第2話
ある晩そろりそろりと足音を忍ばせながら一人の女が芳一の部屋を訪ねてきた。
「お前さん、開けておくれ」女が言った。
芳一の部屋の襖にもびっしりとお経が書かれており、それは妖の類からは見えないもので、うっかり触りでもしたら大変だった。
「そういうお前さんは一体誰なんだ?」扉の向こうから芳一の声がした。
「あなたの妻で御座います」女は答えた。
「おいらに嫁さんなんかいないよ」芳一は驚きながら答えた。
「いいえ、私は妻で御座います」女は毅然とした物言いをした。「あなたの琵琶をお聴きした時から、妻になると決めたのです」
訳を聞いてみると、以前一度耳にした芳一の琵琶が忘れられず、遠路はるばる彼の噂だけを頼りにここまで訪ねてきたようだ。
そこまで聞くと無碍に帰す訳にもいかないような気がしてきたので、芳一は襖を開けて女を部屋に迎え入れた。
その時女の他にも色々な妖が部屋の中へと雪崩れ込んでいったのであっという間にぎゅうぎゅう詰めになったものだが、当の芳一はそれを知る由もなく何やら浮かれていた。
真夜中にいきなり女が訪ねてきて、妻になりたいと言うのである。いくら芳一とはいえ多少浮かれたとて不思議ではない。問題はこの逢瀬が仕組まれたものであり、その情事の顛末を見届けんとする見物客がわんさかといて、食べられるのは彼の方だということだ。
芳一は生涯独り身であったので、あまりの急展開にどぎまぎしていたが、廊下の暗がりから部屋に招き入れた女の姿に息を呑んだ。
それは名のあるお侍様しか見た事もないような上等な浮世絵に描かれでもしたかのような絶世の美人であった。目鼻がすっと細く線を入れたようになっていて、目元はまるで刃の如く切れ長で、指先は弦を奏でるが如く細く繊細に伸びている。なによりも彼女の表情や立ち振る舞いは死者を思わせるような儚げで冷ややかな静謐さを携えていた。
あまりの女の美しさに芳一は転げて腰を抜かしてしまった。そしてその女がいま自分の部屋にいるという事実に思い至り、彼の股間はそれはもう立派に膨らんだ。
その怒張は誰の目にも明らかであったが、芳一の姿はこの場にいる妖には見えなかったので難を逃れた。
だがそんな事情を知る由もない芳一は、この怒張を目の当たりにしても嫌な顔一つせずに涼しげな佇まいの女を見て、この女は今夜そうなる事を覚悟してきているに違いないと盛大な勘違いした。芳一は童貞だった。
一方で女の方はというと、別の意味で芳一の股間を貪ることばかり考えていた。
その女は太陽のように美しく輝いていたが、その陰気な雰囲気は月のようだった。芳一からしたらどちらでも良く、美しい女をものに出来る期待に興奮していた。
もしもこの話が漫画で描かれていたならば、芳一は鼻血を出していただろう。だが実際には滾る股間を手で押さえつけていた。
いまにも迸りそうな程に芳一の思いは限界を迎えようとしていた。
たった今初めて会ったばかりだというのに、そればかりか碌に顔さえ見ていやしないのに、随分昔から好きだった気がしていた。
どうにか手で股間を押さえつける事で、芳一は逸る気持ちを宥めていった。一息をついて、何か会話をしなくてはと思った。
「あ、いまお茶を淹れますね……」芳一は女に頭を下げて茶を淹れた。
その間目に見えぬ妖達は茶道具を求めて部屋を彷徨く芳一を避けながら、ぎゅうぎゅう詰めの秩序を保っていた。
二人は茶を飲み、深く深呼吸をしてから少しずつ話をするようになった。まるで見合いのようだと芳一は思ったが、すぐにその通りだと思い直した。
これは見合いなのだ。互いの思惑が共通する所の、最終確認の場であるのだ。
こんな時間に妻にしろと男の部屋に押しかけてきたからには、女もそれを望んでいるはずだ。
同じ結論が再度頭を支配し始めたので、芳一はまた慌てて股間を押さえつけたが、今度はもう抑えが効かなかった。
どうしよう、どうしよう。芳一は狼狽した。手で押さえても効かないのなら、何で股間を押さえればいいのだろうか?
その時脳裏を掠めたのはまさに女の絹のような柔肌と、足の付け根であった。
芳一は女の名を呼んだ。だが何と言葉を発したのかは分からない。その時まだ女の名前を聞いていなかった事に気がついた。
彼はあっという間に女の方へと駆け寄って抱き寄せようとしたものの、すかさず女も逃げ出したので追いかけっこが始まった。
二人がすばしっこく動き回る度に、部屋に押しかけていた見えない妖達はぎゅうぎゅう詰めのまま二人を器用に避けていった。
女が芳一の愛を拒んだのは、彼の体に書かれたお経に触れたら死ぬからである。といっても既に女は一度死んだ身ではあったが。
「なぜ逃げるんだい?」芳一が息を切らしながら尋ねた。
「いきなりは嫌……」女は答えた。「ゆっくりと落ち着いて、優しくして」
「でも、どうすればいいんだ?」芳一は本当に何も分からなかったのだ。
「まずはあなたの服を脱いで……」女は優しく妖艶に微笑んだ。
そこで部屋中の妖達はどよめいた。
「ついに芳一のアレを喰えるぞ!」一匹の妖が歓喜の声を上げた。
次々と喜びの声が湧き立つなかで、芳一はゆっくりと袴を下ろした。
だがそこには何も見えなかった。芳一は股間にもお経を書き込んでいたのだ。
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