第46話

 静海を出発した翌日には燕巣はオペラニアの上空に入っていた。ただ燕巣が次に着陸する首都オペラニアはオペラニア国内でも西の端の方なので、今日丸一日はただオペラニア上空を飛ぶだけになる。


 朝食はバルバラと共に食堂へ行った。食堂内では特にラジオや音楽といったものは流れていなかったが、ミヤコの辞任会見が始まると、その音声は燕巣全体に流れた。任期満了まであと二年あるが、医師との両立が難しくなったことなどを理由に辞任する、というようなことを語っていた。記者から去年の交流試合中の事故を発端とする実質の更迭ではという質問が出たが、ミヤコは否定した。

 ニュースはまた残酷な事実を述べていた。区長は立候補した月の住人の中から選挙で選ばれるのだが、次の選挙では月の住人は立候補できず、地上の桂口の人間が立つ見こみだとのことだった。理由としては、ほとんどの月の在住者がすでに区長を努めており、月と地上との交流を促進するためにもそれがふさわしいからということだった。

 オルゲルにとってこんな形でミヤコの声を聞くのはとても堪えられないことだった。

 病院でミヤコと会ったのは、昨日か一昨日か。時差ができているので頭が混乱したが、少なくともあの時ミヤコは何も言っていなかったし、そんなそぶりも見せなかった。

 しかし会見内容よりも食堂内の雰囲気がオルゲルにとって最悪だった。ほぼ誰もが言い合っている。知らない言葉ばかりがとびかっているが、怒りに満ちていることだけは分かる。今にもそこら中で摑み合いが始まりそうなぐらいの険悪さである。

 わずかながらオペラニア語も聞こえてくる。いやでもオルゲルの耳に入った。

「月の区長に無量寿が認められないってどういうことだよ!」

「これじゃあ月が人間のものにされちまうぞ。月だけは俺たちのものだったのに」

「ミヤコの自業自得だろ。あんなイベントやって、案の定トラブル招いて、それが回り回ってこのざまだ」

「そういう問題じゃねえよ。ここ最近まあまあ寛大にやってくれた珀花でこれだぜ? 他でどんないやなことが起きるか分かったもんじゃねえ!」

 カウンターから選んだ朝食はまだフルーツポンチが残っていたが、食べる気になれなかった。

「私、帰る」

「ああ、私も行く」

 バルバラも辺りの殺気立った雰囲気を憂慮した。二人がそそくさと食器を片づけて食堂を出ていこうとすると、食堂内にいた男の一人が声をかけてきた。言葉は全く分からない。何か怒鳴っている。オルゲルは途方もない恐怖を覚えた。

 男は帯刀屋ではない。燕巣の設備部門の乗組員の一人だ。

 オルゲルは彼の顔をちらっとだけ見て逃げるように走っていった。

「おい待てよっ」

 オペラニア語の女性の声だった。オルゲルにとっては悪夢のようなことに、この二名の声に刺激された乗組員たちが次々にオルゲルの近くに来て進路を塞いだ。オルゲルたちは食堂の中へ戻されていった。例によって大半の人は何を言っているか分からない。その中に混じるオペラニア語の声がある。

「あんたが招いたことでしょうが! 最後までみんなの前で聞いていきな!」

「あんたが本当に無量寿として生きるってんなら、ここでこそこそするんじゃないよ!」

 オルゲルを庇いながら、バルバラが「やめろ!」と一喝し、オルゲルに大声をあげた老若男女三人を残らず投げとばした。帯刀屋の力を目の当たりにして、さすがに周囲の連中は後ずさった。

「トラブルを起こすな! こいつをドリントまで何事もなく送ると機長はミヤコにも誓った。お前らは機長の顔に泥を塗る気か! 下がれ!」

 紗白さじろの名を出すとさすがにおとなしくなった。

「おい、行くぞオルゲル」

 バルバラはそう囁いてオルゲルの肩を抱いてさっさと出ていこうとした。しかしオルゲルはそれを振り払った。

「今私のこと、こそこそって言った奴!」

 返事を聞くまでもなく、オルゲルは相手を見つけると体当たりをした。相手は設備部門のキャミーだった。不意を突かれたキャミーは床に激しく転んだ。その上にオルゲルがまたがった。

「誰がこそこそだ! お前こそ、この骨翼からたった一人で出かけたことあるのかよ! 言われなくたって私はこれからドリントで家族と一緒に暮らすんだ。いいかよく聞け! 私は月になんか行かないし、骨翼の乗組員にもならない! 地上で大っぴらに生きてやる!」

 オルゲルに下敷きにされながらもキャミーはどこか余裕ある表情でいた。そして嘲笑うような顔でオルゲルに言葉を投げつけた。

「あんたにそれができるもんか! ミヤコや機長に今ぬくぬくと守られてるくせに! どうせ一年もしないうちにあんたはここへ乞いにくるさ、なんでもいいから雇ってくださいってね」

 オルゲルがキャミーを殴ろうとすると、バルバラや数人がオルゲルを引き剥がしにかかった。

「なんの騒ぎ?」

 滝鶴たきつるの声だった。オルゲルにとってもバルバラにとっても、今はあまりここにいて欲しくない人物だった。

 バルバラが先に釈明した。

「ちょっと言い合いになっただけだよ。別に何も起こってない。そうなる前に私らで止めた。もうこれでなしだ」

 しかし滝鶴はそれには目もくれなかった。バルバラに摑まれた状態のオルゲルの前に立つと、

「やってくれたわねえ」

 と言うや、オルゲルを平手打ちにした。叩く音も激しかったが、オルゲルの肩を抱いていたバルバラにはその強さがただごとではないことがいやでも分かった。オルゲルの鼻と口の端からだらりと血が流れた。さすがにバルバラも青くなった。

