あの日憧れた視線の向こう側で

@puroa

拝啓。親愛なる***へ

 居酒屋に子どもが居る状況って、変だろうか。塩原天花は考える。


 時刻は午後六時半過ぎ。テレビでは、ぼちぼち年末のおせちを宣伝し始めるこの時期は日の入りが妙に早く、天花は身を捩るような冷気に襲われる。

 高校の入学前に背伸びして買った大きめのローファーは、歩きにくい事この上ない。

 不規則なリズムで靴底を鳴らすヒールは、薄暗くなってきた中で気を付けないと転んでしまいそうになる。


 だからこそ、通りかかった居酒屋の前で子どもが飛び出してきたのを、目で追わずにはいられなかった。


 転んではいない。けれど度肝を抜かれたような気分に目をぱちくりさせる。

 お酒を飲む場所、という固定観念の据えられた居酒屋での食事なんて、天花はてっきり大人の専売特許だと思っていたから。

 ホッと出たため息は、十一月の冷気に晒されて白く曇る。


 等間隔に並べられた婀娜めく檠灯たちは、もうとっくに歩き慣れたハズの通学路を見たことのない路へと変化させる。

 何の変哲もないただの路がこんなに煌めいて見えるのは、いつ以来であろうか。咄嗟に手繰り寄せた記憶の中でもっと新しいのは、姉と見に行った縁日くらいだ。新しいと言っても、もう十年と少し前の話だ。

 大人だったら、まだそうでもなかったのかもしれない。まだ十六年かそこらしか生きていない彼女のなかでは、特にそう感じてしまって。


「……ん。ダメだね今日は。ダメダメだ」


 そう言って塩原天花は、夜の通学路を歩き続けていく。

 彼女はまだ、大人への旅の途中。




 ***




「え~バーまで行ったんだ。羽崎ちゃん大人っぽい!」


 後日。蛍光灯が規則正しく並べられた廊下、窓から差し込んだ陽の光と風が交わる一角で女子の集団が形を成していた。数名でごった返す妙に色気づいたそのグループは、頭をゆらして賑わっている。

 友人から自分に向けられた黄色い声に、その集団の中心にいた “羽崎” と呼ばれた女子生徒が頬を緩める。


「まぁね。でもやっぱりダメ。なんて言うか、相手がちょっとね」


 会話の、そして女子グループの中心にいる彼女は、得意げにほほ笑みながらその声に答えた。彼女の長い髪からふんわりとシャンプーの匂いが香り、首に付けた香水とともに乱反射していく。

 センスのある人には分かる、高級感のある香水。前髪を留める髪留めがきらりと光り、首元の当てた手とブレザーの袖口から覗くブレスレットが、羽崎の女の魅力を引き立てるように添えられている。


 そんな彼女を、周囲の女子が羨望の眼差しで見つめながら、話は進んでいく。


「なんかあった? 無理矢理飲ませてくるヤツだったとか」

「あー。まぁそんなんじゃないけど。単純にブッてくるから無理ってハナシ。アイツ、通とか言ってるくせに注文のとき噛みまくるのよ。格好ツケたいの見え見えで冷める。いっそ居酒屋で、馬鹿みたいに飲んだ方がマシだったわ」


 男の話を、羽崎はしゃあしゃあと喋り続ける。その男について、もはや顔さえ思い出せないのに。


 取り敢えず、そこそこ悪くないと思ったのは記憶している。だが勘違いした発言と言動を繰り返してくるだけの男に、付き合っているほど天花も暇ではない。

 ラインもインスタもブロックして、沈黙させたスマホがその証拠である。朝起きた時の通知量の多さには、多少背筋が冷えたが。


「詳しいですな~そんな勢いよく、ポンポン男つくれないよ? 大人っぽくて羨ましい。恰好良いし」

「大丈夫だって! ソッチもその内イイ男見つかるって。素材は良いんだから自信持ちなよ。天花」


 その話を聞いていたのが、塩原天花である。




 ***




「おねーちゃん。大人っぽいって、何なのかな」

「んー」


 その日学校から帰った天花は、幾らか歳の離れた姉にそう質問した。彼女の帰宅まで待たねばならなかったので、外は既に暗い。

 ちなみに言えば、天花の姉は夕食より風呂が先派閥に属する人間であるので、そういう意味もあってかなり遅れた訳だ。ただでさえ高校教師という名の激務をこなす姉は、メンタルの面でも大いに参考になる。


 彼女の姉でもある塩原陽子はバスタオル一枚でダイニングの椅子に腰を掛け、スマホを弄りながら、妹の作った夕食を食べる。彼女のことを向いの椅子から正眼で捉え、意を決して質問する天花。

 姉妹だから似ているとよく言われてきたが、動作も含めて、これではまるで鏡写しのよう。バスタオル一枚であること以外は、今の天花と全く同じ状態である。


「羽崎か。最近仲がいいとは思っていたが、変なところで影響を受けたな……」


 考えを見透かされ、天花は少しドキッとした。


 だが、べつに驚くようなことじゃない。姉の勤務先は、天花の通う学校でもあるのだ。いつも同じ学校に居て、決まったクラスに科目を教えている以上、多少の人間関係くらい把握していても不思議じゃない。

