第54話

 スターと言えども楽屋は狭いものだと思っていたのに、鉄枝の楽屋は広かった。大の大人が四、五人歩き回ってもぶつからないぐらいの余裕があった。

 しかしオルゲルは落ち着かなかった。そばにはナディアもいるし、付き人かボディガードらしい連中も一緒にいる。とは言え、全く現実的ではない鉄枝という存在が、お茶を飲んだり、足を組んですぐそばの椅子に座っていたりするのは、かえって幻想的な光景だった。

 ミュリエルのかつらを脱いだ鉄枝の髪は、紗白の髪に近い銀髪だった。

最初こそかたまっていたオルゲルだったが、鉄枝もナディアも他の付き人たちもみんなとても明るくて気さくで、そのうちなんの無理もいらなくなった。クローゼットの衣装を見せてくれ、仕事にまつわる笑える話をたくさん聞かせてくれた。それにしても鉄枝は普通に大口を開けて笑う。ついさっきまであれほど重厚な舞台を見せていたとは思えない。

(この人がついさっき私がその演技を見て泣いた人なんだよね?)

 お茶はヒカリ茶で、オルゲルも鉄枝の付き人にいれてもらったのだが、味わうどころではなかった。しかしこの時のヒカリ茶の香りだけは、きっとこの先ヒカリ茶を飲むことがあるたびに思い出すんだろう、とは思った。

「あ、そうだいけない、君はまだ若いんだった。お菓子ぐらいないとだめだよねえ」

 そう言って鉄枝はナディアを呼んだ。今持っていくからという声がしたと思ったら、ナディアがカステラを持ってきた。

「ゲンザからオルゲルが見にくるかもって聞いてから、やっぱりこれよねえって」

「ほら、召し上がれ。おいしいんだよ。オペラニアに来たらこれを食べなきゃ」

 すすめられるままに口に入れたカステラは、カラメルの部分に今まで食べたことのない風味を感じた。コーヒーとチョコレートに似た香りや風味がそれぞれ入っているようだった。それでいて純粋なカラメルの味もしっかりしたもので、食べたことのない味だった。オルゲルは思わず笑顔になった。が、それにしても目の前で芝居のセリフではない言葉を発する鉄枝、芝居ではない仕草をする鉄枝、いずれもオルゲルには受け止めきれないものがあった。カステラは今まで食べたものとは比べものにならないくらいおいしかったが、恐らく食べ終わって十分もしたら味を忘れてしまうだろうと思った。

 自分一人のためにどうしてこんなにサービスをしてくれるんだろうと思ったが、どうしてと鉄枝に訊ねた瞬間全ての魔法が解けてしまうような気がした。

 談笑しているとナディアが唐突に言った。

「鉄枝、例のお話忘れてない?」

 すると鉄枝は「そうだった!」と言って、クローゼットの隣にある観音開きの棚を開けた。

 そこから出てきたのは高さ三十センチほどのからくり仕掛けのオルゴールだった。それを見てオルゲルは声を失った。

「それお父さんの……、なんで」

 思わずそう言ってしまったが、言ったそばから父の作品であるという自信がなくなった。よく見るとどこか違って見える。

「当ったりー、よく分かったね。さすが娘だ」

「本当にそうなんですか? 今そう言っちゃったけど自信なくて」

「そうだね。後からの響平君の作風とはちょっと違うけど」

 鉄枝はそう言って螺子を巻いて手を離した。曲が奏でられ、それと同時に七宝で作られた燕がくるくると回った。燕は李の花を咥えている。曲は聞いたことのないものだった。

「これは珀花の昔話『飛李ひり』にちなんだ歌でね。珀花の古い古い歌なんだ。とても好きな歌だったんだけど、昔の歌はみんななくなってしまったからね。何か一つでも一部でもいいから形に残したくて、いろんな職人にオルゴールづくりを頼んだんだ。でもみんな断られて。響平君だけが応じてくれたんだよ」

 父が無量寿に対してそれほど気前のいい職人とも思えなかったので、きっと無名時代だったから応じたのだろうとオルゲルは思った。

「響平君には他にもたくさん作ってもらったんだ。でも最初に作ってもらったこれは特別。お互い試行錯誤して喧嘩もしながら作ったからね。だからつい楽屋にも持ってきちゃう」

「知りませんでした」

 飛李というのは一羽の燕がある不実李の枝の一部をちぎって咥え、その不実李は遠く離れた別の場所に根付づいて再び花を咲かせたという物語である。

「もともと僕は演奏家になるように育てられてきたんだ。でもあんまり好きじゃなくて、彦郎剣を習い始めた。でもそうしてたらひとえの舞踏家にスカウトされて、一度だけその人の後ろで剣を振るうだけの出番をもらったんだ。それから単の道に進んで、今は踊ったり演じたりだよ。響平君が前に手紙の中で言ってたよ。娘たちにピアノを習わせているって。いつか古い珀花の音楽を娘たちがピアノで再現してくれたらとも言っていた。君がピアノをやめたことも教えてくれたよ」

 呆然としているオルゲルに、鉄枝は「君と僕は似ているね」と言って微笑みかけた。


 燕巣に戻ったゲンザは、日が暮れるまでは仲間たちの仕事を手伝い、暗くなると公園の倶李の本体に会いにいった。懐にはカブトワリの短刀を入れたままだ。

 倶李にはゲンザの心の内がすでに見えている。

『お前もまた根無し草とは気の毒だな。まあ餞別代わりにその短刀を見てやってもいい』

(本当に助かる)

 ゲンザはそう言ったが、いざとなると出せなかった。ちょっと待ってくれと言い、それからまた出せないまま、結局「やっぱりやめる」と言った。

『紗白を差し置いてこれ以上調べるのは気が引ける、ということか? だがお前にとっても時夫は身内同然じゃなかったのか』

『実の親子じゃ重みが違うさ』

『ふん。まあでも一つだけ言ってやる。この短刀は作られてからこっち、お前しか切っていない。あとは試し切りで木や金属を切っているぐらいだ』

(そうか……。ありがとう)

『今日のお前、なかなかよかったぞ。まあドジもあったが』

 そりゃどうも、とだけ言ってゲンザは公園から出ていった。

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