第52話

 今までで一番一人になってはいけない場所で一人になっている。しかもひたすら走っている。まずいことは分かっていたし、実際恐くて仕方がなかった。

 ちらりちらりと人の目がこちらへ向く。ますます恐ろしい。でもこの目は走っている女の子の姿に向けられているものであって、無量寿オルゲルに向けられたものではない。

 あの涙の谷から生還して以来、やっと初めて無量寿オルゲルを見る目からオルゲル自身が解放されている。

 一人になった。全力疾走。あとは何がしたいか。オペラニアでのショッピングも喫茶店巡りもどうでもいい。思い切り叫びたい。

 走っていくうちにどこからか歌声と歓声が聞こえてきた。近くで屋外コンサートでもやっているようだ。音のする方に目をやると広場のようなものが見えた。オルゲルはそこをまっすぐ目指し、広場の人ごみの中にまぎれこむと、歓声の渦の中で体中から自分の声を吐き出した。

 一度ではなく、二度、三度。あまりに大きく、また披露されている歌の反応にそぐわないので、これまた視線の的となった。

(さすがにやばいな。帰ろう……)

 オルゲルは人の輪からするすると退場していった。一応、どういう道を辿って来たかは覚えている。

『気は済んだか』

(別に。まあでも大声出せたのはよかった)

『ならよかった。オルゲル、悪いがここから先は目立たずに行けよ。お前を狙っている連中がいる』

 恐怖でオルゲルの全身の血が凍りつくようだった。

『もう走るな。歩いていけ。なるべく誰かの近くにな。安心しろ、ゲンザがお前を追っている。もうすぐ追いつくから、最悪のことにはならない』

(本当に? 私を安心させようとしてうそはやめてよ)

『お前がバルバラからはぐれることぐらい、誰だって見越している。でなきゃオペラニアで外出なんて許すわけないだろ。ま、今はとにかくまっすぐ、静かに歩いていろ。それが一番安全だ』

(私を見ているのはもしかしてラウル?)

『ああ。今んとこ一人みたいだが、仲間を呼ばないとも限らない。気をつけろ』

(うん。どの辺にいるか分かる?)

『お前の、そうだな、十メートルばかり後ろを歩いている』

(……後ろは見ない)

『そうしろ。ただあいつは今お前との距離を詰めにかかっている』

(うそでしょ。どうすればいいの。いやだ、本当に恐い……)

『威勢よくバルバラを振り切ってきて、今さら何を言ってる。なに、向こうも相当恐がっているようだぞ、お前を。空気で伝わってくる』

(空気で分かるっていうんなら、ゲンザさんはいつ助けに来てくれるの?)

『まだ距離はあるが、すぐに来られそうだ』

 例えそれがうそか気休めだったとしても、オルゲルには信じるしかなかった。

『オルゲル、どうやらラルフがお前に声をかけようとしているぞ。息遣いがそんな感じだ。ただ奴一人みたいだな。他にお前を狙っているような気配はない』

「オルゲル!」

 ラルフの声が後ろから耳に入ってきた時、ひどく汚らわしさを覚えた。この声を二度と聞きたくなかった。名前を呼ばれるなど、なおさらだった。ましてやオペラニアの往来でなど。

 そして今さらながら、こんな珍しい名前を自分につけた父を恨めしく思った。

 オルゲルが振り返ると、一生見たくなかった顔がそこにあった。

「さっきの、劇場では俺が悪かった。すまない! それに、それに、月のことも、俺が悪かった。ずっとお前に謝りたくて……!」

 オルゲルにしてみればひたすら不愉快でしかなかった。ラウルに謝って欲しいとか償って欲しいなどと思ったことは一度もない。こちらが許すも許さないもない。一生関わりたくないだけだ。