 不思議ではないのだがその合理性とは裏腹に、天花の表情は薄暗く揺らいでいた。


「まったく、可愛い妹め」

「ちょっと、もう止めてよ! もう高校生になんだから、いつまでも子ども扱いしないで! そういうの、高校までだって言ってたじゃん」


 陽子はそう言って天花の方に手を伸ばし、頭をクシャクシャに撫でつけた。妹を褒めちぎり甘やかす際に彼女がいつもする、癖のようなもの。

 普段はお堅い教師をしている陽子は対照的に、天花の前でだけはその朗らかな相好を崩したことはない。

 勿論、そうしてくれるのはプライベートな時間だけで、授業の時などは別であるが。


(だけど、そういうのも全部、お姉ちゃんが守ってくれてたんだよね……)


 胸の奥から立ち込めていたどんよりとした暗い感情が、どこか薄らいでいくように感じた。

 高校生にもなってまだ姉離れできていないことが、どこか気恥ずかしくもあって。


「そりゃ、JKなんて子供みたいなものさ。天花にだって、そのうち分かる」

「はいはい。高校教諭のお仕事、ご苦労様です」


 だが、それはそれとして、胸の内はモヤモヤしていた。姉に心配されている事、姉に気を遣われていること。

 姉が天花の学校に赴任した時、姉が真っ先に心配したのは、天花の虐めの事柄であった。教師の姉と生徒の妹が、同じ学校にいる。それだけで悪目立ちしてしまい、虐めの標的にされるには十分だと思ったからだ。

 別に天花自身は虐められることはなかった。普通に友達も出来たし、姉の悪癖やモノマネを言い合ったりもしている。

 実際、陽子がバスタオル一枚で歩き回ることさえ、クラスの間では周知の事実だったりする。


 格好良い大人というならこうなりたいと、天花は切にそう願う。いつも気だるげでだらしないけど、天花にとっては陽子こそ理想の大人だ。


「あれ? お姉ちゃん、その写真どうしたの? どこのお店、それ」


 不意に、陽子が眺めていたスマホの画面が天花の目に留まる。

 陽子が天花のことを褒めて、頭をナデナデするためにテーブルの上に置いたスマホ。そこには、女子高生も気になる、色とりどりのお洒落な料理が並んでいた。

 ただ邪魔だっただけで、特に意味もなしに放置されたスマホの画面は、既に暗くなりはじめている。

 それさえ貫通してしまうほどの圧倒的な魅力に、夕飯中なのにお腹がキュッと胃酸を発した。


「……あぁ、これね。以前先生方みんなで飲みに行った時の記念さ。別にインスタに挙げるわけでもないが、こういうのは残しときたいだろう?」

「へー。お姉ちゃんでもそう思うんだ……」


 グイッと麦茶の入ったコップを呷りながら、お堅い姉の乙女チックな一面に感心していた。目を細めて眦を下げ、コップの淵を引き抜いた唇の隙間からほぅっと息を吐くと、天花は以前見た居酒屋のことを思い出した。

 もう二度と思い出さないと思っていた埃を被った記憶。

 だがその影響はなぜか大きく、姉のスマホに映った料理の写真と併せて、どうしようもなく天花の心を引き付けた。


「でも分かるよ! 写ってるお料理、すっごい美味しそうだもん! 天花も行ってみたい」


 


「……」


 だが姉からの反応は、あまり芳しくないものだった。それどころか目を虚ろにして、泳がせている始末。このお堅い女は堅実な性格の分、天花よりも嘘を吐くのが苦手であったらしい。


「あ~そうだね。いつか二人で行こうね。……いつか、ね」


 しばらく黙り込む時間が続いた後、こう言った。絞り出すように台詞の末尾まで述べた後、どこかを見るように遠くを見つめる。

 姉の視界から追い出された天花はそんなことも意に介さず、自身のスマホを持ってすかさず聞き返した。


「それで? このお店どこにあったの。場所調べてあげる」

「いや、別に今からでなくても良いんじゃないか……? 夕飯中にスマホをもつのは、作ってくれた人に失礼というものだしね」

「私が作ったんだよ」


 当然の突っ込みを返して繰り返す、二度目の沈黙。一言を発するたび、姉の立場がズルズルとずり落ちてきているのが分かった。


「何か、隠してるな?」

「はい」


 そうしてこの瞬間、天花と陽子の立場は逆転する。

 がっくりと項垂れて首を縦に振る姿は、まるでどこかの取り調べのようだ。


「自分で言ってみ?」


 目の前で左右の肘を机につき、指を絡ませる妹に、陽子はクスリと笑う。項垂れて前髪に隠れていたから、表情こそ伝わりはしなかったが。

 自分を叱る妹の様子は、今はもういない誰かに似ていた。


 陽子の目に映る、今はもういない人の存在。

 彼女にとって恰好良い女性像というのは、そういうものだ。生まれてくるのが遅かった天花は、その事実を知らない。


「この店四件目で……大分酔ってたから、記憶が曖昧なんだよね」

「なんじゃそら」


 恰好良い大人が何であるか、彼女が気付く時は来るのだろうか。

 天花が人生の階段を登り切る日は、まだまだ遠い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日憧れた視線の向こう側で @puroa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