第8話 こんな話は滅多に来ない
「主人は仕事で遅れますので。本日は私共で先に頂きましょう」
(焦らしやがる・・・・・!)
脳内アバターでは半眼で唸る伽乃であったが、現実アバターでは不満なしの綺麗な笑顔を浮かべる。
「伽乃さん」
「!あ、はい」
清らかな声で名前を呼ばれる。
しかし、それ以上にどこか懐かしい気持ちの脳が駆られた。
(親世代の女性の声、懐かしいんだ・・・)
母親が早期離婚によっていない伽乃にとって、母親の声というものに慣れ親しみがない。
(優しいなぁ。本心からの優しさじゃないのは分かってるけど、「伽乃」って呼んでもらえるの嬉しい。けど――)
「?」
伽乃の視線が自身からズレていることに気づくと、妻藤母は首を傾げた。
その様子に些か危険性を感じた奏が、そっと伽乃に近寄り、肩を叩く。
しかし、伽乃は表情を高揚と悲哀の二色に染めていた。
「伽乃“さん”、かぁ」
その一言に、その場にいた全員が凍り付いた。
客観的に見ればこの場の最も尊い存在の発言を否定している。
しかし、母親とは素晴らしいものであった。
「!伽乃ちゃん、硬くならずに、リラックスしてね」
「「「!!??」」」
男三人衆はギョッと妻藤母を見つめる。
「・・・・・・・ふぇっ!?えっ、と、あ、はい!」
ふと、自身の浮かべていた顔に我に返った伽乃は耳に届く声に目を合わせるが、数秒、それに思考が追いつかない。
「ごめんなさいね。自己紹介が遅れて。私は妻藤
硬直しきった空間に、凉子は平然と矢を通す。
「そして、これからは貴方の母親にもなるのよ。仲良くしたいわ」
「・・・・・・・」
これが本心か否かを判断するのに、数瞬の時を有した。
「お母さん・・・・に、なってくれるんですか」
「・・・・・・・えっと、伽乃様、奥様にそのような・・・」
辿々しく、奏が遮ろうとするが、それを凉子は制す。
「袴、よく似合っているわ。素敵な選択」
凉子は伽乃の服装に視線を落とす。
ダイニングに入ってきた際、燈夜と奏、それに凉子もとても驚いた。
夕灯と親しげにやってきたこともそうだが、それ以上に彼女の身なり。
――水色地に氷の結晶が刺繍された着物だったのだ。
袴はパステルな水色を主張しきならい濃紺で抑えた印象。
全体的に纏まった、非常にセンスのある選択だった。
と、配色のことは置いておき、問題は柄だ。
氷の結晶。
加えて、袴の裾には
袴然り着物然り、和装には季節に合わせるということが必要不可欠である。
それこそ、凉子が今日女中に持たせた和装の多くは、この初夏や少し時期尚早だが夏に合う柄だったはず。
あの袴は、先日呉服店でたまたま見つけた冬柄の着物だった。
しかし、これが実はマナー違反ではない。
真夏に着用する冬柄の着物には、夏の暑さを和らげるという意味がある。
現在は六月、初夏。
真夏の暑さに合わせることが多い冬柄にしては、それでも時期尚早。
しかし面白い。
「私は好きですよ。外出の際はまだ控えるべきですけれど」
凉子が微笑むと、伽乃は安堵したように肩を降ろした。
「良かった」
「えぇ・・・」
隣の夕灯が声を掛けると、伽乃も余所行きの声ながら返す。
「母さん、俺は?」
「夕灯は相変わらず和装が似合うわね。可愛いわ」
「俺もう中三なんだけど」
期待外の回答だったのか、夕灯が軽く頬を膨らませると、凉子はまたくすりと微笑んだ。
(素敵な人、いや、素敵な女性だ。)
伽乃は凉子をじぃっと見つめた。
仕草、気配り、会話、全てを取って、彼女は伽乃の理想の女性だった。
(あんな風に上品に微笑む女性が、本当に素敵な女性なんだ)
女の子の理想など、ほとんどは母親だ。
自らの理想はと問われれば、女優、アイドル、インフルエンサー、教師なんて答える人もいるかもしれない。
それらを憧れとしていたとしても、母親という存在の偉大さに誰も抗うことは出来ない。
伽乃は口を開いては閉じ、眉間に皺を寄せては悲しそうな顔をした。
「奥様は・・・・」
しかし、凉子は首を横に振る。
伽乃は躊躇った言葉を口に出来た。
「お母様は・・・・私の手を離さずにいてくれますか」
「えぇ。それが、母親ですから。伽乃ちゃんがいてくれる限り、母になった者にはその責務がありますよ」
二次元とは、人の心を満たすと同時に依存させる。
それまで感じていた感情を忘れさせ、あたかも今見ている世界が私を満たしていると錯覚する。
実に罠な存在である。
母親という理想を欠かせていた少女は、独り立ちをした瞬間にその理想を追い求めた。
太陽に心は温められない。
心を温められるのは思いだけ。
そして、頬を伝う涙の熱は、確実に少女の心に張り付いた孤独という名の氷を溶かした。
