第50話

 燕巣の窓から見た時のオペラニアの空港建物の巨大さにも驚かされたが、ビルの中にいるとまたその広大さ、最新の技術にオルゲルは圧倒された。ドリントの港のターミナルビルなど、ここに比べれば実にちゃちなものだと思えた。巨大なエスカレーターも、全く揺れずに上下するエレベーターも、動く歩道も、生まれて初めてだった。燕巣から感じられる科学の粋はまた異次元なので比較のしようもないのだが、人間の最新の文明もすごいものだと感嘆した。

 空港から市街地までの風景にもオルゲルは魅せられた。タクシーの車内では用心のために黙っていたが、大きな橋やビル、巨大な遊園地などは、ただ眺めているだけでも充分満足だった。しかしそれを顔に出すのはバルバラに対して気がひけた。車中では彼女をあまり見ないようにしていた。

 オペラニアには大きな劇場がいくつもある。最も古く伝統と権威があるローレル劇場、かつてはひとえ双人そうじんの劇場として名を馳せたパエトン劇場。今回の行き先はそれらの中でも最も大きく新しいアポロニア劇場であった。オルゲルが一番行ってみたいのはローレルだったが、アポロニアへの興味も同じぐらいあったので、今回それを体験できるのはうれしかった。

 道が混んでいたこともあり、タクシーは劇場のすぐ前ではなく、いくらか手前でおろしてもらった。どうせなら少しまわりをぶらぶらしたいと思っていたので、オルゲルとしてはちょうどよかった。

「私、夢があるんです。いつかおばあちゃんと妹と一緒にオペラニアの劇場で鉄枝の舞台を見るって。だから今日はその下見です」

 にこにこと話すオルゲルを前に、バルバラは浮かない顔をした。

「私なんかまたいやなこと言っちゃいました……?」

「いや、なんでもねえよ。ちょっとまわりを気にしただけだ。お前のことじゃない」

「あ、はい」

 劇場のまわりにはおいしそうなレストランや喫茶店が並んでいた。どれもたまらない。かわいい服や素敵なアクセサリーを売っている店もある。ウィンドウを眺めているだけでうっとりした。

 今アポロニアで上演中の作品は「長刀と赤い砂」という二百年ほど前のオペラニアを舞台にした時代ものだ。鉱山と広大な土地を持ち、大勢の人間の使用人にかしずかれる冷酷な無量寿の女主人ミュリエルが、彼女を仇とする人間の彦郎剣の剣士を何者かも知らずに用心棒として雇うことになるという復讐ものである。鉄枝が演じるのは女主人ミュリエルだ。これまでも繰り返し上演されてきた鉄枝の人気作の一つである。

 窓口には電光掲示板がついていて、回ごと、席種ごとの埋まり具合が可視化されていた。すみずみまでじっくり見てみると、掲示板の下の方に「ダウングレード待ちを希望の方は窓口にお申し出ください」などという注意書きがあった。これはよく分からなかった。並び具合から見てひとまず目当ての回は選り好みしなければなんとかなりそうだったが、それでも気は焦る。

(そう言えばこの回数券、席種が書いてないなあ。当日券と交換って言われたけど、実際どうなるんだろう。まあはなから高い席でなんて見るつもりないけど)

 そんな心配をしているとバルバラが言った。

「なあ、切符は私が取るから、お前、列から出て待っててくれ」

 買い方に自信がなかったこともあり、オルゲルは内心ほっとしながらじゃあお願いします、取り敢えず空いてるとこで、と言って回数券をバルバラに預けて列から出た。

 しばらく待つと切符を二枚持ったバルバラがオルゲルににっこりと笑いながら駆けてきた。

「ほらよ」

「ありがとうございます。わー!」

 程よい厚さを備え鮮やかな色が刷られた切符を左右の親指と人差し指とで持ちながら、オルゲルは後生大事に眺めていた。

「んなことしてる場合じゃないぞ。腹減ってるだろ。食うなら時間ないから、中の売店でなんかさっさと食わないと」

「あ、はい」

 ふと電光掲示板を振り返ると、取った回がすでに売切と表示されていた。人の列からため息が聞こえてきた。オルゲルはうれしくて「行きたくて並んでいる人には悪いけど、私たちラッキーだった!」と小声でバルバラに告げた。バルバラは「うん、よかったな」とだけ言った。

 オペラニアの劇場各地で売られているサンドイッチセットも楽しみの一つだった。これは劇場によって作りが違う。オルゲルはこれまた浮かれながら大いにかぶりついた。

 あっという間に食べ終わると切符に表示のある扉へ向かい、扉の近くにある案内を見て、席を探した。バルバラがすぐに指を差した。

「あれだ、あの黄色いカバーがついてるところ」

 言われたとおり、背もたれに黄色いカバーのかかった座席が二十席ばかりある一帯があった。

「この辺だけ黄色いカバーがついてるんですね。回数券用の席なのかな」

 バルバラは「まあそんなところだ」と素っ気なく言った。

 席がはっきり分かった後は、まだ少し時間もあるので、内装をじっくり眺めた。

 アポロニアの内装はそれほど凝ったものではなかったが、機能美を追求した美しさがあった。座席は全て赤いビロードでそこだけどこか古風に思えたが、クッションの内部には新素材が詰まっていて、座ると体が自然に合った。劇場全体に新しいビロードの匂いがうっすらと漂っていて、まだ芝居が始まらないうちから半ば夢の世界であった。