 だがそれにしても今のオルゲルの問題は、今この場をどうもたせるかであった。

「それは別にいい。それで、今ラウルはどうしているの? なんでオペラニアにいるの? ドリントの家にはもういないの?」

 竹子とミヤコからラウルは実家から家出したと聞かされた。それでなぜオペラニアにいるのかは気になる。

「よ、よかった……。もう怒ってないんだな。あ、ありがとう」

 相手に許して欲しいと思えば、それでラウルの中で償いは半分済んでいる。

 一年余りの年月を経て、それがラウルの得た理屈なのだとオルゲルは理解した。

「もうその話はいいから。今あんた何してるの?」

「知り合いの家に居候しているんだ。そっから学校にも通ってる」

「ふうん、そうなんだ。ま、元気でやってて。じゃ、私行くところあるから。もう行くね」

「待ってくれ」

 ちょっと時間ないからと言ってオルゲルはラウルを振り切ろうとした。

「やっぱりまだ怒っているんだな……。そりゃお前が恨むのも分かるけどな、あの時お前が割りこんでこなけりゃ、あんなややこしいことには」

 オルゲルは自分の声をかぶせた。

「他に行く所あるから、あなたと話してる暇ないの。悪いけど、じゃあね」

 話したくないというのもあったが、恐いというのが正直なところだった。

「俺はお前のために散々世間から責められて、俺なりにすげえいろいろ考えたんだぞ、もう少しお前も考えてくれてもいいだろう」

 ラウルの声に抑えた怒気を感じて、ますますオルゲルは恐くなった。いっそ走って逃げたい。あの時はどうしても一人になりたかったが、やはりバルバラと離れたことを悔やんだ。

 あの日の谷とそして今と。二度も命に関わる局面でおとなしくしていられなかった自分を、オルゲルは呪った。

 すると俱李が叫んだ。

『来るぞ、オルゲル!』

 通りの向こうから激しいエンジン音が聞こえてきた。車線をぐいぐいと変更しながら、真っ赤なオープンカーがこちらへ向かってくる。今にも事故を起こしそうな運転に、道行く人誰もが思わず見ていた。ラウルもそちらに気を取られた。今だ、とオルゲルは脱兎のようにその場から走り出した。背後から聞こえてくるラウルの声も、オープンカーの走行音にほとんどかき消された。

『オルゲル、あの車ゲンザが乗ってる。バルバラも。もう一人は鉄枝のマネージャーだ。お前を迎えにきたんだ』

(えっ?)

 若い美女の姿が運転席にあった。互いに目が合うとオルゲルは車が停まっていない箇所で足を止め、するとオープンカーもオルゲルのそばで停まってくれた。バルバラが素早くドアを開けると、オルゲルはそのまま乗りこんだ。赤い車は、それからすぐに走り去った。

 居心地の良い車だった。車種に詳しくないのでオルゲルには分からなかったが、見るからに高級そうだった。黒い皮のシートは座っても全然硬くなく、ヴァンダの軽トラのシートとは大違いだった。スピードがもっと緩やかだったらさらによかったが。

「すみません、勝手なことして」

 オルゲルがまず謝るとバルバラは一瞬恐い顔をしたが、もういいさ無事だったんだし、とだけ言った。

「私は用があるからもうここで帰る。あとはナディアに任せてあるから」

 赤信号で止まった時、バルバラはオルゲルにそれだけ言って車からさっと降りてしまった。オルゲルは「じゃあまた燕巣で……」とだけ言うのが精一杯だった。

 運転席の彼女が振り返った。

「はじめましてオルゲル。私はナディア。ここまで大変だったわね」

 彼女が喋るたびに細いチェーンのついた髪飾りが揺れるのがオルゲルはかわいいと思った。

「こちらこそ、助かりました。ありがとうございます。あの、ところでゲンザさんは? さっきこの中にいるかと思ったんですけど」

「ああ、ゲンザなら今ごろラウルといると思うわ。見えなかっただろうけど、途中で跳びおりたの」

「はあ……。なんだろう、大丈夫かな」

「あの人なりに話をつけようとしてくれるみたいね。まあそんなことより、私は鉄枝のマネージャーよ。これから鉄枝があなたに会いたいって言ってるから、よろしく」

 話についていけないオルゲルをよそに、赤い車は町中を走り抜けていった。

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