*****
「貴方。今日、伽乃さんと皆で夕食を頂きましたよ」
「そうか」
短く、父は答えた。
「燈夜はどうだった」
意外なところを突かれ、凉子は思わず首を傾げた。
「燈夜ですか?いつも通りでしたけれど」
今日、伽乃が涙を流した後、凉子は彼女が落ち着くのをゆっくりと見守った。
が、確かに夕灯は彼女に声をかけ続けていたが、燈夜と奏は早めに夕食を終えた。
「燈夜と伽乃さんがお話している場はまだ見ていませんね」
父の言いたいことを察し、凉子は伝える。
「そうか」
「お二人とも、まだ緊張されているのですよ。焦らなくとも、ゆっくり仲を深めるのを待てばいいですから」
凉子はフォローする。
今日の伽乃然り、16歳の少女に突然初対面の年上と仲良くしろなどあまりに無理がある。
幸いか、直近に彼女が妻藤の妻として公の場に出る機会はない。
焦る必要はないと凉子は考えていた。
「あぁ。そうだな」
父はズズッとコーヒーを啜った。
「お嬢さんは、どんな子だった」
意外な質問が飛ぶ。
内容が意外ということより、父から凉子へその質問が飛ぶことがおかしい。
「伽乃さん?貴方の方がよく知っていらっしゃるのではないのですか?」
凉子は伽乃の母になると宣言したものの、出会って時間は経っていない。
勿論、これからゆっくり彼女と仲を深めたいと思っているが、それはすぐに達成するようなものじゃない。
その点、父は伽乃との交流がある。
彼女の方はもう覚えていないかも知れないが、父と佐藤会長が親密な関係にあるのは昔からだ。
伽乃が生まれたと知らせが入った際を始めに、そこから何度も父は佐藤のお宅を訪問し、その度に伽乃に会い、また会話も膨らませている。
近年こそそんな機会は減ったが、それでも年間数多ある祝賀会やパーティでは彼女と会うこともあった。
燈夜の妻として名が上がった際、上品で美しい少女だと彼女を評価したのは父だ。
「いいや。もう私の知る彼女ではないだろう。祝賀会で拝見した彼女も、奥方にそっくりな女性だけだ」
凉子も、何度も佐藤夫妻とは面識がある。
しかし、奥様とお会いした機会は、僅か数度だ。
夫妻は、伽乃が3歳の頃に離婚している。
しかし、既に薄れた記憶の奥様と比べても、伽乃は彼女によく似ていると思う。
「確かに、伽乃さんはお上品で丁寧なお嬢様でした。けれどそれが“彼女”でないことも確かでしょうね」
「・・・・・そうか」
薄い反応だが、この沈黙は悩んでいる証拠だ。
取り立て、彼女の本性を暴く必要がある、なんてことではない。
彼女がずっとこちらに心を開かない可能性だって否定は出来ないし開く必要もない。
しかし、彼女に来て貰った以上、幸せな生活を保証する義務は我々にある。
彼女を生きづらくする理由がもしここにもあるなら、それは取り去る必要がある。
「燈夜は、お嬢さんと仲が悪そうだったのか」
「?いいえ。特別どうこうというご様子は見受けられませんでした」
仲が良い悪い以前に、交流が一切見られなかった。
燈夜が伽乃と関わろうとせず、伽乃もそれを察して何も自分から主張しなかったというのが状況説明として相応しいだろうか。
「夕灯とは仲がよさそうだったんだろう?」
「そうですね・・・。ダイニングにも二人で来られていましたし、既に仲が良いというのは見て取れました」
「・・・・・・・・・・・・・・・何故だ」
たっぷりの沈黙を経て、父は唸った。
凉子は眉尻を下げる。
「何故夕灯とは仲良くし、燈夜とは仲良くしない。あいつはそんなに圧が強い奴か?」
真面目な目線を凉子に向けてくるので、凉子はたまらず笑いが零れる。
「貴方、燈夜の気持ちが何も分かっていないのですね」
「何だと?」
心外だと言わんばかりの怪訝な視線を向けるが、凉子は微笑みながら言った。
「燈夜が恥ずかしがっているだけですよ」
女心が分からぬどころか、男心すら分かっていないなんて、と凉子は内心で笑う。
ダイニングに燈夜が入ってきてすぐに分かった。
伽乃の袴姿を見て一瞬で顔を赤く染めた燈夜に、彼女への愛情がなくなったわけがない。
「伽乃ちゃんが、燈夜の気持ちに気づく日が楽しみですね」
「・・・・・そうだな」
父は凉子の言った意味が恐らく分かっていないままぼーっと虚空を見つめた。
燈夜の不器用なところはこの父親の遺伝かと思うと、さすが親子と言わざるを得ない。
しかし、親が子の愛情に手を入れることなど、断じて許されないことだ。
凉子は再びくすりと微笑んだ。
――――――――
次話、爆発しております。
読み飛ばし推奨です。
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