 緞帳は緑色をベースとしてそこに金糸や銀糸の刺繍で小さな花が描かれている。何を描いたものとも特定できなかったが、オルゲルにはそれが光詰草ひかりつめくさで覆われた月の天井に見えた。

 上演開始まで十分を切ると、辺りは着席済みが増え、ああいよいよだとオルゲルも気分が高揚していった。

 そんなころ、係員に連れられた二人連れの客がオルゲルたちのいる席の近くにやってきて、係員がオルゲルたちのそばで座っていた二人の客に話しかけていた。係員が何やら「あっちへ行け」というような手振りをしているようにも見える。オルゲルはとてもいやなものを感じて、横目にしながら耳をそばだてた。

「こちらの方々がダウングレードをご希望ですので、切符をお出しください」

 すでに座っている客に対し係員がスタンプを構えている。客は黙って切符を差し出した。すると係員はそこにスタンプを押した。

「このまま窓口へお出しいただければ返金されます」

今まさに座っていた二人は黙ったまま荷物を持って席を去った。そして係員に連れられた二人の客がそこに座った。二人の客はほっとしたように息をついて、「ダウングレード待ちにしておいて正解だったね」などと言いながらそそくさと手荷物を足元へ置いた。

(何……、今の)

 今の今まで光を浴びた宝石の中にいるようだったオルゲルの気分は、再び月の谷底に突き落とされたようになった。バルバラが小声で言った。

「ごめん、言い出せなかった。オペラニアでは無量寿は無量寿用の席しか利用できないんだ。それと、座れなかった人間の客が希望した場合は、無量寿の方がキャンセルしないといけない」

 オルゲルはその説明をなんとなく理解した。

(そうか。そうなんだ。それなら私はおばあちゃんやフリューと並んで見ることはできないんだ)

 バルバラが心底から同情してくれているのは分かった。彼女に対して「なんで先に教えてくれなかったんだ」と恨みごとをぶつける気にはなれなかった。オペラニアが無量寿にとってひどい所だという知識を自分は多少持っていたのだ。こういうことを予想できなかった自分の考えの足りなさをオルゲルは呪った。

 バルバラはこうも言った。

「引き換えのリミットは上演五分前までだ。あと一分かそこらだ。もう大丈夫さきっと」

 ちなみにどの客を立ち退かせるかは係員が適当に選ぶ。

 祈るしかないとオルゲルは思った。しかし一体誰に何を祈ればいいのか、言葉が浮かばなかった。ポケットの中の倶李には分かるだろうか。空気と人の動きに聡い倶李なら知らせてくれるかもしれない。

(ねえ倶李、分かる? ……でも黙っててね)

 倶李は無言だった。

 人からもらった切符である。また例え自分で買った切符だとしても返金されるなら損はない。

 オルゲルは思わずバッグの中のハンカチを探した。鉄枝の姿を肉眼で見たら絶対に泣くだろうからと、手持ちのハンカチの中でも特に上品で清楚な感じのものを持ってきていた。私は泣くのだろうか。泣きたいのは確かだった。でも涙は全く出そうになかった。

 美しい内装も今や全てがオルゲルの中で書き割りと化し、バッグの中のハンカチだけが形を保っていた。係員が近づいてくるのが視界の端に見えた。それはそのままオルゲルの肩をぽんと叩いた。

「そちらとあとお隣の方、こちらのお二人様がお座りになられますので、切符をお出しください」

 オルゲルが顔を上げると、係員とその横に見覚えのある顔があった。思わず声が出た。

「ラウル!」

 オルゲルが思わず大きな声をあげた一方でラウルの方も悲鳴をあげそうな顔をしていた。

「やっぱやめます! すみません、すみません! 出直してきます!」

 係員はきょとんとしている。ラウルの隣には一緒に来たらしい女の子がいた。彼女の方は「なんで。いいじゃない折角間に合ったのに」と、不服そうだった。

 ラウルは彼女の方を見て言った。

「俺はいやだ、やめる! 今日はやめとこうぜ! とにかく俺はこの回では見ない」

 ラウルはそう言って女の子の腕を引いていった。係員が何やら手続き上のことらしい説明をしながら、二人の後を追いかけていった。すると場内にアナウンスが響いた。

「ただいま上演開始五分前となりました。皆様、これよりは無量寿席とのお引き換えはいたしかねますので、ご了承ください。まもなく上演となりますので、皆様お席におつきください」

 もう始まる。この劇場のアナウンスで無量寿という言葉がこれ以上流れることはないだろう。

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