わしい違和感だ。
だが今の僕にはこの違和感に心当たりがある。
そう、成長痛に違いない。
サンは食い意地だといってきたが確定だ。
僕は間違っていなかった。本当に成長期が来たんだと浮かれながらペダルに立ち、力いっぱいに自転車を漕ぐ。
もうすぐお別れになりそうだね自転車君、僕は夢の二十八インチに乗るんだい!
そんな邪念を頭に浮かべた瞬間――
「んぎょぇっ」
ズルっと踏み外したペダルが逆方向に一回転し、脛を強打。
「んんぎぃいぃぃぃぃ……っ! んぐむんぅぅぅ……っ!」
加えて立ち漕ぎをしていたのが原因で、サドルに思い切り股間を強打した。
股の間のブツから湧き上がる引き絞るような痛みに、脂汗をかきながら、地面に降り立ち内股気味にしゃがむ。影が揺れて、中にいる影女が心配しているのが分かる。
絶対この自転車、妖怪になりかけてるって。
当然こんな状態で自転車を漕げる訳もなく、朝礼には遅刻した。
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