第51話

 生まれて初めて本物の鉄枝を見るからには、一切濁りのない目で見なければ済まなかった。しかし昨日のわくわくした気持ちはもうどうあがいても戻ってこなかった。いっそ泣きたい。例え腫れぼったい顔で鉄枝を見る羽目になったとしても、この顔から何かが流れ出て少しでもこの濁りが透きとおってくれるのなら。

 オルゲルの感情などお構いなしに緞帳は動き出した。すでに場内は暗い。その闇の中、無数の糸で作られた月の空が静かな瞬きを見せた。

 緞帳がゆっくりと上がっていく。最初に来るのは女主人ミュリエルの農場で働く農夫たちの場面。農夫たちが不満を抱えながらも監督者たちにへつらっているところへ、赤いドレスをまとった鉄枝が出現する。

「お前たちもろが一のことをやる間に、私たちは十のことができる。忘れるでないよ、この土地をお前たちに任せるのは私の慈悲だということを。土も泥も私からの施しだということを」

 物語の内容も、このミュリエルのセリフも、本当の意味ではオルゲルの頭の中に入ってきたとは言いがたい。ただ、今さっきのやり切れない気持ちを忘れたわけではないのに、鉄枝があらわれた途端にオルゲルの全神経が鉄枝を受容することしかしなくなった。

(違いすぎる……、映画とも写真とも)

 今までオルゲルが見ていた彼は一体なんだったのか。無量寿は別に超能力者ではない。あくまで普通の生き物だ。しかしだとしたらこの鉄枝が起こした現象をなんと説明すればいいのだろう。本当に彼は地上の存在なのだろうか。

 さっきから手足が冷たい。この空気は一体なんなんだろう。吸っても大丈夫なのだろうか。

 ミュリエルは金と権力を持て余し、自分の理想を投影した骨翼白鳥しろとりの建造にとりつかれている。人を人とも思わない冷酷な彼女は、建造の陰で大勢の人間が事故死していても意に介さない。

 鉄枝の演技はあくまでミュリエルを悪役として捉えているように見える。にも拘わらず、見ている間はこの女主人のせいで破滅しても構わないという気持ちになってしまう。

 オルゲルの視線の先で、鉄枝は一人だけ異空間にいるようであった。途中からもう物語の内容は頭に入ってこなかった。


 休憩を挟んで物語は後半となった。鉄枝の出現によってまた世界が変わる。オルゲルにとってこの観劇はすでに物語を鑑賞するものでも、スター鉄枝の姿や振る舞いを愛でるものでもなくなっていた。鉄枝の内なる力が霧となって満ちていき、現実の光景が視界から霞んでいくのである。感じられるのは鉄枝と自分の存在だけだ。

 物語の最後は鉄枝の舞で終わるようになっていた。この物語の最後に披露される鉄枝の舞は、彼が本来売りにしている派手な立ち回りはない。動きはとても小さく、しかもそれぞれの動きに大きな違いもない。傍目には同じことをずっと繰り返しているように見える。歌もセリフもない。その動きに、その停止に、どんな意味がこめられているのか、何を語っているのか。しかしこの一見小さく単調な舞を目の前に、オルゲルはずっと涙が止まらなかった。

 オルゲルは気づいた。ずっと二人でこの舞台を眺めていた。無量寿ではなかったオルゲルと、無量寿のオルゲルと。一人は夢を叶えられて喜んでいる。不老不死の神秘の人が起こした奇跡を目にして感激している。もう一人はこんなはずじゃなかったと失意の中にいる。だが失意の中にいるオルゲルには、鉄枝のいる暗野が見える。果てしなく広く暗い場所。光を呼ぶためには己に火をともすしかない彼の世界。それは無量寿ではないオルゲルには分からないものだ。

 無量寿のあなたがなぜこんな国のスターでいるの。

 何を見ないようにしたの。

 何を聞かないようにしたの。

 どんな気持ちだったの。

 人をこんな気持ちにさせるものを生み出せる人がこの世にいる。自分と同じ時代に生きている。

 彼にこんなものを作らせたこの世界は滅びるべきだ。オルゲルはそう思う。だがこうも思う。この人が存在している限り、世界は存続する価値がある。


 終演後は客席総立ちであった。しかし舞台の終わりと共にオルゲルの気持ちは現実に帰った。周囲の熱狂をよそにオルゲルは一度も拍手をせず、次々あらわれる共演者や鉄枝をただ無為に見送っていた。バルバラはそんなオルゲルにしばらく声をかけられないでいた。

「もう出ましょう、バルバラさん」

 オルゲルはさばさばした表情で言った。アンコールが繰り返されていたが、オルゲルは席を立った。バルバラもそれについていった。

 このアンコールの繰り返しが終わったら、人々は口々に舞台の感想を口にするだろう。オルゲルは今ここにいる人間たちの鉄枝への言葉を、それが賛辞であろうとなかろうと一切耳に入れたくなかった。