「おい、なんだよ理由も聞かずに。いくらなんでもやりすぎだろ!」

「だったら面倒が起こる前に、帯刀屋がしっかりしなさいよ!」

 滝鶴はそれだけ言うと、あとは目もくれずに食堂のカウンターへ行ってしまった。

「大丈夫かオルゲル、医務室行こう」

 いやに優しいバルバラの口調が、オルゲルにはよけいつらかった。骨翼なんか嫌いだ、月の方がよほどよかった、と思ったが、もし月にいる間にミヤコの辞任が発表されたら、月の人々の態度も変わっていたのではと思え、さっき咄嗟に吐き出した怒りが、冷たいものに変えられて口の中に詰めこまれたような感じた。

 滝鶴の振る舞いにバルバラも内心では腹を立てていたが、オルゲルの扱いに関しては滝鶴はバルバラの直属の上司という関係にあたるため、反抗することはできなかった。それを抜きにしても、何十年とここにいる彼女は、滝鶴がオルゲルを今のごたごたの生贄にしたことを仕方のないことと捉えていた。滝鶴のような者があの場にいてああいう行動をとらなければ、もっと大勢の者がオルゲルを潰しにかかったに違いないのだ。この砦の中にはここを離れては生きられない者たちがひしめき合って何十年も暮らしている。滝鶴のようなやり方でなければおさまらないのが燕巣の現実であった。

 そしてオルゲルもまた彼女なりの現実を直視していた。どんなに最悪だったとしてもここは骨翼の中で、みんな自分と同じ無量寿である。骨翼の中でこのありさまなら、私はドリントで生きていけるのか。祖母や妹はどうなるのか。ヴァンダの会社の人たちは。


 医務室には行かなかった。オルゲルが雲雀に会わせて欲しいと言うので、バルバラは雲雀の部屋へオルゲルを送り届けた。バルバラはたった今何があったのかを雲雀に説明した。

「バルバラ、今のこと、包み隠さず機長にお話しするんだぞ」

 雲雀の言葉にバルバラが「え……」と呟くと、オルゲルがすぐさま「紗白さんには言わないでください」と言った。雲雀が「いやさすがに今回の件は機長の耳に入れておかないと。なんなら私が直に」と言うと、オルゲルは言った。

「知って欲しくないんです。とにかく紗白さんには知られたくないんです。お願いです、あの人には黙っていてください」

 困惑しつつも雲雀は「お前がそこまで言うのなら」と、紗白には今回の件を言わないことをオルゲルに約束した。

「バルバラ、私とオルゲルで話をするから、お前はもう行っていい。世話をかけた」

 バルバラは「はい」と言って、その場を離れた。

 雲雀は自室のドアを閉めると、

「座ってな、オルゲル。今布を濡らしてくるから。さすがに拭いた方がいい」

 雲雀からコップに入った水をもらい、傷に濡れた布を当てると、オルゲルの気持ちは少しだけ落ち着いた。しかし体に力が全く入らず、椅子に身を預けるばかりだった。

「公園に行きたいんです。そばについてってくださいますか?」

「そのために私のところへ?」

「はい。すみません」

「別に気を使う必要はない。頼ってくれていいんだから。でも、食堂からそのままバルバラと一緒に公園に行かなかったのはどうしてか、理由は聞かせて欲しいな」

 オルゲルはバルバラを信用していない。雲雀はなんとなくそう感じている。

「私はなんにも悪くないのにバルバラさんは一緒に怒ってくれなかった。私、絡んできた奴だってぶん殴りたかったのに、バルバラさんに止められました。おまけに滝鶴。あいつを一番殴りたかった。でもバルバラさんはその場をなんとかおさめるようなことしかしようとしなかった。私がぶたれからやっと怒ってくれたんです」

 雲雀の予想は当たっていた。オルゲルとしては当然の感情だろうと思いながらも、雲雀はバルバラを気の毒にも思った。

 滝鶴は毛虫だ、と雲雀は思っている。滝鶴本人もそれを自認しているように雲雀には見える。みんなの嫌われ役を演じて、トラブルを解決するのではなく潰していく。それで組織をうまく回しているつもりになっている。どうしようもない奴めと雲雀は思う。しかし彼女が機長付となってから揉め事が格段に減ったのも事実だ。紗白も他の管理職もなんだかんだと滝鶴をあてにして、なし崩しに今まできている。骨翼は普通の組織とは違う。どうしてもああいう奴を必要としてしまうところがある。しかしこうした環境にオルゲルを適応させようというのは間違っていると雲雀は思った。

「お前からすればバルバラがしたことは確かに中途半端だ。怒って当然だ。お前には本当にすまないことだ……」

「確かに殴ろうとしたけど、私、こんなぶたれるようなことしてません」

「私は滝鶴のところに行く。さすがにやりすぎだ。お前の前で謝らせる」

「それはいいです。そりゃぶん殴ってやりたいけど。もうあいつの顔なんか見たくないです。それに紗白さんや雲雀さんがガツンと言ったところで多分あいつ後悔なんかしないでしょ。だったらどうでもいいです」

 オルゲルは立とうとしてふらついた。

「大丈夫か、まだ血が……。無量寿は確かに長生きするし、病気もしないし怪我もすぐ治る。だけど痛みはあるし、ダメージがないというわけじゃない。無理はするな」

「公園に行きたいんです。それだけです」

 倶李に会いたいのだろう。その声が震えていたので、雲雀はただオルゲルのあとについていくだけだった。

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