 二人とも早めに席を立ったとはいえ、ほどなく大勢の人が同じ方向へと流れてきた。そのせいでオルゲルとバルバラとの間に少し距離ができた。なるべくバルバラのそばにいなければならないことは分かっていた。しかしその時オルゲルの心の中で何かが切れた。

 オルゲルの足は燕のような素早さで駆けだし、背中に目がついているかのように、巧妙にバルバラの視界から姿をくらました。バルバラは大声でオルゲルに呼びかけたかったが、オペラニアの人ごみの中で彼女の名前を叫ぶ勇気はなかった。

 何よりバルバラの心に魔が差した。このままオルゲルがいなくなってくれれば、私たちの世界はいっそ平和だ。

 しかしバルバラはすぐに正気に返った。

(何考えてんだ、私は……!)

 この町でだけはオルゲルを一人にしてはいけない。それをバルバラは身をもって知っている。

 町中に繰り出した他の無量寿たちにバルバラが連絡をとろうとしたところに、ゲンザがふらりとあらわれた。

「俺が追いかける」

 バルバラはばつが悪そうな、だがそれでもほっとした顔で「どっちに行ったか分かるのか?」と言った。「ああ。お前はここで待っていてくれ」

 オルゲルが大丈夫そうなのはバルバラにはよかったが、それはそれとして落ち着き払っているように見えるゲンザに八つ当たりをしたくなった。

「ゲンザ、なんでダウングレードのことをオルゲルに事前に話さなかったんだ。無量寿席のことも。てっきりお前が先に話しているものと!」

「あれは上演開始十分前がリミットだろう。お前たちの往路のスピードとタイミングをはかって、これなら知らずに済むと思ったから黙っていた。今日一回こっきりの観劇だろう。知らずに済むんならその方がいい」

「ルール変わったんだよ。今は五分前だ」

「なんだと」

 そのゲンザの声は本当に狼狽していた。まあでも席は取られずに済んだよ、とバルバラが言っても彼に安堵はなかった。

「ひとまず追う。ラウルがこの辺にいるのも気がかりだ」

 その声とともにゲンザの姿は消え、バルバラは取り残される形となった。ゲンザが行くのなら自分は足手まといになるだけだろう。ただバルバラは今回滝鶴に言われて別の命も帯びていたから、本当は追った方がいい。

 ラウルが振り回して涙の谷に落としたカブトワリを実はゲンザが持っているらしいから、その証拠を摑んでみせろ。滝鶴からはそう告げられていた。

 滝鶴からカブトワリのことを言われた時、バルバラは全身の血が逆流するかと思った。百年と少し前、各地で治安が不安定になりだしたころ、ゲンザは人間を殺せという女王の命に背いてカブトワリを振るわなかったのだ。一番肝心な時に手を汚さなかったくせに、今さら己の身一つでどこぞのカブトワリを抱えていくという。

(格好をつけたつもりか、ふざけるな)

 ラウルとゲンザがこの町に揃っている。カブトワリのことを探りたければゲンザを追った方がいい。

 ゲンザがカブトワリを持っていたという事実をつきとめたところで滝鶴はそれを言いふらしたりはしない。ただ滝鶴は名のある乗組員の弱みはいくつでも握っておきたいのだ。

 滝鶴の意図を理解しつつも、彼女からの言いつけだけで動くのはバルバラとしては癪でもあった。

 不意にバルバラの後ろから声がした。

「あら、ねえ、バルバラさん!」

 一人のすらりとした美しい女性がそこにいた。金髪がかった栗色の髪を後ろで丸く結っている。切符のダウングレードのことがあったので、その件でまだ何かあるのかとバルバラは身構えたが、女性はここの係員ではなさそうだったし、害意もなさそうだった。それ以前に知っている相手だった。

「えっ……? あ、ナディアか!」

 久しぶり、と言ってナディアはバルバラを抱きしめた。

「ねえ、鉄枝がね、あの燕巣でドリントに帰るオルゲルに会いたいって言ってるの。楽屋に来て欲しいんだけど、彼女どこ? あ、オルゲルのことは後で私が責任をもって燕巣に送り届けるから心配しないで」

「え、いきなりだな」

「まあ鉄枝のすることだから」

「あいつが知ったら大喜びする。ただ、オルゲルは今ちょっと」

 バルバラはナディアにさっきのできごとを話した。

「ゲンザが追いかけてくれている。そのうち戻ってくると思う」

「それなら大丈夫ね。それにしてもオルゲル、かわいそうに。うんとサービスしてあげたいわ!」

「うん、頼むよ……」

 ナディアと話している間にバルバラの気が変わり、やはりゲンザを追おうと思った。オルゲルの面倒は誰よりも自分が見なければならない。少なくともドリントに帰るまでは。

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